世界と日本のスキー歴史館・歴史・年表・年譜 
インタースキー(国際スキー教育会議)の歴史


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参考資料:
◇「新・世界のスキー 第15回インタースキー野沢大会/報告書/1995/1/21→28
 SAJ/SIA共同編集 山と渓谷社 skier '96別冊 1995/10/30発行
◇「世界のスキー <第13回インタースキー カナダ大会報告書>
  第13回インタースキー日本代表団 編 1987年?発行
◇「岳に抱かれ生涯極楽スキー : 一途に一本道、一途に一事」(丸山庄司 著)
  丸山庄司 著 スキージャーナル社 2016年出版。
  P-195〜242「スキー年表(インタースキーを中心に)」にも、47Pを費やして詳しく載っています。
HISTORY OF INTERSKl
   参考資料
1951年(昭和26年) 第1回国際スキー教育会議(略称インタースキー)がオーストリアのツールスで発足(参加9カ国)。
 スキー指導に関する初めての国際会議。各国間の情報交換と人的交流の必要性の認識。講演とデモンストレーションの組み合わせ。特徴、ローテーション技術。
1953年(昭和28年) 第2回インタースキーがスイスのダボスで開催(参加10カ国)。スキー教育国際研究委員会発足。
技術の大論争、ローテーションが圧倒的。バインシュピールは発表されたが無視される。
1955年(昭和30年) 第3回インタースキーがフランスのパルティゼールで開催(参加13カ国)。オース卜リアが「パインシュピール技術」とショートスキー指導法を発表。国際委員会制定。
全日本スキー連盟(SAJ)が片桐匡、橋本茂生の2名を派遣。
「行動がすべてであり、議論は不毛である」がモットー
(「オーストリア・スキー教程」を発刊)
1957年(昭和32年) 第4回インタースキーがスウェーデンのストルリーンで開催(参加14カ国)。ノルディックの提唱と自然の出会いを協調。ドイツが身障者のスキーを発表。アルペン・デモでは、バインシュピールとローテーション技術の評価。
国際スキー指導者部会発足。
(「オース卜リア・スキー教程」が日本で発刊)
1959年(昭和34年)
シュテフアン・クルッケンハウザー教授
クルツケンハウザー
第5回インタースキーがポーランドのザコパーネで開催(参加16カ国)。
シュテフアン・クルツケンハウザー教授(オーストリア)の主張するバインシュピール技術が広がる。ウェーデルン登場、ジャンプ系技術が中心。
ドイツはラングラウフの国民皆走を発表、自由時間におけるスキーの重要性を主張
1962年(昭和37年) 第6回インタースキーがイタリアのモンテボンドーネで開催(参加19カ国)。
バインシュピール技術が定着、初めて比較デモンストレーション採用、6ヵ国が5名ずつ参加。
日本SAJから柴田信一、中沢 清、西山実幾、大熊勝朗の4名が参加。
1965年(昭和40年) 第7回インタースキーがオーストリアのパドガンスタインで開催(参加22カ国)。名実とも世界会議となる。スキーの全領域を包括する機構となる。
日本(S.A.J.)が国際スキー教育連盟(インタースキー)加盟。平澤文雄、丸山庄司、宮沢英雄、北沢宏明、斉藤城樹が日本代表デモンストレーターとして参加。中川 新がインタースキー理事になる。
1968年(昭和43年) 第8回インタースキーが、アメリカのアスぺンで開催(参加18カ国)。「世界のスキーはひとつ」の標語が生まれる。日本からは代表デモンス卜レーター 8名を含む30名が参加。南波初太郎がインタースキー理事になる。
 「世界のスキー・アスペンからの報告書」を、志賀仁郎が冬樹社(現スキージャーナル)より出版。(1968 750円 151ページ。カメラマン志賀さんの本だから当然で、写真中心のインタースキー報告書です)
(任意団体として、日本職業スキー教師連盟(SIA)発足。 )
1971年(昭和46年)
  1月16日〜23日
天野 誠一
天野 誠一
第9回インタースキーが西ドイツのガルミッシュ・パルテンキルへンで開催(参加21カ国)。日本からは50名他が参加。
 抱えこみ・送り出し技術(新しい屈脚抜重の技術)が、各国から発表された。
 西ドイツ=シュロイダー技術、フランス=アパルマン、オーストリア=ぺ−レン、
 スイス=OKテクニック、イタリア=セルぺンティーナ・スプリント、日本=CD型ターンを発表。
SAJ天野誠一、インタースキー理事となる。(後にSIA4代目会長1981〜96 2006/8/25没、享年89歳)
SIAから初めて代表者派遣。 インタースキーの3部会の職業教師連盟部会にSIAが加盟
1975年(昭和50年) 第10回インタースキーがチェコスロパキアのビソケタトりで開催(参加24カ国)。日本からは80名(代表デモンストレーター10名)が参加。福岡孝純、国際スキー指導者部会および国際学校スキー研究部会の委員となる。
あらゆる面でスキーの転換期であることが認識された。ノルディック・スキーの良さが言われた。フリースタイルスキー、子どものスキーの指導法論に注目。
 次の第11回の日本開催が決定。
1977年(昭和52年) 高鳥 修(後に国務大臣を務める)、インタースキー理事となる。
1979年(昭和54年)
  1月28日〜
第11回インタースキーが日本の山形県・蔵王で開催(参加23カ国)。参加3,024名、内日本から2,420名または2,520名(役員、地元関係者を含む)。日本代表デモンス卜レーターは30名が参加。友人の薄衣敏明さんもその一人。 (当HP管理人も、日本役員を務める。)
初の極東における大会。スキーを通じての創造と連帯の輪が広がった大会となった
1981年(昭和56年) 国際スキー指導者連盟(I.V.S.I.)オーベルストドルフ大会開催。日本からは福岡孝純、平川仁彦、藤本 進が参加。菅 秀文、インタースキー理事になる。
(文部省所管の社団法人として、日本職業スキー教師協会(SIA)が設立認可。)
1983年(昭和58年) 第12回インタースキーがイタリアのセストで開催(参加25カ国、または26ヵ国)。日本からは13名の代表デモンス卜レーターが参加。 (当サイト管理人のスクールに'82-'86所属の)薄衣敏明さんもその一人。
オーストリアはシュビンゲン技術を発表。
過去に、技術論の時代から指導方法論へ移行し、今回は合理的、単純化を狙った指導法の指向。
1985年(昭和60年) 国際スキー指導者連盟(I.V.S.I.)ウォカティ大会開催。日本からは平澤文雄、平川仁彦、佐藤正人、工藤雅照、細野 博、吉田幸一が参加。
1987年(昭和62年) 第13回インタースキーがカナダのバンフで開催(参加25カ国、2,500名)。
フランツ・ホピヒラ一教授、インタースキー会長となる。菅 秀文、インタースキー理事に再選。
SIAの代表デモンストレーターの一員として、当HP管理人の親友である大島清史、薄衣敏明も参加。
運営資金の75%を、スポンサー「ラバッツ・ビール」でまかなう新しい試み。また、同時通訳をFMラジオで流す、画期的なものだった。
1990年(平成2年) 国際スキー指導者連盟(I.V.S.I.)志賀高原で開催。
I.V.S理事会志賀高原で開催(ミニインタースキー)。
1991年(平成3年) 第14回インタースキーがオーストリアのサンアントンで開催。参加30ヵ国 3,000名
SIAの代表デモンストレーターの一員として、当HP管理人の親友である大島清史、薄衣敏明も参加。
技術、指導の方法論に加え、環境問題等の研究発表が注目された。
次の第15回インタースキーが野沢温泉村で開催決定。丸山庄司、インタースキー理事に選出。
1995年(平成7年)
  1/21〜28
第15回インタースキーが長野県・野沢温泉村で開催。参加35ヵ国 1,200名。次の第16回インタースキーがノルウ工ーのバイトス卜ーレンで開催決定。
ナショナルデモのショーへの変更、技術デモの専門的な内容。
スノーボードをはじめ、多種の用具を活用したデモンストレーションなど、用具の多様化。
◇なお、
9月1日、(財)SAJと(社)SIAの2団体によって「日本インタースキー委員会」を設立。
9月11日、スウェーデン・ストックホルムのインタースキー(国際スキー教育連盟)の理事会において「日本インタースキー委員会」の加盟が承認。
1999年(平成11年) ノルウェー開催の第16回インタースキー、ノルウェー・バイトストーレン大会へ代表団派遣。
テーマは「スノースポーツ イン チェンジ」 アルペンスキーだけでなく、あらゆる「スノースポーツ」へと拡大された。ノルディックの盛んな北欧の特色を活かしたワークショップが、好評だった。
2003年(平成15年) 第17回 スイスのクラン・モンタナで開催。
テーマは「スノースポーツの未来」。テーマが大きかっただけに、具体的に具現したものが少なかった。
韓国が次期開催国に決定アジアで3回目となる。
2007年(平成19年) 第18回 韓国・ピョンチャン 参加30ヵ国 779名。
テーマは「スノースポーツ フォー オール」。自然の中でいろいろな用具で、いろいろなスノースポーツ楽しもう。
2011年(平成23年) 第19回 オーストリア・サンアントン。
今までの大会の頂点に位置づけられる、素晴らしいいものだった。
ヨーロッパはインタースキーをリードしてきた実績がある。その中で、オーストリアのエーリッヒ・メルマー会長が再選された意義は大きい。
発表の中では、ドイツの地域スポーツクラブの活動がとくに注目された。

HISTORY OF INTERSKl(ISIA総会開催地)
開催年度 開催地開催国出欠代表出席者備考
第1回1971年 ガルミッシュ・パルテンキルヘンドイツ欠席
雪上含
第2回1972年 イソラ2000フランス杉山雪上含
第3回1973年 キッツシュタインホルンオーストリア杉山雪上含
第4回1974年 マルプンリヒテンシュタイン杉山・若林・黒岩雪上含
第5回1975年 リクスグレンセンスウェーデン杉山・土岐・黒岩雪上含
第6回1976年 パケーラベレースペイン杉山・土岐・黒岩雪上含
第7回1977年 パンフカ  ナ  ダ杉山・土岐・黒岩・見谷
第8回1978年 シシリーイタリア杉山・土岐・黒岩
第9回1979年 セルデンオーストリア杉山雪上含
第10回1980年 ロカルノスイス杉山・土岐・黒岩
第11回1981年 シルバンデルランチアメリカ杉山・土岐・黒岩
第12回1982年 アイグアグラバスペイン杉山・土岐・黒岩
第13回1983年 ティニュフランス杉山雪上含
第14回1984年 ボルトロージュユーゴスラビア杉山・土岐・黒岩
第15回1985年 クイーンズタウンニュージーランド杉山・土岐・黒岩・富井雪上含
第16回1986年 エビモアイギリス杉山・土岐・黒岩
第17回1987年 ファドゥーツリヒテンシュタイン杉山・土岐・黒岩
第18回1988年 アンドラ・ラ・ベラアンドラ杉山・土岐・児玉雪上含
第19回1989年 ブルダールノールウェー杉山・土岐・児玉
第20回1990年 バリローチェアルゼンチン杉山・土岐・児玉・平沢
第21回1991年 アンタリアトルコ杉山・土岐・児玉・平沢・小滝
第22回1992年 安比日本天野・杉山・土岐・児玉
第??回2008年 ジェソロイタリア馬渕・児玉(通訳)

◇出版されたインタースキー関係の単行本、雑誌、ビデオ

世界のスキー / 全日本スキー連盟. -- 平凡社, 1965
   (オーストリアのパドガンスタインでの第7回インタースキー報告書とHP管理人は推定します。)
インタースキー : 第9回世界スキー指導者会議報告書 / 全日本スキー連盟編 スキージャーナル, 1971 303p
世界のスキー 第10回インタースキーの記録 日本スキー教師連盟/編 講談社 1975年 1,260円 198P
アサヒグラフ 1979.3.2(第11回インタースキー大会)
世界のスキー : 第12回インタースキー報告書. -- 第12回インタースキー日本代表団. 182p (1983年?)
世界のスキー <第13回インタースキー カナダ大会報告書> 第13回インタースキー日本代表団 編 1987年?発行
世界のスキー サンアントンから'95野沢へのスキー界の潮流 第14回サンアントン・インタースキー公式報告書
   SAJ.SIA共同編集委員会/著 志賀仁郎/著 山と渓谷社 P-246 1991年12月 2,854円
「新・世界のスキー 第15回インタースキー野沢大会/報告書/1995/1/21〜28」 SAJ/SIA共同編集 山と渓谷社 skier '96別冊 1995/10/30発行
「岳に抱かれ生涯極楽スキー : 一途に一本道、一途に一事」(丸山庄司 著)スキージャーナル社 2016年出版。
   P-195〜242「スキー年表(インタースキーを中心に)」にも、47Pを費やして詳しく載っています。


◇製作されたインタースキー関係のビデオ

第10回インタースキー 30分 フエダプロダクション チェコスロバキアで開催されたインタースキー(世界スキー指導者会議)の記録映画。
ビデオ インタースキー野沢 日本の技術, (全日本スキー連盟 監、スキージャーナル、3262円 1995年04月)
インタースキー95 (1995)[ビデオ] (-) 小学館プロダクション (1995/03) ¥ 2,854
1987世界のスキー 第13回インタースキーの記録 フエダプロダクション 字幕ス−パー版 49分 ¥12,000


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