スキーストックの歴史変遷 (06/05/29 20/06/27up)
1870年以前のストックについては、不明である。
資料として出てくる絵などでは、手に持っているものは弓矢や槍などである。
▼ノルウェー派スキー技術 テレマーク
1880 明治13年 クリスチャニア(今のオスロ)にスキー学校設立。(1877年の説もある)
ノルウェー派スキー技術の特徴、丘陵地に発達したものであまりブレーキが必要なく、その滑降も直線滑降型で、
停止技術としてテレマークとクリスチャニアを重視。
長いスキー、高い姿勢、ストックは2本杖方式。
これ以前については、不明である。
北欧も竹を産しないで、木製のストックが用いられていたハズである。長さやリングの有無も不明である。
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▼リリエンフェルト・スキー術 急峻なアルプスの山地に適した滑り
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マチアス・ズダルスキー
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1896 明治26年 マチアス・ツダルスキー(オーストリア。Mathias Zdarsky。マティアス・ズダルスキーとも表記。1856〜1940)が、「リリエンフェルト・スキー滑降術」(またの名は「山岳スキー術」)を公表。2〜5日で実用レベルに上がると、技法にも確信を持つ。
ツダルスキーが、最初の金属締具・リエンフェルト式締具を考案。(1893年/明治26年(または1895年)フリッツ・フィットフェルトによるフィットフェルト式締具の説もある)
短めのスキー、ミゾ無しの滑走面、2本杖から1本に改良。それまでの2本杖のノルウェー流の滑降技術には無かったシュテムによる技術体系を確立。
ヨーロッパでは竹を産しないで、木製のストックが用いられていたハズである。しかし1922年出版のある書籍によれば「ツダルスキーの一本杖(竹製、長さ約180cm)」の記載がある。(図9:Henry Hoek“Der Schi", Bergverlag Rudolf Rother, Munich,1922,p81)。即ち一部には、竹製ストックが使われていたことになる。
(
ズタルスキーとリリエンフェルト式****についての詳しい説明)
1911 明治44年 高田歩兵連隊でテオドル・エドレル・フォン・レルヒ少佐(オーストリア)がスキー指導をしたのも、、「リリエンフェルト・テクニック」。
このときの資料によれば、2本杖で、ストックの長さは、手を伸ばして先が握れるくらいの長さのスキーよりも、少し短め。
国産の材質は、竹製で、鉄製の石突きが付いているが、ストックリングは付いていない。
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▼アールベルグスキー術 シュテム
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ハンネス・シュナイダー
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1920年
ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)の「スキーの驚異」(映画)が発表され、二本杖のアールベルグスキー術が人びとのあいだに急速に広まっていった。
1924 大正13年
ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)が『スキーの驚異』(アールベルグ・バイブル)を出版(25,000部)。
回転技術はシュテム・ボーゲン、シュテム・クリスチャニア。
◇写真を見ると真っ直ぐなきれいな棒だが、1930年過ぎまでは木製のストックが用いられていたらしい。
またリングについてはかなり大きく、直径20cmくらいにも見えるが、長さについては少し長めに見えるが、現代と極端な違いは感じられない。
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▼前傾スキーへの突入(1930年代〜約30年)
スキーに開けた横穴に皮の前傾ベルトを通し、足首を縛っていた。当時の靴も締具もまったく前傾に適していなかったので、こういう方法でカバーしていた。しかしそれでも物足りないレーサー達は、2m近い長い皮ベルトで靴とスキーをしばり、前傾と足の固定を求めていた。
オールドスキーヤーには懐かしいラグリーメンである。
▼アントンゼーロス▼
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▼ ハンネス・シュナイダー
1930日本 ▼
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1930 昭和5年
旗門に赤・青・寅の三色使用を決める。
◇アントン・トニー・ゼー口ス(Seelos, Anton "Toni"。オーストリアのインスブルックの近郊、ゼーフェルドに生まれ)によって、テンポ・パラレル・シュプングが完成される
それまでのシュテムシュブングを基本とするアールベルグスキー技法に対する、立ち上がり抜重+ローティション+強い前傾によるパラレル・ターン。テンポシュブングと呼ばれた技法であった。その優位を競技会で証明していた。
(1930年そのものではなく、1930年代という説もある)
ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)来日(玉川学園の招聘による)。全国各地でのスキー指導行う。アールベルク・スキー術がスキー界を風びする。
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◇竹のストックと金属製のストック
◇ 竹のストックは、ヨーロッパでは珍重され、最初の頃のオリソビック冬期大会に出場の日本選手持参の竹のストックは、向こうの選手たちにひどく羨ましがられたと、その土産話のなかにあった。
日本からの冬季オリンピック初参加は、1928 昭和3年 「第2回サンモリッツ(スイス)大会」からなので、その頃か、あるいは少し後の話である。
しかし1922年出版のある書籍によれば1つの図版の中に、以下の3つの竹ストックの記載がある。(図9:Henry Hoek“Der Schi", Bergverlag Rudolf Rother, Munich,1922,p81)。
4.ツダルスキーの一本杖(竹製、長さ約180cm)
7.竹製で根の部分がグリップ、特大のリング付きのもの
8.ピルゲリー発案のストック(トンキン竹でアルミニウムのリング付き)、今日のストックの原型
即ち一部には、竹製ストックが使われていたことになる。
◇金属製のストック (不明だが、1930年頃か、あるいは少し後?)
(これはスチール・ストックのことであって、今あるジュラルミン・ストックのことではない)
竹を材料にスキーストックを生産していた(1940〜50年代)
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杖(つえ)やスポーツ用のポールなどを製造するシナノ(佐久市)。約100年の歴史ある、スキー用品の老舗で、スキーストックでは国内トップクラスのシェアを誇る。
スキーブームが最盛期を迎えた、1980年代後半から90年代初頭。そのころの国内ストック市場は年間320万組程度で、シナノの出荷量は100万組程度あった。
90年代後半にはストックの市場規模は70万組程度までに縮み、シナノの出荷量も20万組程度となった。倒産寸前の状況になったが、、。
同社は日本にスキーが伝わったばかりの1919年にスキー用品全般を扱う「信濃スキー製作所」として発足。スキー需要が激減した戦時中は、ゲタの修理などで苦境をしのいだ。戦後は竹を使ったストックの生産で市場の7〜8割のシェアを持っていた。
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◇ その後ヨーロッパでは、金属製のストックができて、これまでの木製ストックに代ったのは、ヨーロッパとしては自然なことある。
しかし、日本でも1964 昭和39年当時ですでに半分以上は、金属性ストックになっている。
この頃、竹のストックも、竹材を貼り合わせたより合理的なもの(合竹ストック)に代られて、このほうはスキーのエキスパートにも愛用されている。1960年頃にやってきたトニー・ザイラー持参のものも合竹ストック竹で、滞在中はずっと使っていたようである。
以前のような素の丸竹のものは、丈夫と安価を買われて、節の大きいゴツゴツした普通の日本竹のものが、スキー場での貸しスキー用ストックとして使用されているだけ。
すっきりしたトンキソ竹や篠竹は、あまり作られなくなって、スキー場でもシーズンごとに姿を消してゆくようである。
1962 昭和37年以降・合竹ストックの時代
私が初心者だった頃も含め、自分の記憶を頼りに以下を記しておく。
1962 昭和37年〜1965 昭和40年
まだ素竹のものを使っている人もいたが、売られているのは合竹ストック。学生時代で懐が貧しかったせいか、購入した合竹ストックが以外と柔=壊れやすい、という記憶がある。安価でもあった。
後半の頃は、スチールストック。太陽に反射してキラキラ光るのを見て、使用者を羨ましく思った。まだ重かった。合竹ストックの2倍以上、あるいは3倍くらいの価格だったのではないだろうか。
合竹、スチールとのどちらも、リングは籐でこしらえた輪に、シャフトとの連結には革のベルトが渡してあった。
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1966 昭和41年以降・ジュラルミン・ストックの時代
すでに私がプロの世界に入ったせいか、この頃からはいわゆる竹ストックやスチールストックを見かけることはなくなり、ほとんどがアルミ合金のシャフトになる。('76の用具カタログにあるのも、全てアルミシャフト)
このアルミ合金は、2006年現在に至るまで主力となっているので、少し説明をしておきたい。
但し、私がしっかり勉強したのは20年以上前のことなので、記憶に自信のない部分があることをお断りしておく。
もちろん後日、時間を作り調べ直す予定ではいるのが、もし誤りがあればお許し頂きたい。
水にも浮く1円玉もアルミなので、この素材のイメージは軽く、弱く、変形しやすい感じがある。
しかしスキーやストックの素材としての使われるアルミ合金とは、超高力アルミまたはジュラルミンと呼ばれるものである。強度の弱い
純アルミニウムに銅、マグネシウムなどを加え、熱処理を加えることにより、軽量でありながら十分な強度を持たせることができる。
その強度と軽さ、錆びにくさ、加工性などの長所から、航空機やケース類の材料に利用される。
このような優れた素材なので、今日までの長い間、主力となってきたのである。
かっては、高力アルミ合金78Sが高い価格のものに使われ、中間の製品には75Sが、安価なものには51Sが使われた。
'06シーズンを調べたら、高級品には超高力アルミ7001という素材が出ていた。
1970年、シナノが高級アルミ製ポールを販売開始。
当時の価格で¥8,000(今の価値で約¥32,000)。石突は軽量だが高価なチタンを採用。
'76頃では、
ホープレーサー(\8,000、高力アルミ合金78S)という名機があり、コルクグリップの握りの良さも含め、名声を博していた。
◇グラスファィバー
1970年前後のことだろうか、ヤマハ?がグラスファィバーをシャフトに使ったストックを発売したことがある。
以外と短い数シーズンで姿を消したのは、自分のスキーが当たって付けた傷などにもろさがあり折れやすかったから、
と記憶しているがあまり定かではない。
◇カーボンファイバー
カーボンファイバーが使われ始めたのはいつの頃からだろうか。わりと最近で、2000年頃からかも知れない。
カーボンファイバーという強い素材なので、少し心許なく感じるくらい細身のシャフトになっている。
('76ジュラルミンストックではシャフトの直径18mmがほとんどだが、
'06カーボンの場合は10.5〜13mm弱、'06競技用のジュラルミンでは16〜18mmがある)
まだまだ主流には成っていないが、少しずつ比率を増やしているが、かなりのウエートを占めるに至っている。
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◇リング大きさの変化
リングの役目は、突いたストックが深く雪に埋まらないためにある。深雪では大きい方が良く、アイスバーンではほとんど不要である。
昔から選手用のストックのリングは、いつも一般のものよりも小さめであった。これは深雪よりもアイスバーンを滑る選手用としては当然のことである。
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マチアス・ズダルスキー
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▼ノルウェー派スキー技術 テレマークの時代
1880 明治13年頃
長いスキー、高い姿勢、ストックは2本杖方式。
北欧も竹を産しないで、木製のストックが用いられていたハズである。長さやリングの有無も不明である。
▼リリエンフェルト・スキー術の時代
1896 明治26年頃
短めのスキー、ミゾ無しの滑走面、2本杖から1本に改良。
ヨーロッパでは竹を産しないで、木製のストックが用いられていたハズである。しかし1922年出版のある書籍によれば「ツダルスキーの一本杖(竹製、長さ約180cm)」の記載がある。(図9:Henry Hoek“Der Schi", Bergverlag Rudolf Rother, Munich,1922,p81)。即ち一部には、竹製ストックが使われていたことになる。
(
ズタルスキーとリリエンフェルト式****についての詳しい説明)
マチアス・ズダルスキーの写真でも分かるように、ストックリングは付いていない。それ以前も無かったのか、この流派の時代で一度消えたのかは不明。
▼アールベルグスキー術の時代
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ハンネス・シュナイダー
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1920年以降
ハンネス・シュナイダーの、二本杖のアールベルグスキー術が人びとのあいだに急速に広まっていった。
回転技術はシュテム・ボーゲン、シュテム・クリスチャニア。
◇写真を見ると真っ直ぐなきれいな棒だが、1930年過ぎまでは木製のストックが用いられていたらしい。
しかし1922年出版のある書籍によれば1つの図版の中に、以下の3つの竹ストックの記載がある。(図9:Henry Hoek“Der Schi", Bergverlag Rudolf Rother, Munich,1922,p81)。
4.ツダルスキーの一本杖(竹製、長さ約180cm)
7.竹製で根の部分がグリップ、特大のリング付きのもの
8.ピルゲリー発案のストック(トンキン竹でアルミニウムのリング付き)、今日のストックの原型
即ち一部には、竹製ストックが使われていたことになる。
またリングについてはかなり大きく、直径20cmくらいにも見えるが、長さについては少し長めに見えるが、現代と極端な違いは感じられない。
▼近年から現代(管理人のおぼろげな記憶よる)
1962 昭和37年〜1965 昭和40年
合竹、スチールとのどちらも、リングは籐でこしらえた輪に、シャフトとの連結には革のベルトが渡してあった。
サイズも大きく、直径で15センチはあったのではないだろうか。
1960年代の後半〜70年代の前半
自分の記憶を頼りにすれば、輪の素材はアルミ、またはアルミ合金で、シャフトとの連結には合成ゴムのベルトが渡してあった。
これが大半だったように思う。形状としては、(十字か)三つ又。サイズも大きく、直径で12〜13センチはあったのではないだろうか。
現代(2020)
競技用でリングの直径45mm、一般用で50〜55mmのものが多く、年代物が1本あり80mm。スクールのスキールーム内で、ざっとチェックした範囲の目安である。
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◇リングの形状
(図9:Henry Hoek“Der Schi", Bergverlag Rudolf Rother, Munich,1922,p81)
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図9解説:
4.ツダルスキーの一本杖(竹製、長さ約180cm)
5.アッシュ(とねりこ)のストックで.リングがなく一本杖としても利用可能
7.竹製で根の部分がグリップ、特大のリング付きのもの
8.ピルゲリー発案のストック(トンキン竹でアルミニウムのリング付き)、今日のストックの原型
10.硬質ゴム製の楕円形のリング付き
13.金属製で石づち付きのリング
管理人注:
資料は、
「著者 Henry Hoekによる(書名)“Der Schi(英語なら The Ski、日本語なら スキー)"、 出版社は Bergverlag Rudolf Rother(ドイツ ミュンヘン市)1922年出版の p81」。
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1962 昭和37年〜1965 昭和40年
合竹、スチールとのどちらも、リングは籐でこしらえた輪に、シャフトとの連結には革のベルトが渡してあった。
サイズも大きく、直径で15センチはあったのではないだろうか。
1960年代の後半〜70年代の前半
自分の記憶を頼りにすれば、輪の素材はアルミ、またはアルミ合金で、シャフトとの連結には合成ゴムのベルトが渡してあった。
これが大半だったように思う。形状としては、(十字か)三つ又。サイズも大きく、直径で12〜13センチはあったのではないだろうか。
'76の資料を見ると
いわゆる輪の部分は無くなり、開いた花びらや雪印状に整形した一枚物のプラスチックで、
軽量化のためにくり抜き中空部ぶんんを多く設けていた。素材は塩化ビニール?辺りだろうか。
'06メーカーHPを見ると、上記の形状品は姿を消し、大半が円盤状のものになっていた。
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◇長さの変化
1911 明治44年 高田歩兵連隊(新潟県)でレルヒ少佐(オーストリア)が、教授したスキーは「リリエンフェルト・テクニック」。
手を伸ばして先が握れるくらいのスキーの長さよりも、ストックは少し短めである。(1本杖で、鉄製の石突きが付いているが、ストックリングは付いていない。)
1922年出版のある書籍によれば「ツダルスキーの一本杖(竹製、長さ約180cm)」の記載がある。(図9:Henry Hoek“Der Schi", Bergverlag Rudolf Rother, Munich,1922,p81)
多分このように身長よりも長いストックの長さは、この「リリエンフェルト・テクニック」の1本杖の時代のみで、
それ以前も含めて、長くても最大身長以下、もっとはっきり言えば肩の高さよりも短めではなかったか、と想像される。
一般論としては、スキーの長さを決める以下のような法則がある。
*
(法則.1) 歩く、登るという時には、ストックは長めが便利である。
従って、リフトが普及する以前はそうである。日本で言えば、最初のスキーリフトは1946 昭和21年12月。1950年、または1951年にやっ民間人用として全国第2号。今日のような固定循環式スキーリフトの国内第一号の誕生が1952年。
この頃までは、嫌でも長めのストックが便利だったはずである。
*1961年以前は、私がほとんどスキー経験がないため不明であるが、
1961年以降の長い間、自分の脇の下に入る長さか、それプラス10cmていど。
*ベーレンの時代、腰掛けた低い滑りが流行ったため、ストックは短めになる。
1971年(昭和46年)にオーストリアがぺ−レン技術を発表。日本でも誤った理解によるしゃがみ込みのテクニックが流行。
低い姿勢で長いストックは引っかかり、使いにくいので短くなる。
目安としては、グリップを握りストックを立てた時に、肘が直角になるていどか、さらにもう少し短め。
*
(法則.2)コブの中では、短めのストックが有利である。長さについては、上記と同じ。
圧雪車が未開発の時代、および普及していない時代には、ゲレンデは荒れてコブは深くなり、従ってストックは短めになる。
国内での圧雪車は、1972年の札幌オリンピックで7台が採用され、それ以降に普及。
新潟県の石打スキー場では'76シーズンにはかなり普及していたが、猪苗代スキー場での導入は1980年代前半か、
あるいはそれ以降のこと。
この時代はいたる所にコブ斜面があるのかだから、突っ立った姿勢では滑れず、従ってやや短めが好まれた。
極論すればモーグラーは、さらにストックは短めになる。
*
(法則.3)きれいな圧雪斜面では、高い姿勢が合理的で、従ってストックは心持ち長めがよい。
1990年か、1990年代半ば以降になると、ゲレンデは毎日きれいに圧雪されるのが常識になる。
目安としては、グリップを握りストックを立てた時に、肘が直角になるていどか、さらにもう少し長め。
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◇その他
*フリーサイズ
2003年頃からだろうか、長さ調整の利くストックが増えている。例えば、「100〜123cm(フリーサイズ)」。
20年、10年前にも生まれたが、当時のものは重い、弱い、長さがずれてくるなどの欠点があり、ごく一部のメーカーが1商品を、という感じだったように思う。
最近のものは、通常の1本ものと比べても、使い心地にも遜色はない。それで長さが調整できるのだから便利である。
確実なシェアを占めるまで伸びるものと想像している。
*石突き
初めはストックの先端が壊れないための保護部品として生まれ、硬い雪でも突き刺さるためのものに変わっていったのではないか、と想像する。
私の知っている1965年以降で見れば、はじめは単純な砲弾型をしていた。この先がとがった形は、雪面に真っ直ぐストックを突く時は理想出来である。
しかし多くの場合は斜面で滑っている時に使うので、雪面に対して垂直ではなく斜めに接することになる。そうなると、時には先端の突起部分ではなく砲弾型の側面が接することになる。硬いアイスバーンでは、ストックの先端が雪に刺さらず逃げてしまう訳だ。
これでは具合が悪いので、改良を重ね、先端部分を切り落とした形の石突き登場する。簡単に言えば、砲弾の先端から数ミリの部分を切り落としたようなものだ。
これで雪面に対して斜め方向からの突きでも、石突きの角の部分が接して、逃げが無くなり刺さりやすくなった。
しかも、凶器のように危険な先端の鋭さが無くなるのだから、安全面でも好ましい。
このような基本的な形は、1980年代前半?には決まってきていたのではないだろうか。しかしよりしっかりグリップするように、あるいは雪を逃がすように溝を入れたり、ある雪質ではその溝に詰まった雪が凍りついて逃げることがあったりするのでその対策を、などなどの改良が続けられた。砲弾の切り口を正面から見た時、ただの円盤状ではなく、ダイヤカットを入れたりなどなど。
私が美津濃(株) に契約プロとしてお世話になった1981.8〜98.7の18年間という近年に至っても、こういう細かい改良は続けられていたのである。
*リング下から石突きまでの長さ
斜面でストックを突いた時、もしリングが大きければ最初にリングの端が雪面に当たり、石突きは雪面に刺さらずに逃げてしまうこともある。急斜面やコブ斜面の中では、この傾向が強くなる。
すなわち、リングの直径が大きければ、リング下もある長さが必要な訳である。しかしこの20年以上は、リングの直径は小さくなってきた時代である。しかし製品はリングが小さくなったのに、リング下の長さは以前のまま(=長すぎる)という傾向が、いつでも、どのメーカーでもあったように思う。
我々使用者の意見によって、後追いのかたちでリング下の長さも短くなってきたように記憶している。
(06/05/29 up)
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