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より良いレッスンを求めて(掲載誌:今野スポーツ発行誌1986年度) 工事中  2004/ */**


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掲載誌:今野スポーツ発行誌(1986年度)
土方あきら(磐梯ひじかたスキースクール)


目次 P 1
はじめに P 2
その1 ヘボが教えても必ず上達する P 2-3
その2 出来の悪い生徒? P 3
その3 出来なくて当然 P 3-4
その4 もっとも易しい指導パターン P 4
その5 もっと楽しいレッスンを P 5
その6 人それぞれに P 5-6
その7 一番の問題点は何か P 6
その8 初心者のレッスンは易しいか P 7-8
その9 用具が滑りに及ぼす影響 P 8
その10 用具による指導 P 8-9
その11 足裏感覚的な指導 P 9-10

はじめに

 早いもので、私のスキーコーチとしてのキャリアは、既に20年以上になってしまった。若い頃の夏に出かけたオーストラリアやイタリアでの経験を入れれば、それに更に数シーズンがプラスされる。
 その間の春や秋には、フランスやイタリアの国家検定スキー教師の研修・受験コースや、アメリカでのスキー会議などに招待いただいている。またつい最近までの長い間、(社)日本職業スキー教師協会のスキー技術委員会の副委員長と委員を務めさせていだいたことも、世界のスキーの技術と指導法を広く知るために、大変によい経験になっている。
 指導には、指導法(メソード・理論)と指導方法論(テクニック・技)の二面がある。
 後者の実際の指導では、職人的な経験の積みかさねが重要だ。最終的には机上の理論ではなく、実際に指導することが血となり肉となり、コーチとしてのレベルの向上が出来るという考えから、シーズン中は毎日をスキー場で過ごすことを原則としている。しかしこの数年間は、自分のスクールの校長としての雑用に追われ、実際の雪上でのレッスン活動は半減している。
 そのため、はたして口で言うほどよいレッスンが、本当に出来ているのかどうかは疑問だが、これから少し、体験的レッスン論を思いつくまま述べてみたい。その多くは現状の指導と、コーチのレベルや意識に対する噛みつきというカタチをとるが、私自身のレッスンに対する反省でもある。
 以下にコーチという言葉が何度も登場するが、一般的なスキー教師またはインストラクターと全く同じ意味であることを、念のためにお断わりしておく。


その1 ヘボが教えても必ず上達する

 スキーとは易しくもあり、また難しくもある。その難しさの一因は、日常生活とはかけ離れたいろいろな要素の上に、スキーが乗っかって成り立っていることによる。
 例えば用具。ギブスのように硬く足首の動きにくいスキー靴。ジャィアント・馬場の靴よりもはるかに長いスキー板。常にカカトを浮かさずに行なう運動。どんなに磨きぬかれた床よりもツルツル滑る雪面。もし普段、坂を横切るとすれば足裏はベッタリと地面につけるはずだか、スキーでは必ず行なうエッジング。
 というような違いがたくさんあり、それらに初めて、しかも一度に出くわすのだ。初心者が坂を登るどころか、平地を歩くことすらままならないのは当然といえる。
 だから難しいのであり、反対にこういったことにさえ慣れていけば、みるみる上達するものである。この慣れに絶対必要なものは、実際に本人が体験する物理的な時間だ。それを忘れて、生徒さんの上達を全て自分の手柄にするのはいただけない。
 どれだけヘボがレッスンしても、本人の慣れのお陰もあり、必ず上達するだろう。しかし、そのコーチに習わず独習した方がもっと早く上達、という希少な可能性すらあることも噛みしめておきたい。もし別の指導者だったら、もっと楽に早く上達していたかもしれない。そのコーチにとって幸いなことに、同一人物が、同じ時に同一条件で、レッスン有りと独習のケースの結果を比較するは不可能なことなのである。


その2 出来の悪い生徒?

 それほど深い意味はないが、私は「生徒」という言葉はめったに使わない。普段はお客さんで、たまにお客さまか生徒さんと呼ぶくらいだ。それは、「教えてやる」式のレッスンに対する反発かもしれない。格好よいことを言えば、我々コーチが上達させて上げるのではなく、生徒さんが勝手に上達するのを、どれだけお手伝いするかがレッスンではないだろうか。
 「今日の生徒には、出来が悪くてまいった」式の言葉を、耳にすることは残念ながら少なくない。確かにそのコーチなりに上達させようと、一生懸命やったのかもしれない。しかし本当に生徒の出来が悪かったのだろうか。もし他の、もっと優秀なコーチが担当していたら、その結果はよい方に変わったいたに違いない。はたしてその原因は、コーチと生徒さんのどちらに多くあったのだろうか。
 現在の多くのスキーコーチには、そういったボヤキを言う資格などはないはずだ。もし生徒さんが上達しなければ、それはコーチ自身の恥と考える、厳しさと謙虚さが欲しいものだ。とにかく我が業界は勉強不足だ。


その3 出来なくて当然

 だいたい原点に戻ってみれば、スキーが巧く出来ないから、貴重な時間を使い、高い金を払って習いに来るのだ。
 だからお客さまは、巧く出来なくて当然である。それをいかに楽しく、簡単に上達させるかが、コーチ本来の仕事ではないか。
 この原点を忘れると、とんでもないことになる。しかも、毎日を何となく雪の上で過ごしていると、流れ作業の一環として愛情や誠意なしに、単に物を作っているのと同じようなただの作業になり、ころっとそこを忘れやすいものだ。十分に気をつけたい。
 そうなると不出来の生徒に対して、内心ではいら立ちが始まる。「何でこんな易しいことが出来ないのだろうか」と。その結果、楽しさも無くなり生徒さんはあせるか、ふてくされるか。出来るものも出来なくなり、より悪い方へエスカレートする。
 あたりまえ過ぎることだが、元々コーチの方がスキーは巧いに決まっている。それに加えて、手入れしたよい用具を使い、ブランク無しに滑り込み、感覚的にも肉体的にも出来上がっている。こういった、比較しようのないほどの大きなハンディーが、両者の間にはある。
 自分が初心者の頃、緩斜面を急に感じ、低速のスピードにおののき、中級者の頃はたかがパラレルひとつを覚えるのに、どれだけ悪戦苦闘したかを思い出そう。そうすれば「何でこんな易しいことが出来ないのだろうか」と考えることはほとんど無くなるだろう。決してバカにする意味ではなく、生徒さんは出来なくて当然と考え、そこから優しい気持ちでよいレッスンを組み立てたい。


その4 もっとも易しい指導パターン

 物事の本質を見ずに、外見上の結果から判断するのは簡単なことだ。
 例えば後傾の滑りに対して「身体が遅れているからうまくない、もっと体重を前に」という指摘。「だからもっと足首を曲げて」というアドバイス等はまだましな方である。しかしどちらも結果に対するだけのもので、その本質的な原因に触れていない。
 これではよく解釈しても、衰弱した患者に対して、栄養剤だけを与える医者のようなものだ。何故に衰弱したのか、身体に疾患があるのか、食生活が悪いのか等の本当の原因を探す必要がある。そうして、それに対する根本的な指導や治療がなければ、患者を完治させることは出来ないはずだ。
 たかがスキーのレッスンでも、こうありたいものだ。例えば、スキーがうまく回わせないために後傾になるケースは、よくあることだ。この時、結果の後傾を直接的に直そうとするのは、生徒さんにムダな努力をさせるだけだ。原因の、回わし方についてのアドバイスが正解である。
 欠点の指摘より、長所を伸ばす指導が好ましいのは常識。誰もが知っているが、より難しいことだ。そのために、コーチにとって易しい、楽な指導パターンに流れやすい。しかも多くは、ただ結果からだけの判断によるものである。
 現状のレッスンは、あまりにも生徒さんに犠牲を強い過ぎているように思える。スキー上達のために生徒さんができるだけ苦労しなくてよいように、楽にスキーが覚えられるように、コーチがもっと苦労すべきだ。


その5 もっと楽しいレッスンを

 レッスンというものは、決してつまらないほど質の高い、まじめなレッスンというものではない。教科書にしたって、決して落語より面白くてはいけないというはずはないのに、どうしてもこういった類のものはその傾向がある。その退屈なものであるという決めつけが、送り手・受け手の両者にあり、更に退屈なものへとエスカレートさせている。
 天候のよしあしだけでも、上達の度合いはかなり違う。その日の精神的なコンディションや、興味の度合いについても同じである。生きている人間が習う以上、メンタルな影響が大きいのは当然で、この面からもレッスンの面白さは重要になる。にもかかわらず、あまり採り上げられていない問題である。
 どうしたら退屈しないレッスンが出来るのだろうか。まず第一に、コーチ自身がレッスンは楽しいほどよいことを認識し、意識を変革することだ。そうすれば、せっかく苦労して勉強したからといって、コーチの自己満足のために、楽しいレッスンで演説や講義をぶつことも減るだろう。
 その上でもっと勉強をして、スキー全般と指導に対する知識を高め、更にそれを十分に消化しておきたい。それをベースにして経験を積み重ね、専門知識や専門用語などはほとんど登場しない、一つもレッスンらしさの凄みの無いものを私は理想にしている。あたかも表面的には不勉強で、人のよさだけでやっているように見えるレッスンが、である。
 また自信のないコーチほど、下らない、本当はあまり役立たない、時には間違ったりした注意(助言ではなく)を多く叫びたがるように思える。「弱い犬ほどよく吠える」という言葉があるが、それをまたレッスンらしいと喜ぶ生徒さんが多いのも、困ったものだ。


その6 人それぞれに

 十人十色で姿・形が違うように、滑り方、長所・欠点、その原因にもいろいろ違いがある。それをミソもクソも一まとめにするのは、大間違いだ。
 例えば頑丈な人ときゃしゃな人では、力の伝達もエッジングの効きも大きく違ってくる。前者はわりとつっ立った姿勢でもスキーを押さえることが出来るが、後者は標準以上にくの字姿勢を強め、更に上体もより被せることが必要になることもある。それに標準タイプを入れれば、3者が同じ状況でもっとも合理的な滑りをした時は、外見上は異なる3タイプの姿勢が生まれることになる。どれが正しいかではなく、この場合はどれもが正しいのである。
 「ゴールを決めておき、少し長く斜め前への横滑りをする。フランススキーを習ってきた人は少し上に上がり、オーストリアスキーで育った人は少し下に行く」という傾向があると、世界的なスキーの研究家J・ジュベール氏(グルノーブル大学教授、元フランスナショナルチーム監督)が発表している。それ以外にも、その人の育って来たスキー環境によって、各自の滑りは、よくも悪くも色付けられているものだ。
 こういったことを無視して、レッスンすることは出来ない。
 同じようなバラつきは、指導する側にもある。あることに対してオオストリアとフランスでは、片方はそれを欠点と見て、もう片方では問題にしない場合もある。この対比はこれ以外の別の国であったり、コーチ個人個人の考え方の違いであったりする場合もありえる。もし同一人物が習う国・スクール・コーチの違いによって、同じポイントについて褒められたり、けなさたりするとしたら、迷惑もよいところだ。
 そうでなくても長い時間をかけて身につけた癖を取り去ることは、困難な事業になる。全面改定をしようなんていうレッスンは、相手に苦痛を与えて、スキーの大きな喜びを奪うものである。若干の手直しでチューンナップにとどめたい。
 例えばターンのキッカケで、上体を大きく振り回わす人がいたとする。ただ振り回わしだけをやめさせても、苦労して直した時はそれを補う、別の欠点が生まれるに違いない。また本来はその根本的な治療が理想でも、例えば滑走日数の少ない生徒さんには、振り回わしを少なくするコツか、それが他の欠点を呼ばないような振り回わし方を教えるとよい。


その7 一番の問題点は何か

 スキーコーチやトップレーサーを目指して習いに来るのは、例外的なほんのごく一部の人だけである。そういう人たちの場合ですら、悪いところ全てを直そうというのは好ましくないし、だいたい不可能なことである。
 ましてや一般スキーヤーの場合、1シーズンに滑る日数は限られている。第一その目的は、面白くもない正しい教育を受けることではなく、限られた貴重な休暇を楽しく有意義に過ごすことにある。テクニックや上達は目的ではなく、手段である。そのためにひどい苦労を強いられるのは嬉しくないはずだ。
 仮に重大な欠点を幾つか持っていても、一度に複数の注意をすることは禁物である。その中のどれが一番大きな欠点か、またはどれが一番簡単に直せる欠点かを診断し、一つだけ助言をしたい。また幾つかの欠点は互いに独立したものではなく、関連性を持っていることがよくある。その時は、中心になっている問題点を発見できれば、自動的に他の関連している欠点も直ることが多い。
 あの聖徳太子でもスキーだけは、一度に幾つもの注意を受けたら、きっと戸惑うことだろう。


その8 初心者のレッスンは易しいか

 初心者のレッスンが決して易しいとは、私には思えない。もし初めてのスキーで悪天候、それも猛吹雪だったりすれば、二度とスキーをしたいと思わなくなるだろう。もしレッスンがつまらなくても、同じ運命だ。
 そもそも私達はスキーの大好き人間が集まり、この指導活動という仕事をしているはずである。元々スキーそのものが持っている大きな魅力、人力の及ばぬ自然の冬山と雪の持つ偉大さ・厳しさ・美しさ、仕事場や生活圏から解放される旅の魅力、新しい同好の士と一時を一緒に過ごす楽しさ、等などいろいろな魅力が秘められている。
 この素晴らしい、新しい世界の門を叩きかかった生徒さんから、それを知り、味わうチャンスを奪うことになる。
 実際のレッスンにはたいへんな難しさがある。スキーに限らずどんなことでも、初体験というものは、技術・肉体・精神など全ての面でたいへんな仕事になる。だから平地や緩い坂の歩行や登行だけでも、全身の力を使い非常に疲れるものである。くつ下が中でシワがよっていたり、バックルの締めがおかしかったり、足が擦れていたりするのに、我慢しているかもしれない。またその練習そのものを、退屈に感じているかもしれない。
 こういったことをいちいち「疲れませんか、くつ下は、バックルは、足は、、」等などと質問責めにしていたのでは、まともなレッスンにはなるはずがない。全く意識を払わないよりは確かに親切だか、それも程度問題である。できるだけ口を使わずに目で見て、早め早めに判断し、処置するのがコーチの実力である。
 生徒さんが巧く滑れずめげていないか、練習内容に退屈していないか等など心理的な面も、表情や態度や声等から判断したい。そして必要があれば励ましたり、やる気を起こす動機づけをしたり、練習を組み替えたりという、いわば名医のような臨機応変かつ適切な処置が要求されてくる。
 ところが現状の、スキー界の初級者レッスンはどうだろう。ほとんどのスキー学校でこのクラスを担当するのは、新人コーチで、それもアシスタントコーチと呼ばれる若者が中心になっている。本来ならこのレベルのコーチは、初めのしばらくの間は上級班を担当して、トレーニングを積むのが次善の策ではないだろうか。「私はまだ教え方が巧くありませんので、皆さんの鋭い目で私の滑りを見て盗んで下さい」といった感じで、我慢してもらうより仕方がない。
 何故これをやらないかというと、この新人コーチ達の大半が滑りのレベルも低く、上級班を担当したら、どちらが生徒さんだか分からなくなってしまうからである。それと各スクールの校長達が初級者レッスンの難しさ、重要性、責任等に対する認識が甘いからだ。その結果、もっとも指導は難しいが、絶対にコーチより下手が保証付の初心者のレッスンを担当することになる。
 各スクールのベストメンバーが、初心者・初級者班を持つ日は来るのだろうか。


その9 用具が滑りに及ぼす影響

 TV等でお馴染みのカーレースほどではないとしても、スキーでも用具の占めるウエートは非常に大きい。だからトップレーサーには専任のサービスマンが付き、丹念にスキーを仕上げている。エキスパートスキーヤーやコーチ達が、目の色を変えてチューンナップするのもそのためだ。この用具の影響は一部の特殊な人達だけでなく、一般スキーヤーに対しても同じである。
 スキーがネジレていれば左右対称の滑りは出来ないし、鋭すぎるエッジでは引っかかり、丸まったエッジでは横へ・下へと流される。エッジのバリや滑走面のちょっとした状態で、スキーが逃げたりシュテム状になったりの影響もある。
 ところがレッスンが始まると、この辺をころっと見事に忘れ、滑りに出た欠点を技術面の欠陥と決めつけ、追求する傾向がある。
 例えば不安定な滑りをしていて、その原因がスキー靴の締め不足なら、技術上の間違ったアドバイスは不要である。「もう少しバックルをしっかり締め直して下さい」のたった一言で十分だ。ちょっとしたエッジのバリの出方によっては、今まで出来ていたはずのパラレルが、テールが逃げてシュテムのようになることもある。それを「キミの基本が出来ていないから、、」という感じで、技術的な欠点として注意されたのではいい迷惑だ。
 もし用具が犯人だとしたら「その原因は用具の××に問題があると思いますが、今はこうやって滑り、技術的にカバーして下さい」と言うのが正解ではないだろうか。
 コーチとしての多少の技量がつけば、その滑りの問題が用具にあるのか、技術にあるのか、おおよその見当は簡単につくものだ。


その10 用具による指導

 前とは反対に用具の長所を積極的に利用した指導法もある。古くは「Ski in a Day」(クリフ・ティラー)がアメリカで発表されている。「1日でスキーを」のタイトルどおりに、ミニスキーを利用して非常な短期決戦で簡単に勝負をつけてしまおう、という考え方である。
 GLMは一時期、世界的に広まった有名な指導法だ。ミニからショートへという感じに、段階的にスキーの長さを変えながら上達をはかっていく。スキースクールとしては通常の数倍のスキーの在庫を抱え、担当コーチは何度かスキーを変えて上げるという手間がかかる。しかし前にも述べたように、レッスンは私達が楽をするのではなく、生徒さんが楽に、楽しく上達するためのものである。
 初心者・初級者には長いスキーは不要なだけでなく、時には精神的な威圧感すら与えることもある。それに対してこのレベルが滑る環境では、短い方が絶対的に有利である。この二つの指導法は、こういった考えに立脚している。
 今でも、初・中級者用のスキー靴は浅い方がよい、という迷信が一部に残っている。深いスキー靴は使いこなせず、悪い癖をつけ、上達も遅くする、といった理由である。ましてや十数年前ともなれば、この考え方はスキー界の良識?だった。
 「レベルに関係なしにある程度の絶対的な深さは必要だ」と考えたへそ曲がりが、当時としては非常に深いレーサー用の靴を初心者に履かせ、アメリカでは大規摸な実験に入った。私の方は非常に零細な実験だったが、どちらも得た結論は常識に反したものだった。しかも、こういった新しい用具を使っての、新しい指導法が分からなかったにもかかわらず、である。
 滑走面の溝なしスキーの発表は、たぶん私が最初のはずである。多少の苦労をしながら考えれば、用具面からの新しい指導のアプローチはまだまだたくさんあるだろう。
 例えば現在のトップレーサーと一部のコーチ達は、エッジの肩を落とし滑走面を僅かに台形状に仕上げる、ビベリングという新しいチューンナップをしている。その手間に悲鳴さえ上げなければ、むしろ一般スキーヤー、それも初・中級者にとっては理想的な性能だ。現在、用具から攻める新しい指導法としては、これなどは最たるものだろう。


その11 足裏感覚的な指導

 これも数年前に手をつけた私の実験的な指導の一つだが、よいとか悪いとかについては、全く触れない方法もある。ただその時に、足裏がどのように感じたかを聞いてみる。
 例えばプルークファーレンの入門。ごく簡単にポイントを説明し、後はすぐ実際に滑ってもらう。事情聴取ならないように注意して、「今、滑った時の足の裏はどんな感じですか」と会話をする。もし問題があれば、スタートの所でそれが自然に直りやすい位置や、姿勢をアドバイスして上げる。基本的にはただそれだけしかしない、一見も二見も手抜き風のレッスンになる。
 どのように感じるかも本人の自由だ。もしかしたら赤いランプがチカチカつくかもしれないし、足裏を斜めに撫でられくすぐったく感じるかもしれない。
 初めは質問しても、しばらく考え込むだけで答えられないことが多い。そんな時はすぐ雑談に切り換え、次に期待することにする。30分もすれば各自の感じ方で、いろいろな答えが返ってくる。目で見て判断する癖をつけてしまった上級者には、この足裏感覚は難しいことだが、初めからこのトレーニングに入った初心者には、一つも難しさはない。
 だんだん滑り込むうちに巧く滑れた時は、気持ちがよいとか、この感じがする、ということで自分で判断し、勝手に上達してくれるようになる。
 中・上級者に対しても基本的には同じだ。まずフリーの滑りを見て、何が最大の欠点かを判断する。それを直すにはどの斜面で、どんな練習(技術・回転半径・スピード等)をするのがよいか決めるところまでは、普通のレッスンとだいたい同じ。
 そして一言「滑走中に自分の足裏で、ターンが丸いか・丸くないかだけを感じて下さい」と。そのケースによって、シュプールが太いか・太くないか、気持ちがよいか・悪いか等など、このテーマが変わっていく。
 初めは足裏感覚が鈍感だから、こちらから見た感じと本人の答えとはかなり違うことが多い。要するにでたらめである。しかし、それが現在の本人の感じ方なのだから、絶対に異義をとなえないこと。回数を重ねる内に、次第に感覚が研ぎすまされて正確なものになる。
 ここまでくればしめたものだ。誰だってガクガクしている弧より、丸い滑らかな弧の方が気持ちよいに決まっている。体に切り傷を負えば、かさぶたができて傷口がふさり、自然に回復するように、誰もが自助能力を持っている。自動的に、それほど直そうという意識が無くても、気持ちよさを求めてよい滑りへと変身してくれる。
 これはコーチが上達させて上げるのではなく、まさに本人が勝手に上達する方法といえよう。また何故こんなことが可能かといえば、全く出来なかったことを、突然させようとしているのではないからだ。
 例えば丸い弧が描けないといっても、十数回転か数十回転すれば、必ず1つや2つは巧く滑っているものだ。それを本人に感じてもらい、その頻度を増やしてもらうだけのことである。
 別の表現をすれば、いつも実力をフルに発揮できるものではない。たいがいは実力の50%なり、70%なりしか出せないものだ。そのパーセンテイジをもう少し高めることが出来れば、結果的にかなりよい滑りに変わる。
 それが、自他共に飛躍に見えるだけのものである。レッスンとしては、確かに難しさはあるが、しかし巧くやれば楽しく効率のよい方法である。


以 上

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