世界と日本のスキー歴史館・歴史・年表・年譜 
世界と日本のスキー技術・技法の変遷史

  スキー学校と教師のお部屋
  おもろい話・いい話・いい加減な話   SKIスキーのいろいろページ


▼ スキー技術・技法の変遷 ▼
▼ノルウェー派スキー技術  テレマーク

1880 明治13年 クリスチャニア(今のオスロ)にスキー学校設立。(1877年の説もある)
ノルウェー派スキー技術の特徴、丘陵地に発達したものであまりブレーキが必要なく、その滑降も直線滑降型で、停止技術としてテレマークとクリスチャニアを重視。
長いスキー、高い姿勢、ストックは2本杖方式。


◇ノルウェー南部テレマーク地方に生まれたソンドレ・ノールハイム(Sondre Norheim 1825〜1897)は、固定型のスキー締め具を使うことにより、4千年続いた伝統的なスキーに終止符をうった。
 これによって、回転やジャンプをしてもスキーが外れることはなくなった。また、いわゆる「くびれ型」スキーを設計し、「テレマルク・スキー(板)」と呼ばれ、現在作られている全てのスキーの原型となっている。
 彼は、普通の滑りの中にジャンプや回転の技術を取り入れ。
 このソンドレとテレマーク地方の若者の活躍により、テレマークスキー術、(ジャブ着地での)テレマーク姿勢、テレマークスキー用具などの名前が付けられている。
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▼リリエンフェルト・スキー術  急峻なアルプスの山地に適した滑り

マチアス・ズダルスキー
マチアス・ズダルスキー
レルヒ少佐と連隊長の堀内大佐1911
レルヒ少佐と
連隊長の堀内大佐1911
1896 明治26年 マチアス・ツダルスキー(オーストリア。Mathias Zdarsky。マティアス・ズダルスキーとも表記。 1856〜1940)が、「リリエンフェルト・スキー滑降術」(またの名は「山岳スキー術」)を公表。2〜5日で実用レベルに上がると、技法にも確信を持つ。
ツダルスキーが、最初の金属締具・リエンフェルト式締具を考案。(1893年/明治26年(または1895年)フリッツ・フィットフェルトによるフィットフェルト式締具の説もある)
短めのスキー、ミゾ無しの滑走面、2本杖から1本に改良。それまでの2本杖のノルウェー流の滑降技術には無かったシュテムによる技術体系を確立。
急峻なアルプスの山地に適した低い姿勢と、回転技術はプルーク・ボーゲン、シュテム・ボーゲン。
転倒は山岳地の滑降では生命の危険をもたらすものとして、低速度、多回転、用杖技術に固執。



マチアス・ツダルスキーのボーゲン 1911 明治44年 高田歩兵連隊(新潟県)に配属されたテオドル・エドレル・フォン・レルヒ少佐(オーストリア。Theodor von Lerch, 1869年8月31日 - 1945年12月24日)が、スキー専修員(青年将校10名、あるいは14名の説もある)に教授したのも、ツダルスキー方式による「リリエンフェルト・テクニック」。
このスキーの特徴は、長大なノルウェー式と比べ全長が短く(手を伸ばして先が握れるくらい)、締具が頑丈で山岳地の急斜面の滑降に適しているということ。そしてストックが一本の杖であることが挙げられる。(ストックはスキーよりも少し短めで、鉄製の石突きが付いているが、ストックリングは無し。1922年出版のある書籍によれば「ツダルスキーの一本杖(竹製、長さ約180cm)」の記載がある。(図9:Henry Hoek“Der Schi", Bergverlag Rudolf Rother, Munich,1922,p81))
 レルヒは、ズダルスキーから直にリエンフェルト・スキー術を学んだ高弟であった。

 ツダルスキーの出身地であり、彼がテクニックを開発・普及させ、同時に用具も開発した地が、オーストリアのリリエンフェルト(Lilienfeld)地方。この名前をとり、リリエンフェルト・スキー術とか、リリエンフェルト式締具と呼ばれる由来である。
 この地には、ツダルスキー記念館(Zdarsky-Stuberl/Zdarsky Museum)(2021/7 リンク切れ)が建てられている。
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 フリチョフ・ナンセンが、「スキーでグリーンランドを横断」を1891年に出版。
 ツダルスキーはこの本に感銘し、リリエンフェルト(オーストリー)の山にこもり、約6年間のスキーの研究。やや幅広い短めのスキー板とリエンフェルト式締具も考案。滑ることを飛躍的に進歩させたリエンフェルト式締具は、完成までに150種類ほどの締具を制作・改良を繰り返した、と言われる。(杉山 進さん談)
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1910 明治43年
 オーストリアの陸軍大佐ゲオルグ・ビルゲリー(Georg Bilgeri 1873〜1934)は、ズダルスキーの技術とノルウェー流の技術を対立するものとは考えずに、両者を合わせて1つにまとめた。
 新しい締具を考案し、2本杖を採用し、テレマーク型スキーを取り入れて、軍と一般の指導にあたった。
 また1.2〜1.5mというショートスキーを、山岳登山に使用した先駆者である。
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▼アールベルグスキー術  シュテム

ハンネス・シュナイダーのシュテム
図 12 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
ハンネス・シュナイダー(Johannes SchneiderまたはHannes Schneider, 1890年 - 1955年4月25日) 1920
ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)の「スキーの驚異」(映画)が発表され、二本杖のアールベルグスキー術が人びとのあいだに急速に広まっていった。
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1924 大正13年
ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)が『スキーの驚異』(アールベルグ・バイブル)を出版(25,000部)。
回転技術はシュテム・ボーゲン、シュテム・クリスチャニア。
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◇アーノルド・ラン(イギリスarnold Lunn)は、シュナイダーのアールベルク・スキー術について次のように述べている。
  @重心を身体より前へかける(前傾)
  A正規の姿勢はミディアム・ホッケ(中位の屈身姿勢)
  B踵を意図的に上げない
  Cエッジを立てすぎない
  Dできるだけ両足荷重にする
  Eスキーを前後に開かない
シ ュナイダーは、バッケンへ深くブーツを押し込んでいるので、 踵を上げるテレマークは禁止し、テレマークはシュテム・クリスチャニアの上達を阻むとした。
また、ストックをついて内スキーを雪面から浮かすリフティッド・シュテムターンは教えず、シェーレン・クリスチャニアは絶対に使わないよう教えた。これらは全て深い雪の中を高速で滑るときに必要な事柄である。
今までのテレマークは、高速では不安定でかつ危険であった。
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アールベルク・スキー術の特性は、両足荷重のクリスチャニアを用いて、柔軟な脚部の動きで高速度のショックに耐え、クリスチャニアの主動力は脚の力とシュヴングであると主張した点にある。
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そして、高速の滑降には、ターンのきっかけとなる斜め前への伸身抜重による前傾及び中間姿勢としてのホッケ姿勢が重要であるとした。
これは高速のスピードに対しては、 2 m20〜30cmの長いス キーを履いてはいるものの、バインディングの踵が上がり気味なので後傾のリカバーはしやすいが、過度の前傾からのリカバーは、身体を縮めながら腰を引き、つま先でスキーを引き上げるようにもっていく必要があったからである。これにより前傾過度からのリカバーを可能とした。
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注:アーノルド・ラン(イギリスarnold Lunn 1888―1974)とは、
スキー研究家、著として『スキーの歴史』、『スキー術解説』、『スキー自由自在』、『スキーイング』1913、共著は「スノーシューズの奇跡(Miracle of the Snowshoe)」1926。今に残るクラッシックレース、アールベルク・カンダハー・レースを1928年創出し、アルペン競技の基礎を築いた。
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ハンネス・シュナイダーが考案した締具
図 13 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
◇1930? 昭和5年?頃
ハンネス・シュナイダーが締具を考案
『スキーの驚異(アールベルグバイブル)』(1924シュナイダー著、出版(25,000部))には、スキー用具の選び方とともに、締具はいかにあるべきかにかなり頁が割かれている。
スキーの長さは最長で 2 m30cmとし、 長いスキーの有利性を説いた。これは主として深雪を高速で滑るには適しているからである。
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締具については、ビルゲリーの時代から一転してスキーに横穴をあけて皮ひもを通している。シュナイダーは、微妙なアジャストができる皮ひもを最適とし、適切な締め具合と転倒したときのアローアンスが優れているとした。
そして、ノルディックやジャンプの締具と異なり、アルペン用は足を雪面から持ち上げた時にスキーがブーツの底とぴったりくっついてくるように固定すべきだと主張した。
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★シュナイダーの締具についての詳しくは、
 ハンネス・シュナイダーが締具を考案
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アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
◇アールベルグ・スキー術の誕生について
 ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider 1890〜1955)が17歳の時に、世界的な名手としてサンクト・アントンにスキー教師と招かれるが、まもなく第1次世界大戦(1914〜1918)勃発し、山岳兵として召集され、スキー兵の指導に当たった。
 1カ月で一人前のスキー兵に育て上げるために、ズダルスキー(リリエンフェルト・スキー術)とビルゲリーの考えを基礎に、独自の指導法=アールベルグ・スキー術を編み出したのである。
 その後1938 昭和13年 ナチスドイツが、オーストリアを併合。ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)は、アメリカヘ亡命。
 1939 昭和14年 ハンネス・シュナイターが、ノース・コンウエイにスキー学校開設。アメリカのスキーの新しい発展の力となる。
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▼前傾スキーへの突入(1920年代後半〜約30年)

締具と前傾ベルトの写真
締具と前傾ベルト
(注:図は近代のもの)

 スキーに開けた横穴に皮の前傾ベルトを通し、足首を縛っていた。
 当時の靴も締具もまったく前傾に適していなかったので、こういう方法でカバーしていた。しかしそれでも物足りないレーサー達は、2m近い長い皮ベルトで靴とスキーをしばり、前傾と足の固定を求めていた。
 オールドスキーヤーには懐かしいラグリーメンである。


1928 昭和3年
◆シュテム・シュブングの進化
 1928年、アーノルド・ラン(イギリスarnold Lunn)とハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)が協力して、アールベルグ・カンダハースキー大会が開催。それがアルペン競技の歴史の第一頁とされる。
 (◇詳しくは、クラッシックレースも参照)
 そこで競われたのは、シュテム・シュブングの優劣であった。オーストリア選手の圧倒的な力が証明されて、オーストリアはスキー大国と呼ばれることになった。
 そのスキー界にひとりの鬼才が現れた。インスブルック郊外のゼーフェルドの羊飼いアントン・ゼーロス(Anton Seelos オーストリア 1911年3月4日-2006年6月1日)である。彼はスラロームの名手として世界の注目を浴びていたが、シュテム・シュブングを進化させて、強い前傾と上体の順方向へのひねりによって、シュテム・シュブングより速く、しかも鋭いターンを生み出したのである。そのゼーロスの技法はテンポ・シュブングと名付けられ、パラレル・シュブングの基礎となった。
【日本のスキーを語る 連載41 志賀仁郎(Shiga Zin)】 シュテム・シュブングはいつ消えたのかより、この部分は参照)


アントン・ゼーロスの活躍、競技スキーとスキー用具の発達
    しかし、技術体系を確立には、あまり興味を示さなかった。
オーストリア、ゼーフェルト出身のアントン・ゼーロス(Anton Seelos オーストリア 1911年3月4日-2006年6月1日)は、いかなる流派にも属さないスキーの天才であった。彼は羊飼いであり、強靭な身体をもち、アールベルク・スキーにあきたらず、競技スキーに独自の境地を拓いた。
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1930年代に入ると、スキーレースが各地で開かれるようになったが、オーストリアのホシュックやヴォルフガングは、踏み固められたバーンでは、最初からパラレルで良いと主張した。
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図 14 スチールエッジ、踵があがらないバインディングar1930-1940頃 ?
図 14 スチールエッジ、踵があがらないバインディングar1930-40?
図 14 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
図 15 レース用のスキー板、先端の反りが少ない
図 15 レース用のスキー板、先端の反りが少ない
図 15 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
ゼーロスは、その豊かな素質に加えて、持ち前の探究心からスキー用具がスキーのコントロールに極めて重要であると考えた。これにはリフトやケーブルの発達により踏み固められたピステが出現したことと密接に関係する。
(土方の注:1935年、1936年にリフトが誕生し、ゼーロス39歳の1940年代に入ると欧州にもチェアリフトが架設されるようになった。)
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ゼーロスはその著書で、スキー用具についてきめ細かい指示を出している。
・スキーは合板のグリップ性の良いものが必要である。特に、トップは出きるだけ反りが少なくコンタクト性に優れたものがよい。またスチールエッジは必須である。
・締具はカンダハー式としてブーツをしっかり板に固定し、踵を固定する。
・ブーツは底やシャフトが丈夫で堅く、エッジングに対応できるものを使用する。
・ストックは軽く操作のしやすいものを使用する。
・滑走専用のワックスを利用する。
・風雪よけのゴーグル、サングラス、ウェア、グローブが必要である。
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ゼーロスのターンは、スキーは常にパラレル、立ち上がり抜重、アンティシペーション(回転初期のターン方向への先行的前投)、強い 前傾、早いターンの切り換えが特徴であった。
ゼーロスはシュテムの伝統ともいえる交互操作を巧みに使い、これに加えたアンティシペーションとターン終点の外傾姿勢で、エッジのコントロールを確実に行うようにした。
こうして、アールベルク・スキー術とは異なった、エッジングを効果的に使った現代の技術の先取りともいえる技術を確立した。 そして、これは踏み固められたピステに適した新しい技術であった。
しかし、数々の大会で抜群の成績を残したゼーロスは、 技術体系を確立するなどといったことにはあまり興味を示さなかった。
図 14 15 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
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土方の注:
ドイツ語は全く不明の私ですが、時代特定のために、図 14 15の下のコメントが気になりました。大体、以下のような意味?だろうと想像します。
原文
(図 14:Anton Seelos. Wilhelm Voelk: “Abfahrtslauf”, Wilhelm Limpert Verlag ,Frankfurt/M, 1954,pp18-19、図 15:同 pp11-13)
怪しげな訳文
多分、大体このような意味だろう。
(図 14:Anton Seelos. Wilhelm Voelk共著: “Abfahrtslauf”(ダウンヒルスキー), Wilhelm Limpert Verlag ,Frankfurt/M(出版社), 1954年, ページ18-19、図 15も同著 ページ11-13より引用)


▼アントンゼーロス▼
アントンゼーロス
▼ ハンネス・シュナイダー
  1930日本 ▼

ハンネス・シュナイダー1930(Johannes SchneiderまたはHannes Schneider, 1890年 - 1955年4月25日)
1930 昭和5年
旗門に赤・青・寅の三色使用を決める。
◇アントン・トニー・ゼー口ス(Seelos, Anton "Toni"。オーストリアのインスブルックの近郊、ゼーフェルドに生まれ)によって、テンポ・パラレル・シュプングが完成される
 それまでのシュテムシュブングを基本とするアールベルグスキー技法に対する、立ち上がり抜重+ローティション+強い前傾によるパラレル・ターン。テンポシュブングと呼ばれた技法であった。その優位を競技会で証明していた。
  (1930年そのものではなく、1930年代という説もある)
 ちなみに回転競技の旗門構成の「ゼーロスゲート」は、彼の名によるハズ。
ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)来日(玉川学園の招聘による)。全国各地でのスキー指導行う。アールベルク・スキー術がスキー界を風びする。


1937 昭和12年
オーストリアのK.ラインルト、T.ドアチエが「今日のスキー」を出版。ヨーロッパのスキーヤーに
大きな影響を与えた。(邦訳出版は、昭和16年)
 その技法は、前外傾+くの字姿勢のフォーム。
日本では、外国スキー用品・用具輸入禁止。
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▼前傾スキー+ローテーションのエミール・アレー

◇ゼーロスからエミール・アレー(Emile Allais)へ技法の継承
 ゼーロスは、あらゆる競技会に勝利を積上げていった。
 若者エミール・アレー(フランス)は、ほぼ2シーズンでゼーロスのパラレル・シュブング技法を習得。アルペン競技に参入し、大活躍。
 1937年、地元シャモニーでの世界選手権大会では、滑降と回転の2種目に圧勝。コンビネーションにも金メダル。世界一のアルペンレーサーとなっている。
 それまで、フランス人は誰も勝ったことのないアルペン競技でのエミールの活躍で、フランス中が沸き返った。
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▼ エミール・アレー ▼
エミール・アレ
エミール・アレのフランススキー術
◇オーストリーのシュテム技法と、フランスのパラレル技法
 アールベルグスキー術のシュテムに対し、フランスがパラレルを武器に大論争を挑んでいった。
1938 昭和13年 エミール・アレーが「スキー・フランセ」(フランス・スキー術)を発表および出版する。ローテーション技術が、世界を風びする。(1941 昭和16年2月に邦訳出版)
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1940 昭和15年
 オーストリアのK.ラインルト、T.ドアチエ共著の『今日のスキー」、福岡孝行により邦訳出版される。 (出版:登山とスキー社、発売:昭和書房、19cm 194P)(原本は1937年に出版)
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1941 昭和16年2月
エミール・アレー著「スキー・フランセ【新しい技法】」邦訳出版される。河合 武、松永武夫/共訳、改造社(原本は1938年に出版)(土方注(2016.2):SAJ公式サイト内にも「初版 昭15」と有るが、これは誤り)

第2次世界大戦(1941〜1945)


1950 昭和25年
SAJ『基礎スキー教科書』出版。猪谷六合雄、竹節作太、野崎彊、柴田信一他共著。前外傾とローテーション。
1951 昭和26年
 第1回国際スキー教育会議(略称インタースキー)がオーストリアのツールスで発足(参加9カ国)。
 スキー指導に関する初めての国際会議。講演とデモンストレーションの組み合わせ。特徴、ローテーション技術。
 当HP管理人 注:
 これからしぱらくは戦勝国フランス=ローテーション技術が、世界を席巻する。
 また、この後敗戦国オーストリアが打ち出した=バインシュピール技術との過度の対立、論争時代に入るが、第2次世界大戦の影響もあったのでは?

1952 昭和27年
『一般スキーテキスト』発刊、山本宇明男、栗林薫共編。特徴は、基礎回転からボーゲンとクリスチャニアへの道。
1953 昭和28年
第2回インタースキーがスイスのダボスで開催される(参加10カ国)。スキー教育国際研究委員会発足。特徴、ローテーション技術。
1954 昭和29年
フランスからピエール・ギヨーとアンリ・オレイエが来日し、全国10カ所で指導を行なう(旧・日本国有鉄道が招聘)。当然、ローテーション技術。
 オレイエは、1948第5回冬季五輪・新複合の金メダリスト。
1955 昭和30年
オーストリアが「パインシュピール技術」とショートスキー指導法を発表。『オーストリア・スキー教程」発刊。
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▼ レースの世界では、ザイラーなどのオーストリア勢大活躍の時代に入る

1956 昭和31年
第7回冬季オリンピック、コルチナ・タンペッツオ大会開催。トニー・ザイラー(オーストリア)がアルペンの三冠王になる。
子どもの頃から強い前傾・外傾を武器としてきた猪谷千春がスラロームで2位に入り、日本初のスキー・メダリストが誕生する。
1957 昭和32年
第4回インタースキーがスウェーデンのストルリーンで開催される(参加14力国)。
パインシュピールとローテーションの評価。国際スキー指導研究部会発足。


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▼ 基礎スキーではパインシュピール技術が広がる (ウェーデルンの時代の幕開け)

1959 昭和34年
第5回インタースキーがポーランドのザコパーネで開催される(参加16カ国)。
シュテフアン・クルツケンハウザー教授(オーストリア)の主張するパインシュピール技術が広がる。
『S.A.J.スキーテキスト』発刊。柴田信一、三浦敬三他。パインシュピール技術を採用。
ウェーデルンが登場、ジャンプ系技術が中心。
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▼ 卵型姿勢の誕生

1960年 昭和35年
スコーバレー(USA)のオリンピックで、ジャン・ビュアルネ(仏)は、最初のメタルスキーを使用して滑降の金メダル。
クローチングスタイル、卵形の姿勢が世界で初めて公開された。この姿勢を「ピュアルネの卵(型姿勢)」とも言うのは、そのためである。
このオリンピックに、HP管理人の友人・見谷昌禧さんも参加。
 当HP管理人 注:
 この辺りから、「ローテーション(=フランス・スキー術)か? パインシュピール(=オーストリア・スキー術)か?」という、長い大論争が収まっていく。
 パインシュピール技術が過度の外向、逆ひねりをとったのは、第2次世界大戦の敗戦国オーストリアとしての防衛思考も一因とか。戦勝国フランス=ローテーション技術に対するもの。

▼ アルペンスキーの世界では、仏が短い絶頂期
1960年、スコーバレー(USA)のオリンピック
 ジャン・ビュアルネは最初のメタルスキーを使用して滑降の金メダル、ギィ・ペリラはコンビで優勝。
 クローチングスタイル、卵形の姿勢が世界で初めて公開され、「ビュアルネの卵」としてスキー界を揺るがした。
1962年、シャモニーの世界選手権
 シャルル・ボゾン(男子回転)とマリエル・ゴワシェル(女子コンビ)が2個の金メダルを獲得
1964年インスブルック五輪
 マリエルとクリスチーヌのゴワシェル姉妹の金メダル(マリエルは回転とコンビで、クリスチーヌは回転で金メダルを獲得)と、
 男子大回転で金メダルを獲得したフランソワズ・ボンリュー。
1966年夏、南米チリのポルチーヨで行なわれた世界選手権
 フランスチームは8個ある金メダルの内6個を獲得。内3個はジャン・クロード・キリーが獲得。
1968年のグルノーブル五輪
 ジャン・クロード・キリーが3つの金メダル(三冠王)。キリーは億万長者になりレースから引退した。
'70、'71、'72年のワールドカップで、ネーションズカップを獲得。
1970年のミッシェル・ジャコを最後に、男女ともにワールドカップの総合優勝は未だに一人も達成してはいない。
(なお1997年、リュック・アルファンが高速系種目のみで男子ではキリー以来30年ぶりに総合優勝を達成。)

1968 昭和43年
第8回インタースキーがアメリカ(アスペン)で開催される(参加18カ国)。
パインシュピール技術が常識となり、『世界のスキーはひとつ』という標語が生れる。
第10回冬季オリンピック、グルノーブル大会開催。ジャン・クロード・キリーがアルペン三冠王となる。
面白いのは、世界の(基礎)スキー界はパインシュピール(=オーストリア・スキー術)になり、
(競技スキーの)オリンピック三冠王はジャン・クロード・キリーフランス人)。
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▼ 基礎スキー界では、誤った「しゃがみ込みテクニック」の時代はじまる

 同じ屈身系テクニックであっても、「しゃがみ込み」と「抱え込み」の形は似ているが、運動としては異質のものである。
1970 昭和45年
オーストリア文部省がサンクト・クリストフで『国際スキー教師講習会』を開催「ヴエーレン・テクニック」を発表。
1971年(昭和46年) 
第9回インタースキーが西ドイツのガルミッシュ・パルテンキルへンで開催(参加21カ国)。日本からは50名他が参加。
 抱えこみ・送り出し技術が各国から発表された。但し以下のように、名称は各国によって異なる。
 西ドイツ=シュロイダー技術、フランス=アパルマン、オーストリア=ぺ−レン、スイス=OKテクニック、
 イタリア=セルぺンティーナ・スプリント、日本=CD型ターンを発表。
パトリック・リュッセル
パトリック・リュッセル
◇ 抱え込み技術について、
 オーストリアの影響を強く受けていた当時の日本のスキー界(主にSAJ)では、ヴエーレン・テクニック(波のテクニック)の用語のほうが有名だが、本家はフランスのアパルマンである。
 1966年頃のパトリック・リュッセルは、低い変な滑りをするといったていどの、都会育ちのただの大学生レーサーだった。ところが69〜70年には、回転、大回転の国際レースをことごとく制覇してしまった。これはアバルマン技術と、それを可能にした特殊な靴のお陰である。(特殊な靴=深くて前傾が強い)


 この技術を最初に認めて、アパルマン技術として分析し、リュッセルを育てたのがジョルジュ・ジュベール(グルノーブル大学教授)である。
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▼ カービング・テクニック

  カービングスキー誕生年度ははっきりしないので、以下HP管理人の記憶と調べによる。
 詳しくはカービングスキーの誕生年度
カービングスキーの誕生年度は、1991年か、その少し前である。
 1992年4月、安比で開催された「第22回国際職業スキー教師協会総会」報告書の中に、「新しいスキー製品について スロベニア●マリヤン・ステーレ、ペーター・ステラー」という講演議事録がある。赤ボールペンで、「カービングスキー」という、私のメモ書きがある。たから、このとき初めて知ったのかも知れない。

 '91、'92の実業之日本と山と渓谷社の「用具カタログ特集」を調べて見たが、これらの中には「カービングスキー」の文字は見つからない。
1993年
 カービングスキーの原型として「エルゴ(オーストリアのクナイスル社)」と「パラボリック(スロベニアのエラン社)」が登場。その形状から、おしゃもじスキーと呼ばれた。
1997年頃
 はっきりとカービングスキーとうたわれたのは、この頃からだろうか。
HP管理人のスクールで1998年まで所属のコーチが、辞める前にカービング指導法・講習会に参加している。ロシニョールが主催で、カービングに力を入れ始めた時代である。
2002年頃
 いわゆるショート・カービングが登場。
透明スペーサー
透明スペーサー
余談ではありますが、
透明スペーサー
透明スペーサー
▼▼▼以下は、▼▼▼
上記のyahoo知恵袋での質問に対し、ストアンサーのyam********さんの回答の一部。貴重な情報ではあるが、公式な歴史資料では無く、博識な個人の方の意見である。
透明スペーサー
・クナイスルが発売した63pのショートスキー「ビックフット」のカービング感覚のコンセプトを取り入れたスキーを発売します。
・そのスキーは94/95年モデルのスーパーサイドカットと命名したエルゴ135Sです。
・この板がカービングスキーの最初の板で間違いないと思います。
透明スペーサー
エルゴ135Sに続いたのはエランでは無かったかと記憶しますが板の名称は失念しました。
透明スペーサー
96/97年シーズンモデルでは各社カービング系スキーを発売しています。
但し、カービングスキーと言う名称ではなく「ニューコンセプトスキー」となっています。
主立ったスキーでは
a.エラン SCP 15 MONOBLOCK 163〜193p サイドカット116/60/103mm
b.ロシニョール FUN 68 XS〜M サイドカット104/62/94mm
c.オーリン CATALYST 150〜180p サイドカット100/70/90mm
d.サロモン NEOBEAT Pr7〜PR3 サイドカット99/64/89mm

その他フィッシャー ダイナスター ハート ケスレー K2等もニューコンセプトスキーとしてサイドカーブの深い板を発売しています。
こうしてみるとエランが今時の板に近い形状のようです
透明スペーサー

透明スペーサー
◇ ちなみに初めての「くびれ型スキー」の設計は、100年ほど前の人でソンドレ・ノールハイム(1825〜1897)。詳しくはソンドレ・ノールハイム
◇(1991年頃) 世界中で1年間のスキー板販売数が約300万台。内200万台が日本で販売、という異常なスキーブーム。
ちなみにHP管理人(身長175cm)が使ってきたスキー長の変化
1990〜1998年203cmSLモード 198cm
1999年191cm
2000年184cm
2002〜2004年167cm
2015年〜
170cm

2019年〜
160cm


1998年=カービング突入時代のトップ選手のスキー長

(資料提供:ロシニョールジャパン 1998)


身長スキー/高速系ランキング
木村公宣180cm198/201cmナショナルチームA
石岡拓也176cm198/201cmナショナルチームB
平沢 岳178cm198/201cmナショナルチームB
高校生4名166cm184/191cmナショナルチームJr
榎並雪彦172cm184/191cmSAJデモ
竹鼻 建168cm184/191cmSAJデモ
和嶋光隆173cm184/191cm SAJデモ
山田卓也167cm184/191cmSAJデモ
佐藤ヒロミ163cm177/177cmSAJデモ
 98/99シーズンのナショナルチームのトップ選手ですら、身長+10〜25cm。高速系でも、身長+20〜25cmが中心。


 傾向として、毎年サイドカープがきつくなり、使用するスキーの長さも短くなり、140cmくらいまでに下がる。
 その辺りを境に、2003/04シーズンからは、トップレーサーでは少し長めに戻る気配が生まれる。


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