世界と日本のスキー歴史館・歴史・年表・年譜 
世界と日本のスキー技術・技法の変遷史

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▼ スキー技術・技法の変遷 ▼
▼ノルウェー派スキー技術  テレマーク

1880 明治13年 クリスチャニア(今のオスロ)にスキー学校設立。(1877年の説もある)
ノルウェー派スキー技術の特徴、丘陵地に発達したものであまりブレーキが必要なく、その滑降も直線滑降型で、停止技術としてテレマークとクリスチャニアを重視。
長いスキー、高い姿勢、ストックは2本杖方式。


◇ノルウェー南部テレマーク地方に生まれたソンドレ・ノールハイム(Sondre Norheim 1825〜1897)は、固定型のスキー締め具を使うことにより、4千年続いた伝統的なスキーに終止符をうった。
 これによって、回転やジャンプをしてもスキーが外れることはなくなった。また、いわゆる「くびれ型」スキーを設計し、「テレマルク・スキー(板)」と呼ばれ、現在作られている全てのスキーの原型となっている。
 彼は、普通の滑りの中にジャンプや回転の技術を取り入れ。
 このソンドレとテレマーク地方の若者の活躍により、テレマークスキー術、(ジャブ着地での)テレマーク姿勢、テレマークスキー用具などの名前が付けられている。
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▼リリエンフェルト・スキー術  急峻なアルプスの山地に適した滑り

マチアス・ズダルスキー 1896 明治26年 マチアス・ツダルスキー(オーストリア。Mathias Zdarsky。マティアス・ズダルスキーとも表記。 1856〜1940)が、「リリエンフェルト・スキー滑降術」(またの名は「山岳スキー術」)を公表。2〜5日で実用レベルに上がると、技法にも確信を持つ。
ツダルスキーが、最初の金属締具・リエンフェルト式締具を考案。(1893年/明治26年フリッツ・フィットフェルトによるフィットフェルト式締具の説もある)
短めのスキー、ミゾ無しの滑走面、2本杖から1本に改良。それまでの2本杖のノルウェー流の滑降技術には無かったシュテムによる技術体系を確立。
急峻なアルプスの山地に適した低い姿勢と、回転技術はプルーク・ボーゲン、シュテム・ボーゲン。
転倒は山岳地の滑降では生命の危険をもたらすものとして、低速度、多回転、用杖技術に固執。


1911 明治44年 高田歩兵連隊(新潟県)に配属されたテオドル・エドレル・フォン・レルヒ少佐(オーストリア。Theodor von Lerch, 1869年8月31日 - 1945年12月24日)が、スキー専修員(青年将校10名、あるいは14名の説もある)に教授したのも、ツダルスキー方式による「リリエンフェルト・テクニック」。
このスキーの特徴は、長大なノルウェー式と比べ全長が短く(手を伸ばして先が握れるくらい)、締具が頑丈で山岳地の急斜面の滑降に適しているということ。そしてストックが一本の杖であることが挙げられる。(ストックはスキーよりも少し短めで、鉄製の石突きが付いているが、ストックリングは無し)
 レルヒは、ズダルスキーから直にリエンフェルト・スキー術を学んだ高弟であった。

 ツダルスキーの出身地であり、彼がテクニックを開発・普及させ、同時に用具も開発した地が、オーストリアのリリエンフェルト(Lilienfeld)地方。この名前をとり、リリエンフェルト・スキー術とか、リリエンフェルト式締具と呼ばれる由来である。
 この地には、ツダルスキー記念館が建てられている。

 フリチョフ・ナンセンが、「スキーでグリーンランドを横断」を1891年に出版。
 ツダルスキーはこの本に感銘し、リリエンフェルト(オーストリー)の山にこもり、約6年間のスキーの研究。やや幅広い短めのスキー板とリエンフェルト式締具も考案。滑ることを飛躍的に進歩させたリエンフェルト式締具は、完成までに150種類ほどの締具を制作・改良を繰り返した、と言われる。(杉山 進さん談)

1910 明治43年
 オーストリアの陸軍大佐ゲオルグ・ビルゲリー(Georg Bilgeri 1873〜1934)は、ズダルスキーの技術とノルウェー流の技術を対立するものとは考えずに、両者を合わせて1つにまとめた。
 新しい締具を考案し、2本杖を採用し、テレマーク型スキーを取り入れて、軍と一般の指導にあたった。
 また1.2〜1.5mというショートスキーを、山岳登山に使用した先駆者である。
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▼アールベルグスキー術  シュテム

ハンネス・シュナイダー(Johannes SchneiderまたはHannes Schneider, 1890年 - 1955年4月25日) 1920
ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)の「スキーの驚異」(映画)が発表され、二本杖のアールベルグスキー術が人びとのあいだに急速に広まっていった。
1924 大正13年
ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)が『スキーの驚異』(アールベルグ・バイブル)を出版(25,000部)。
回転技術はシュテム・ボーゲン、シュテム・クリスチャニア。
◇アールベルグ・スキー術の誕生について
 ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider 1890〜1955)が17歳の時に、世界的な名手としてサンクト・アントンにスキー教師と招かれるが、まもなく第1次世界大戦(1914〜1918)勃発し、山岳兵として召集され、スキー兵の指導に当たった。
 1カ月で一人前のスキー兵に育て上げるために、ズダルスキー(リリエンフェルト・スキー術)とビルゲリーの考えを基礎に、独自の指導法=アールベルグ・スキー術を編み出したのである。
 その後1938 昭和13年 ナチスドイツが、オーストリアを併合。ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)は、アメリカヘ亡命。
 1939 昭和14年 ハンネス・シュナイターが、ノース・コンウエイにスキー学校開設。アメリカのスキーの新しい発展の力となる。
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▼前傾スキーへの突入(1920年代後半〜約30年)

 スキーに開けた横穴に皮の前傾ベルトを通し、足首を縛っていた。
 当時の靴も締具もまったく前傾に適していなかったので、こういう方法でカバーしていた。しかしそれでも物足りないレーサー達は、2m近い長い皮ベルトで靴とスキーをしばり、前傾と足の固定を求めていた。
 オールドスキーヤーには懐かしいラグリーメンである。


1928 昭和3年
◆シュテム・シュブングの進化
 1928年、アーノルド・ラン(イギリスarnold Lunn)とハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)が協力して、アールベルグ・カンダハースキー大会が開催。それがアルペン競技の歴史の第一頁とされる。
 (◇詳しくは、クラッシックレースも参照)
 そこで競われたのは、シュテム・シュブングの優劣であった。オーストリア選手の圧倒的な力が証明されて、オーストリアはスキー大国と呼ばれることになった。
 そのスキー界にひとりの鬼才が現れた。インスブルック郊外のゼーフェルドの羊飼いアントン・ゼーロスである。彼はスラロームの名手として世界の注目を浴びていたが、シュテム・シュブングを進化させて、強い前傾と上体の順方向へのひねりによって、シュテム・シュブングより速く、しかも鋭いターンを生み出したのである。そのゼーロスの技法はテンポ・シュブングと名付けられ、パラレル・シュブングの基礎となった。
【日本のスキーを語る 連載41 志賀仁郎(Shiga Zin)】 シュテム・シュブングはいつ消えたのかより、この部分は参照)


▼アントンゼーロス▼ アントンゼーロス ▼ ハンネス・シュナイダー
  1930日本 ▼
ハンネス・シュナイダー1930(Johannes SchneiderまたはHannes Schneider, 1890年 - 1955年4月25日)
1930 昭和5年
旗門に赤・青・寅の三色使用を決める。
◇アントン・トニー・ゼー口ス(Seelos, Anton "Toni"。オーストリアのインスブルックの近郊、ゼーフェルドに生まれ)によって、テンポ・パラレル・シュプングが完成される
 それまでのシュテムシュブングを基本とするアールベルグスキー技法に対する、立ち上がり抜重+ローティション+強い前傾によるパラレル・ターン。テンポシュブングと呼ばれた技法であった。その優位を競技会で証明していた。
  (1930年そのものではなく、1930年代という説もある)
 ちなみに回転競技の旗門構成の「ゼーロスゲート」は、彼の名によるハズ。
ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)来日(玉川学園の招聘による)。全国各地でのスキー指導行う。アールベルク・スキー術がスキー界を風びする。


1937 昭和12年
オーストリアのK.ラインルト、T.ドアチエが「今日のスキー」を出版。ヨーロッパのスキーヤーに
大きな影響を与えた。(邦訳出版は、昭和16年)
 その技法は、前外傾+くの字姿勢のフォーム。
日本では、外国スキー用品・用具輸入禁止。
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▼前傾スキー+ローテーションのエミール・アレー

◇ゼーロスからエミール・アレー(Emile Allais)へ技法の継承
 ゼーロスは、あらゆる競技会に勝利を積上げていった。
 若者エミール・アレー(フランス)は、ほぼ2シーズンでゼーロスのパラレル・シュブング技法を習得。アルペン競技に参入し、大活躍。
 1937年、地元シャモニーでの世界選手権大会では、滑降と回転の2種目に圧勝。コンビネーションにも金メダル。世界一のアルペンレーサーとなっている。
 それまで、フランス人は誰も勝ったことのないアルペン競技でのエミールの活躍で、フランス中が沸き返った。

▼ エミール・アレー ▼
エミール・アレ
エミール・アレのフランススキー術
◇オーストリーのシュテム技法と、フランスのパラレル技法
 アールベルグスキー術のシュテムに対し、フランスがパラレルを武器に大論争を挑んでいった。
1938 昭和13年 エミール・アレーが「スキー・フランセ」(フランス・スキー術)を発表および出版する。ローテーション技術が、世界を風びする。(1941 昭和16年2月に邦訳出版)

1940 昭和15年
 オーストリアのK.ラインルト、T.ドアチエ共著の『今日のスキー」、福岡孝行により邦訳出版される。 (出版:登山とスキー社、発売:昭和書房、19cm 194P)(原本は1937年に出版)

1941 昭和16年2月
エミール・アレー著「スキー・フランセ【新しい技法】」邦訳出版される。河合 武、松永武夫/共訳、改造社(原本は1938年に出版)(土方注(2016.2):SAJ公式サイト内にも「初版 昭15」と有るが、これは誤り)

第2次世界大戦(1941〜1945)


1950 昭和25年
SAJ『基礎スキー教科書』出版。猪谷六合雄、竹節作太、野崎彊、柴田信一他共著。前外傾とローテーション。
1951 昭和26年
 第1回国際スキー教育会議(略称インタースキー)がオーストリアのツールスで発足(参加9カ国)。
 スキー指導に関する初めての国際会議。講演とデモンストレーションの組み合わせ。特徴、ローテーション技術。
 当HP管理人 注:
 これからしぱらくは戦勝国フランス=ローテーション技術が、世界を席巻する。
 また、この後敗戦国オーストリアが打ち出した=バインシュピール技術との過度の対立、論争時代に入るが、第2次世界大戦の影響もあったのでは?

1952 昭和27年
『一般スキーテキスト』発刊、山本宇明男、栗林薫共編。特徴は、基礎回転からボーゲンとクリスチャニアへの道。
1953 昭和28年
第2回インタースキーがスイスのダボスで開催される(参加10カ国)。スキー教育国際研究委員会発足。特徴、ローテーション技術。
1954 昭和29年
フランスからピエール・ギヨーとアンリ・オレイエが来日し、全国10カ所で指導を行なう(旧・日本国有鉄道が招聘)。当然、ローテーション技術。
 オレイエは、1948第5回冬季五輪・新複合の金メダリスト。
1955 昭和30年
オーストリアが「パインシュピール技術」とショートスキー指導法を発表。『オーストリア・スキー教程」発刊。
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▼ レースの世界では、ザイラーなどのオーストリア勢大活躍の時代に入る

1956 昭和31年
第7回冬季オリンピック、コルチナ・タンペッツオ大会開催。トニー・ザイラー(オーストリア)がアルペンの三冠王になる。
子どもの頃から強い前傾・外傾を武器としてきた猪谷千春がスラロームで2位に入り、日本初のスキー・メダリストが誕生する。
1957 昭和32年
第4回インタースキーがスウェーデンのストルリーンで開催される(参加14力国)。
パインシュピールとローテーションの評価。国際スキー指導研究部会発足。


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▼ 基礎スキーではパインシュピール技術が広がる (ウェーデルンの時代の幕開け)

1959 昭和34年
第5回インタースキーがポーランドのザコパーネで開催される(参加16カ国)。
シュテフアン・クルツケンハウザー教授(オーストリア)の主張するパインシュピール技術が広がる。
『S.A.J.スキーテキスト』発刊。柴田信一、三浦敬三他。パインシュピール技術を採用。
ウェーデルンが登場、ジャンプ系技術が中心。
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▼ 卵型姿勢の誕生

1960年 昭和35年
スコーバレー(USA)のオリンピックで、ジャン・ビュアルネ(仏)は、最初のメタルスキーを使用して滑降の金メダル。
クローチングスタイル、卵形の姿勢が世界で初めて公開された。この姿勢を「ピュアルネの卵(型姿勢)」とも言うのは、そのためである。
このオリンピックに、HP管理人の友人・見谷昌禧さんも参加。
 当HP管理人 注:
 この辺りから、「ローテーション(=フランス・スキー術)か? パインシュピール(=オーストリア・スキー術)か?」という、長い大論争が収まっていく。
 パインシュピール技術が過度の外向、逆ひねりをとったのは、第2次世界大戦の敗戦国オーストリアとしての防衛思考も一因とか。戦勝国フランス=ローテーション技術に対するもの。

▼ アルペンスキーの世界では、仏が短い絶頂期
1960年、スコーバレー(USA)のオリンピック
 ジャン・ビュアルネは最初のメタルスキーを使用して滑降の金メダル、ギィ・ペリラはコンビで優勝。
 クローチングスタイル、卵形の姿勢が世界で初めて公開され、「ビュアルネの卵」としてスキー界を揺るがした。
1962年、シャモニーの世界選手権
 シャルル・ボゾン(男子回転)とマリエル・ゴワシェル(女子コンビ)が2個の金メダルを獲得
1964年インスブルック五輪
 マリエルとクリスチーヌのゴワシェル姉妹の金メダル(マリエルは回転とコンビで、クリスチーヌは回転で金メダルを獲得)と、
 男子大回転で金メダルを獲得したフランソワズ・ボンリュー。
1966年夏、南米チリのポルチーヨで行なわれた世界選手権
 フランスチームは8個ある金メダルの内6個を獲得。内3個はジャン・クロード・キリーが獲得。
1968年のグルノーブル五輪
 ジャン・クロード・キリーが3つの金メダル(三冠王)。キリーは億万長者になりレースから引退した。
'70、'71、'72年のワールドカップで、ネーションズカップを獲得。
1970年のミッシェル・ジャコを最後に、男女ともにワールドカップの総合優勝は未だに一人も達成してはいない。
(なお1997年、リュック・アルファンが高速系種目のみで男子ではキリー以来30年ぶりに総合優勝を達成。)

1968 昭和43年
第8回インタースキーがアメリカ(アスペン)で開催される(参加18カ国)。
パインシュピール技術が常識となり、『世界のスキーはひとつ』という標語が生れる。
第10回冬季オリンピック、グルノーブル大会開催。ジャン・クロード・キリーがアルペン三冠王となる。
面白いのは、世界の(基礎)スキー界はパインシュピール(=オーストリア・スキー術)になり、
(競技スキーの)オリンピック三冠王はジャン・クロード・キリーフランス人)。
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▼ 基礎スキー界では、誤った「しゃがみ込みテクニック」の時代はじまる

 同じ屈身系テクニックであっても、「しゃがみ込み」と「抱え込み」の形は似ているが、運動としては異質のものである。
1970 昭和45年
オーストリア文部省がサンクト・クリストフで『国際スキー教師講習会』を開催「ヴエーレン・テクニック」を発表。
1971年(昭和46年) 
第9回インタースキーが西ドイツのガルミッシュ・パルテンキルへンで開催(参加21カ国)。日本からは50名他が参加。
 抱えこみ・送り出し技術が各国から発表された。但し以下のように、名称は各国によって異なる。
 西ドイツ=シュロイダー技術、フランス=アパルマン、オーストリア=ぺ−レン、スイス=OKテクニック、
 イタリア=セルぺンティーナ・スプリント、日本=CD型ターンを発表。
パトリック・リュッセル
パトリック・リュッセル
◇ 抱え込み技術について、
 オーストリアの影響を強く受けていた当時の日本のスキー界(主にSAJ)では、ヴエーレン・テクニック(波のテクニック)の用語のほうが有名だが、本家はフランスのアパルマンである。
 1966年頃のパトリック・リュッセルは、低い変な滑りをするといったていどの、都会育ちのただの大学生レーサーだった。ところが69〜70年には、回転、大回転の国際レースをことごとく制覇してしまった。これはアバルマン技術と、それを可能にした特殊な靴のお陰である。(特殊な靴=深くて前傾が強い)


 この技術を最初に認めて、アパルマン技術として分析し、リュッセルを育てたのがジョルジュ・ジュベール(グルノーブル大学教授)である。
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▼ カービング・テクニック

  カービングスキー誕生年度ははっきりしないので、以下HP管理人の記憶と調べによる。
 詳しくはカービングスキーの誕生年度
カービングスキーの誕生年度は、1991年か、その少し前である。
 1992年4月、安比で開催された「第22回国際職業スキー教師協会総会」報告書の中に、「新しいスキー製品について スロベニア●マリヤン・ステーレ、ペーター・ステラー」という講演議事録がある。赤ボールペンで、「カービングスキー」という、私のメモ書きがある。たから、このとき初めて知ったのかも知れない。

 '91、'92の実業之日本と山と渓谷社の「用具カタログ特集」を調べて見たが、これらの中には「カービングスキー」の文字は見つからない。
1993年
 カービングスキーの原型として「エルゴ(オーストリアのクナイスル社)」と「パラボリック(スロベニアのエラン社)」が登場。その形状から、おしゃもじスキーと呼ばれた。
1997年頃
 はっきりとカービングスキーとうたわれたのは、この頃からだろうか。
HP管理人のスクールで1998年まで所属のコーチが、辞める前にカービング指導法・講習会に参加している。ロシニョールが主催で、カービングに力を入れ始めた時代である。
2002年頃
 いわゆるショート・カービングが登場。
◇ ちなみに初めての「くびれ型スキー」の設計は、100年ほど前の人でソンドレ・ノールハイム(1825〜1897)。詳しくはソンドレ・ノールハイム
◇(1991年頃) 世界中で1年間のスキー板販売数が約300万台。内200万台が日本で販売、という異常なスキーブーム。
ちなみにHP管理人(身長175cm)が使ってきたスキー長の変化
1990〜1998年203cmSLモード 198cm
1999年191cm
2000年184cm
2002〜2004年167cm

1998年=カービング突入時代のトップ選手のスキー長

(資料提供:ロシニョールジャパン 1998)


身長スキー/高速系ランキング
木村公宣180cm198/201cmナショナルチームA
石岡拓也176cm198/201cmナショナルチームB
平沢 岳178cm198/201cmナショナルチームB
高校生4名166cm184/191cmナショナルチームJr
榎並雪彦172cm184/191cmSAJデモ
竹鼻 建168cm184/191cmSAJデモ
和嶋光隆173cm184/191cm SAJデモ
山田卓也167cm184/191cmSAJデモ
佐藤ヒロミ163cm177/177cmSAJデモ
 98/99シーズンのナショナルチームのトップ選手ですら、身長+10〜25cm。高速系でも、身長+20〜25cmが中心。


 傾向として、毎年サイドカープがきつくなり、使用するスキーの長さも短くなり、140cmくらいまでに下がる。
 その辺りを境に、2003/04シーズンからは、トップレーサーでは少し長めに戻る気配が生まれる。


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