用具から見たスキー歴史年表menu Part-1(〜1740) Part-2(〜1896) Part-3(〜1944) Part-4(〜1979) Part-5(1980〜) それぞれの用具別の分類もあります。 世界と日本のスキー歴史館 top からお入り下さい。 スキーの歴史・参考資料 スキーの歴史関係のホームページLink |
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5〜6,000年以前 |
◇スキーの起源として、スカンジナビアの人々が細長い板切れに乗って雪上移動を始めたのは、今から5000年前とも1万年前とも言われている。または人類の歴史と同じとも言われている。(原典不明)
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BC2,500年頃 |
◇スェーデンで、この時代の実物のスキーが、腐らずに発見されている。 ◇スキーの神様でとくに有名なのは、北欧神話に登場する男神ウルと女神スカディー。 | |||
その後長い間 |
◇スキーは雪国の冬の狩りや交通の手段、という実用面で発達してきた。 | |||
850年ころ | ◇ノルウェー北部の戦争で、スキー部隊の記述がある。 | |||
中世頃まで |
◇戦でもスキーが使われ、雪国の軍隊ではスキーは武人の大切なたしなみ。 |
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1769年 |
◇ノルウェーのクリスチャニア(現オスロ)で最初の競技会。スポーツとしてのスキーが始まる。 | |||
1808年 |
◇江戸時代後期1808年 文化5年、間宮林蔵(1780〜1844)が樺太探索。その50年ほど後に出版をした報告書『北蝦夷図説』(1855、ままたは1857年)に、スキーに似た雪具をつけた人の図が描かれている。これが、日本初のスキーに関する記述と思われる。間宮倫宗(林蔵)口述 (出版?)播磨屋勝五郎。 注:出版時期については、少し不確かである。情報開示の難しかった江戸時代とはいえ、探索実施の約50年後、かつ没後10数年? 隠密という職業上の秘守義務? 1808年に樺太探索、同年に北蝦夷図説を出版ととれるような記載を見ることもあるが、これは誤りと思う。
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1870〜80年代 |
▼固定型のスキー留め具とくびれ型スキーの誕生 ◇ ノルウエー南部テレマークの住人ソンドレ・ノールハイム(Sondre Norheim 1825〜1897)は、スキーの名手であるだけでなく、用具革命の人でもあった。 1870〜80年代に、現代スキーの原型ともなった固定型のスキー締具を開発。ターンやジャンプしてもスキーは外れなくなり、それまで4千年続いていた伝統的なスキーに終止符をうった。 また彼は「くびれ型スキー」を設計し、テレマーク・スキーと呼ばれ、現在のスキーの原型になっている。
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1893 明治26年 または、 1895 明治28年 |
爪先の位置に付けた金具に爪先と踵を留める革ベルトを付けたもので、フィットフェルト式と呼ばれるのは考案者の名前による。これは靴幅の調整が可能で、踵が自由に動くため野山の雪原を滑るには適していた。
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1896 明治26年 |
▼山岳スキーの創始者M.ズダルスキー ◇マチアス・ツダルスキー(オーストリア。Mathias Zdarsky。マティアス・ズダルスキーとも表記。1856〜1940)が、「山岳(リリエンフェルト)スキー滑降術」を公表および出版。 それまでと比べ短めのスキー、ミゾ無しの滑走面、2本杖から1本に改良。急斜面山岳地用の実用性を重視して、低い姿勢と、回転技術はプルーク・ボーゲン、シュテム・ボーゲン。 ◇ツダルスキーが、最初の金属締具・リエンフェルト式締具を考案。(1893年/明治26年(または1895年)フリッツ・フィットフェルトによるフィットフェルト式締具の説もある)
◇ 当時のスキー靴は石器時代の頃のものと比べれば素晴らしかったが、深くて非常に柔らかい、女性が良く履いているような編みあげ式のブーツや一般の作業靴、といった程度のものである。防水と防寒のために、その上をスパッツで被うことが流行していたようだ。 |
1895 明治28年 |
◇日本に初めてスキーが持ち込まれたのは、1895(明治28)年に松川敏胤(まつかわ・としたね)大尉がスカンジナビア?から持参したものと言われます。 長岡外史が日本にスキーを普及させたことは有名な話であるが、それ以前に、松川が日清戦争の頃に日本にスキーを持ち帰っている。 松川は日清戦争開戦時はドイツ駐在武官であり開戦後に本国に呼び戻されているため、日清戦争で中国大陸に渡った時の戦利品として持ち込んだという戦利品説と、ドイツ駐在武官時代にスカンジナヴィアから持ち込んだという説の、二説がある。なお、松川が持ち帰ったといわれるスキーは現存し、松川の息子を顕彰する記念館で展示されている。
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1896 明治26年 |
◇マチアス・ツダルスキー(オーストリア。Mathias Zdarsky。マティアス・ズダルスキーとも表記。1856〜1940)が、「山岳(リリエンフェルト)スキー滑降術」を公表および出版。
注: ツダルスキーが、スキー術と用具を考案したリリエンフェルトの地名をとり、リリエンフェルト式****と呼ばれる。(ズダルスキーとリリエンフェルト式****についての詳しい説明) | ||||
1901 明治34年 |
◇マチアス・ツダルスキー(オーストリア Mathias Zdarsky)が、チロルの山岳地帯にスキー学校設立。 | ||||
1907 明治40年 |
◇ロシニョール(フランス)がウッドスキーの生産開始。(ボアロン(Voiron)で生産は始まり、まさに100年後の2007年に、その施設を閉鎖した。) | ||||
1908 明治41年 |
◇スキーを冬の遊び、スポーツとして紹介した人は、札幌農学校(現・北海道大学)のドイツ語講師として赴任してきたスイス人、ハンス・コラー(スイス)。両杖式のスキー1台を持参するが実技の指導なし。赴任当時のコラーはスキーをまったく滑れなかった。持参説よりも、母国からスキーを取り寄せ、学生たちに紹介したとの説に説得力がある。 当時の学生たちは、そのスキーをモデルに馬そり屋にスキーを作らせ、校内の坂などで滑った。商品ではないスキーとしては、国産の第一号だろう。
しかし3年後の、新潟県高田(現・上越市)で陸軍の訓練、正式なスキー術を持ち込みレルヒという達人による指導、全国普及へのきっかけを作ったなどなどにより、高田が日本の「スキー発祥の地」として優勢勝ちをした。 | ||||
1909 明治42年 |
◇ノルウェー国王ホーコン7世より、青森第5連隊200名が八甲田山中で遭難・大半が凍死した大惨事(明治35年1月)の見舞として、スキー2台が贈られる。 (1910 明治43年、スェーデンの軍隊スキー2台、との資料もある) ◇英国大使館付武官デロメラー・グリーフ大尉が、北海道月寒で滑ったと言われている。 | ||||
1910 明治43年 |
1本杖を廃して2本杖を採用。回転技術では、ノルウエー派のクリスチャニアを取り入れた。 新しい締具を考案し、2本杖を採用し、テレマーク型スキーを取り入れて、軍と一般の指導にあたった。 また滑走面に(最初の?)ミゾを採用、1.2〜1.5mというショートスキーを、山岳登山に使用した先駆者である。 ◇東京高師・教授の永井道明が、スウェーデンよりスキーを持ち帰り、秋田の講習会で試乗。 ◇スウェーデンの杉村公使より、2台のスキーが贈られる。 | ||||
1911 明治44年 |
◇高田歩兵連隊(新潟県)に配属されたテオドル・エドレル・フォン・レルヒ少佐(オーストリア。Theodor von Lerch, 1869 - 1945年 享年76歳)が、1月12日、スキー専修員(青年将校10名、あるいは14名の説もある)に教授する。 ツダルスキー方式による「リリエンフェルト・テクニック」。自費でスキーを10台作り、それを持参。日本スキー界の恩人。 ◇高田南西の旭山コースで、初めての滑降競技が行なわれる。 ◇日本で初めてのスキー製作は、堀内大佐の命令により新潟県高田市仲町の大工・横山喜作が始まりといわれている。用材は、けやきやくり材で、当時の高田の湿雪に合った用材が選ばれた。(新潟県スキー連盟「スキーのあけぼの」より)(金具は大町3丁目の月岡鉄工所に作らせた。) ◇ あるいは、初めてのスキー製作は高田の蔵番町の田原平八作のノルウェー式のスキー。値段は1本杖つきで1円50銭。(小川勝治著「日本のスキー発達史」昭和31年 朋文堂より)」 皇室にも献上させて頂いた事が有ると(ひ孫の方からの伝聞)。
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1912 明治45年 |
◇解放締具が、スイスの特許庁に登録される。しかし、実際の製品が誕生したのは、その登録が消滅した後の1935年 昭和10年である(アッテンホーファーのカンダハー式締具)。 ◇日本のスキー板の工業的な製造は、小賀坂濱太郎氏により始まったと言われている(小賀坂スキー)。 | ||||
1914 大正3年 | ◇第1次世界大戦勃発 | ||||
1916 大正5年 | ◇北大教授・遠藤吉三郎が欧州留学より帰国し、ノルウエー・スキーを持参(両杖を使ったもの)。 | ||||
1927 昭和2年 |
◇Rottefella(ねずみ取り器)の軽量な爪先型の締め具は、ノルウェーのBror With (1900-1985) によって発明された。 翌1928年サン・モリッツ冬季オリンピックでは、性能の良さで大成功を収め、、以来ずっと、クロスカントリースキー規格のままで、その後50〜60年間残っている。 | ||||
1928 昭和3年 |
◇ラドルフ・レトナー(オーストリア)が金属エッジを考案。(1930 昭和5年という資料もある) その後この金属エッジが、いかに威力を発揮したか、という面白いエピソードもある(「無許可?の補助用具・エッジの大威力」)。 | ||||
1930年頃 |
ハンネス・シュナイダーが締具を考案 『スキーの驚異(アールベルグバイブル)』(1924シュナイダー著、出版(25,000部))には、スキー用具の選び方とともに、締具はいかにあるべきかにかなり頁が割かれている。 スキーの長さは最長で 2 m30cmとし、 長いスキーの有利性を説いた。これは主として深雪を高速で滑るには適しているからである。 締具については、ビルゲリーの時代から一転してスキーに横穴をあけて皮ひもを通している。シュナイダーは、微妙なアジャストができる皮ひもを最適とし、適切な締め具合と転倒したときのアローアンスが優れているとした。 そして、ノルディックやジャンプの締具と異なり、アルペン用は足を雪面から持ち上げた時にスキーがブーツの底とぴったりくっついてくるように固定すべきだと主張した。 一方で登行や歩行の時には踵が上がり、これらの活動に支障をきたさないようにすべきであるとした。 図 13 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察 (福岡孝純 、谷本都栄 共著)より ★ハンネス・シュナイダーについての詳しくは、 アールベルグスキー術 シュテム | ||||
1930年頃 |
◇高速や氷の斜面の滑走を可能にした金属エッジが考案され、スキーに取り付けられたのは1930年頃のこと。
それから約30年間(1930〜60年頃)は強い前傾技術の時代で、スキーに開けた横穴に皮の前傾ベルトを通し、足首を縛っていた。当時の靴も締具もまったく前傾に適していなかったので、こういう方法でカバーしていた。 ◇ この時代の後半は、靴底の中に金属板や木片を入れたりして、靴の作りも幾分しっかりしたものに変わっていた。 ◇ しかしそれでも物足りないレーサー達は、2メートル近い長い皮ベルトで靴とスキーをしばり、前傾と足の固定を求めていた。オールドスキーヤーには懐かしいラグリーメンである。 | ||||
1930 昭和5年 |
◇ラドルフ・レトナー(オーストリア)が金属エッジを考案(1928 昭和3年という資料もある)。まず初めの目的は、アイスバーンや高速を狙ったものではなく、単純に木部のスキーの角の削れの防止ではないかと想像する。 その後この金属エッジが、いかに威力を発揮したか、という面白いエピソードもある(「無許可?の補助用具・エッジの大威力」)。 ◇ この年にハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)が、エッジつきのヒッコリースキーを持って来日。翌、昭和6年には物まねで国産化され、各自が軟鉄製の平エッジを購入し、大工に削ってもらい取り付けた。 この平エッジのバラ売り、各自がつけるシステムは、昭和35年頃でも行なわれていたように思う。 hp管理人の不確かな記憶によれば、幅8ミリ、長さ30cm、厚さ1.5ミリていどのパーツだったように思う。 | ||||
1934 昭和9年 |
◇世界最初のアルミニウム・スキーはフランスという資料もある。
◇3月25日、第1回、蔵王〜高湯・全日本滑降レース大会開催。 | ||||
1935 昭和10年 |
解放締具がスイスの特許庁に登録されたのは1912年だが、実際の製品が誕生したのはその登録が消滅した後の1935年である。 土方のつたない英語力によれば、以下の別説も。 ◇最初のかかとグリップケーブル結合の締具は、1935年、カンダハーによる。(First heel-grip cable binding implemented in 1935 by Kandahar.) ◇1932〜1936年の間にアルペンレーサーは、新しいカンダハー締具でかかとを下に固定し始めた。 ◇国内では、スキーの滑走面の仕上げとして
1935年頃/昭和10年代に入ってから、底面に塗料が塗られる。 B ベークライト エポキシ樹脂系塗料で、当時としては、これはなかなかよかった。 | ||||
1936 昭和11年 |
◇合板スキーが誕生(正確には1933年よりも少し前と思われる)。(国産初の合板スキーは、1949年の西沢) 従来の一枚板の単板スキーでは考えられなかったほどのしなやかなバネをもたらした。 以下のことから、1936年は合板スキー誕生ではなく、特許認可の年である。 ◇1933年5月13日に、レイモンドC.アンダーソンは、3枚の薄層でスキーに関して米国の特許申請。1936年4月28日に与えられた。 ◇同時に、もう1社Splitkein(ノルウェー)からも米国の特許申請。(こちらは特許が認可されなかった? 降りた?) This was quite the coincidence, Jorgen said, but the patent office found that the Norwegian company did not do the work and research that Jorgen and Anderson and Thompson Ski Company had done.
◇この頃には、ロシニョールをはじめとし、世界中のメーカーがライセンスを取得し、積層スキーでSplitkeinとA &Tの特許を使用することができた年であった。
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1937 昭和12年 |
◇外国スキー用品・用具輸入禁止。 ◇日本政府の外貨獲得政策として、国際リゾートホテル建設が推進され、その一つとして建設されたのが、赤倉観光ホテル。 ◇(1937年か、その近辺)長野県が、学校体育で雪国の特色を生かしスキーを盛んにしたいとの方針を出す。西澤書店にスキー納入を要請。 当時、新潟県高田市や長野県飯山市で、外国品スキーを見よう見まねで作っている開発者が数人存在し、軍需用具として僅かながら生産が拡大していた。 しかし、組織的にスキーを開発・制作していたのは西沢だけ。おそくら日本で最初の量産スキーメーカーと推測される。 詳しくは、西沢スキーの歴史、興亡を参照。 | ||||
1940年 昭和15年 |
◇陸軍被服敞(東京・赤羽)から、軍が監督するスキー工場を立ち上げたい、と。理由は、(ソ連を想定し?)北海道北部方面軍、満州の関東軍にスキー部隊を創設すること。そのために、東京の飯田橋高島屋、諏訪の増沢、それに西沢で、年間10万台のスキーが必要と。 ◇西沢は年間でも3万台。株券を担保に資金を借り、北海道を巡り、15万台分の材料を買い付け。緑町工場も拡大。突貫工事、フル稼働の連続。納期までに約束数量の納入に成功。終戦まで、毎年3万台の単板スキーを軍に納入。(終戦は1945年だが、製造は44年までの可能性が高い) 詳しくは、西沢スキーの歴史、興亡を参照。 |
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1945 昭和20年 |
◇第2次世界大戦終結(8月15日)。 ブリザードスキーの誕生(オーストリア)。 | |||||
第2次世界大戦後まもなく 年代不明 |
◇それを追いかけるように、一時代をふうびしたダブルの靴を、リーカーが誕生させている。 靴と足の一体化の時代に入ってきた。 | |||||
1947 昭和22年 | C セルロイドプラスチック滑走面 1947年に、Dynamicのポールマイケルは、最初のセルロイド(celluloid)プラスチック滑走面を誕生させた。 セルタナ 日本では1953年頃/昭和28年頃か。しばらく続く。セルロイドが原料で、それを酢酸で溶かし、接着面を荒して接着。ところがこの酢酸が揮発するときに、スキー本体まで曲げてしまう。3年くらいもこの変化が続く(三浦敬三談)。 | |||||
1948 昭和23年 |
◇メタルスキーが、ヘッド(アメリカ)によって作りだされた。 木材だけで作られたスキーに、ジェット機にも使われている強いジュラルミンでサンドイッチしたもの。 なお、1934年に最初のアルミニウム・スキーはフランスという資料もある。
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1949 昭和24年 |
◇1949年までには、マイケル(Dynamic’s Paul Michal )とハワードヘッド(アメリカの航空機エンジニア)は、埋め込み式のワンピース金属エッジのスキーを作った。(モールド1本エッジのこと) ◇西沢スキー、すでに民間用スキーの生産は始めていた。国産初の合板スキーも手がけている。 | |||||
1952年 |
◇解放締具は、1952年にアメリカのA&T社(アンダーソン&トンプソンスキー会社)が、1954年に西ドイツのマーカーが開発している。 | |||||
1953年頃/昭和28年頃か。 |
C セルロイドプラスチック滑走面 1947年に、Dynamicのポールマイケルは、最初のセルロイド(celluloid)プラスチック滑走面を誕生させた。 セルタナ 日本では1953年頃/昭和28年頃か。しばらく続く。セルロイドが原料で、それを酢酸で溶かし、接着面を荒して接着。ところがこの酢酸が揮発するときに、スキー本体まで曲げてしまう。3年くらいもこの変化が続く(三浦敬三談)。 | |||||
1954 昭和29年 |
◇西ドイツのマーカーが最初の開放式締具(リリース・バインディング)を開発。 | |||||
1955 昭和30年頃 |
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1957 昭和32年 |
◇4月 カザマスキー製作所、火災により工場・倉庫・住宅など焼失。 (西沢スキーは、1968年5月篠ノ井工場で出火、全体の1/3は消失。) | |||||
昭和30年代の辺りだろうか |
◇モールドエッジ 1949年までには、マイケル(Dynamic’s Paul Michal )とハワードヘッド(アメリカの航空機エンジニア)は、埋め込み式のワンピース金属エッジのスキーを作った。(モールド1本エッジのこと) 埋め込み式のL字型のモールドエッジの誕生は、昭和30年代の辺りだろうか。昭和32年以降、S36.7年頃の、たとえばフイッシャーには、モールドエッジがついていた記憶がある。 エッジの幅広の接着部分を埋め込むことで、金属のソール側に出る表面積を減らし、滑走性が向上。まだ短いスパンのエッジで、つなぎ方式。コストの関係でしばらくの間は、まだ平エッジが主流。 | |||||
昭和30年代 |
◇ 西沢の年間スキー生産台数は4〜5万台。月産が4,500台。このうち半分以上が輸出用。作れば売れる時代。輸出も好調。売り上げは5〜7億円。現在なら50億円に相当。 ◇ 輸入品はまだ贅沢品。関税も100%。クナイスル・ホワイトスターは6万円。 | |||||
1958 昭和33年 |
◇ほぼそれと同時期に、クナイスルがグラスファィバー・スキーを開発。 グラススキー誕生は同じKneissel社によってだが、1960年説もある。(『Reference.com/Encyclopedia/Ski』(英文→2015リンク切れ) ◇ 日本でのグラススキーの誕生は、それに遅れること2年、海研工業である。(東京・六本木にあったこの会社で、1965年頃に私(土方あきら)がアルバイトで、グラスファイバーを木芯に巻き付けグラススキーを造らせていただいたことがある。) しかし、ヤマハも同じく日本で最初のメーカーをうたっていた。 ◇同じ年に、スキーの軽量化をはかるために、中の芯材をくり抜いた空洞スキーも生まれている。ハネカム(蜂の巣構造)によるヘクセル(アメリカ)は、空洞スキーのメーカーとして有名である。 ◇ラング(アメリカ)により、今では常識のプラスチックブーツの誕生。しかしまだしばらくの間は、世界の主流は革靴のままだ。 オールプラスチックブーツ誕生は同じラング社によってだが、1964年説もある。(『Reference.com/Encyclopedia/Ski』(英文→2015リンク切れ) ◇スキーに関する日本工業規格JIS S7007(アルペンスキー)が制定される。 | |||||
1950年代半ば〜後半 |
◇スキーの滑走面の仕上げとして ポリエチレン そして、1954年までに、ポリエチレン(polyethylene )はスキー滑走面材として広く利用できるようになっていた。 PTEXは1950年代後半に誕生(PTEXはIMS社の商品名)。 このポリエチレの初期の滑走面は、剥がれやすかった。簡単に言えば、布の上にポリエチレのシートを作り、その布とスキーの板を接着。当時は、まだ接着剤が進歩していなかったことによる。 | |||||
1959年頃 |
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◇ 1960年代 |
◇ セフティという言葉(リリース・バインディング)が使われるようになったのは、1960年代に入ってから。それまでいわゆるカンダーハーが主流だった。カンダーハーにも改良が加えられ、一応解放装置が付くようになっていた。 その後はLDRという締具が登場し、スキーサイドをはしるワイヤーがなくなり、靴先前方の着脱装置(フロントスロー)はワンタッチ(後ろを上げる)になっていった。よくホープマーカーと親しまれた締具で、またキリーで有名なルックネバダ(仏)もその頃である。 ◇この1960年頃に、スキーストッパー(スキーブレーキ)が誕生。 ネズミ取りのような仕掛けを採用したユニークな、アメリカのミラーという締具メーカーが製作したものである。しかし、当時はそれほど人気を得ることはできなかった。(但しこれは土方あきらの記憶によるもので、資料などは無し) 1970年代の半ばになると、ヨーロッパではブームといっていいほどの勢いで普及しはじめ、従来のヒモ式の流れ止めに取って替わる存在となっていった。 | |||||
1960年前後 |
◇ 合板スキーの誕生は1936 昭和11年。(国産初の合板スキーは、1949年の西沢) その同じ木材の合板スキーでも、弾性の強いヒッコリー材が高級スキーに使われたのは、1960年前後のことだろうか。もちろん全てがヒッコリーでは無く、ミズナラなどとの合板である。 ◇ バネということでは、しなりのある竹(バンブー)は誰でも知っていること。静岡県にはバンブースキーのメーカーもあった。1960年前後のことだろうか。これは履いていないので、残念! 1964 昭和39年に出版された「スキー夜話 / 山口諭助著」の中にも、「最近、竹の合板スキーが生まれている。わが国の創製品はまだ量産には入っていないので、市場には僅かしか出ていないようであるが、創製品は、軽くて弾力性のあるスキーとして、、」という記述がある。 ◇1960年前後のことだろうか。宮城県仙台?の阿部スキーは、紙を芯材に使った空洞スキーを作っていた、という記憶がある。私も1シーズン履いてテストしているが、決してきわものではなく立派なスキーだった。 | |||||
1960 昭和35年 |
◇第8回冬季オリンピック、スコーバレー(アメリカ)大会開催。 ◇ ジャン・ビュアルネ(仏)は最初のメタルスキーを使用して滑降の金メダル、ギィ・ペリラはコンビ(仏)で優勝。 クローチングスタイル、卵形の姿勢が世界で初めて公開され、「ビュアルネの卵」としてスキー界を揺るがした。 ◇1960年に、グラスファイバースキー板がKneissel社、Plymold、Sailerによって首尾よく売り出された。 1958 昭和33年にクナイスルが、という説もある。 ◇アレ60(たぶん1960年) エミール・アレはロシニョールの技術顧問となり、ヒッコリー最高峰のアレ60を開発。当時、市場を独占していたオーストリアのスキーを圧倒し、またたく間に世界市場をロシが席巻する原動力になる。それまでの世界の主流はケスレー、クナイスル、ヘッドだったが、あっという間に凌ぐことになる。 ◇国産スキーメーカー数 1960年代頃 約30社 2000年以降 約 5社 | |||||
1963 昭和38年 |
◇シュテフアン・クルッケンハウザー教授(オーストリア国立スキー学校長)が、名手フランツ・フルトナー他2名と共に初来日する。玉川学園と成城学園が共同で招聘。 ◇この頃、皮の上にプラスチックをラミネートした靴が登場。 防水性、硬さ、耐久性、天然材には難しい材質の均一性などが、プラスチック材の特徴である。更に色も黒一色だったものが、カラフルになり、しかもその色が鮮やかで、ファッション性からも、若者や女性に積極的に歓迎されていったのは当然である。 ◇ その数年後から今日の一体成形のプラスチックブーツが、ぽつりぽつりと増えていき、と同時に革靴とラミネートの靴が減り始め、現在ではそのほとんど全てがこのタイプのスキー靴になっている。 ◇ この硬いシェルを締めるためには、もはやヒモ式では不可能で、バックル・スキー靴に変わっていったのは当然である。(1958年にホックランド、またはヘンケが最初のものを開発) | |||||
1964 昭和39年 |
◇ラング(アメリカ)によって、オールプラスチックブーツが紹介された。 1958 昭和33年にラングが、という説もある。 | |||||
1965年頃 |
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1965年 |
非常に硬いプラスチックの外側は、横から二つに開くように設計され、多数のスプリングやネジなどを内蔵し、靴というより精密な機械という感じであった(写真)。 足そのものを根本的に研究し、靴を工学的に設計したものである。従来の靴というイメージを離れ、まったく新しく足と靴を考えなおしたという点で、近代スキー靴の生みの親といっても過言ではなかろう。 但しそれとほど普及することもなく姿を消し、他社からの類似も生まれることもなかった。(なお1975年には、グンゼ産業がローズモントの靴と締具を取り扱っているので、土方の記憶よりも商品は長く続いたのかも知れない。) | |||||
◇1966年 |
◇西沢スキーでは、1万円以下の一般用がボリュームゾーンだが、一番高いスキーが「CM(シーエム)」。 昭和20年代から生産され、40年代前半にかけてのヒット商品で、ヒックコリー(木材)を使用した最高級品で3万円。大卒の初任給(2.1万円)の1.5倍だが、飛ぶように売れたのだから、日本の経済力も大きな力をつけてきたことになる。 | |||||
1960年後半 |
現代のステップイン締具と形態がほぼ同じ。形態は同じようでも、性能面では現在のものとでは遙かに劣っていた。 この頃には、チロリア、サロモンが台頭。 | |||||
1968 昭和43年 |
◇第10回冬季オリンピック、グルノーブル(フランス)大会開催。 ◇任意団体として、日本職業スキー教師連盟(SIA)発足。 ◇ステップイン式締具 私自身の記憶では、それまではヒールロータリー式のセミラグリーメンを使っていたのが、'68からステップイン式締具も使用(チロリア)。 足首に巻き付けるベルトが無く、何とも心許なく、ゲレシュプなどの大技に挑む時はヒールロータリー式のセミラグ締具のスキーに履き替えていた記憶がある。 ◇1968年5月西沢スキーは、篠ノ井工場で出火、全体の1/3は消失。 (カザマスキー製作所は1957 昭和32年4月、火災により工場・倉庫・住宅など焼失。) | |||||
1969 昭和44年 |
◇1968か69年頃?の春に(株)エバニューの依頼で、ダハシュタインの赤色のプラスチック・ブーツをテスト。 多分、輸入可否の検討のためだったと思うが、男性の自分が初めての赤色ブーツを履き、恥ずかしく感じた記憶がある。 それ以前は、革靴のひも締めが大半で、色は黒だった。 ◇スポイラー まだスキーブーツがそれほど深くは無かった'69シーズン頃の数年間、スポイラーという商品があった。 ブーツの後に差し込み、固定のためにベルト(バックル式?)が付いていたように思う。これによりブーツの後端を深く(高く)することで、アバルマン的な滑りでの後傾時の支えを強くするためのものである。 半分は遊び心とお金がなかったため、仲間のスキーコーチたちとおしゃもじ(へら)をスポイラーとして使ったなどの記憶がある。 | |||||
1970か、それより少し前 |
◇「膝当て」を発明は、1970か、それより少し前 ワールドカップで活躍するエルヴィン・ストリッカー(イタリー)は、ローランド・トエニ(グスタボ・トエニの従弟)、タイラー・パルマー(USA)等とともに、彼自身も「スラロームの狂犬達」と称していた。彼らの膝は嫌というほどポールに打ち当たり、傷は絶えることがなかった。 そこでストリッカーは膝の保護のために「膝当て」を発明、その後はスラロームパンツの中に縫い込まれるようになった。パルマーの初勝利は'71年、サン・モリッツ(SUI)のスラロームだったが、彼の左の膝のカバーには"Make love not war"と上書きがしてあった。
現在は閉鎖サイト ski-and-ski/work/History/Hist3.htm アルペンスキー・ワールドカップの歴史3・狂気の70年代 (SKI & SKI)より引用・要約。 | |||||
1970 昭和45年 |
◇イタリアのテクニカ(TECNICA)がムーンブーツを発売。その後30年で2.000万足販売したという超ロングセラー。 1969年にアポロ11号が月面着陸した際、宇宙飛行士がはいていた機能的 なオーバーシューズから誕生。最近(2005)では、極寒のNYで足元から寒さを防ぐスノーブーツとして、マーク・ジェイコブスやエミリオ・プッチなど有名ブランドからも発売されている。 ◇フォーミング・インナーが開発途上。 1970年の夏に、私がイタリアのサンマルコ社を訪れたときに、初めて開発中のフォーミング・インナーを知り、1夏テスト。'72頃?から市場に出始め、その後かなり長い間少なくないシェアを占め、今でも続いている。上級者や選手などを対象に、ウレタン?などの発泡材2液を混合することで、より高いフィット感をもたらすものである。 | |||||
1972 昭和47年 |
◇1972年、商品として、フォーミング登場。 '72、'73は大ブレーク。その後'74、'75はほとんど姿を消したのは、ショップが持つリスクの大きさという販売システムが主因ではなかったかと、私は思った。その後、上位モデルに復活し、2006現在に至っている。 イタリアのサンマルコがこの機能を組み込んだ最初のメーカーのハズである。少なくとも'73シーズンか以前に私が履いているので、1972年と想像する。 | |||||
1973 昭和48年 |
◇ このエアーフォームとは、インナーブーツの中に空気室を造り、そこにエアーを注入することでフィット感を調整するもの。多分、西村一良氏(故人)の開発したシステムで、バイソンなどの国産スキー靴メーカー数社がラミネート(ケミカルシート)靴で大々的に採用。数年間は流行したが、その後姿を消した。 ◇プレート式締具 '73シーズン前後の数年は、ガーチなどを代表とするプレート式締具も大きなシェアを占めていた。(革靴は姿を消し、ほんど全てがラミネート・スキー靴の時代) アメリカでプレート式バインディング"ベッサー"発売された。(4年後の'77では第2位の市場シェアをもつといわれる)。 '77シーズン辺りではさらに大きなシェアを占めたが、しかしその後プレート式締具は姿を消したのは、衝撃吸収と拘束性という締具としての大切な性能面のためかと思う。 スキー用具用品・写真カタログ集 '73シーズンへ | |||||
1975年? |
◇この頃、国産のスワローとフランスのダイナスター?が滑走面の「ミゾ無しスキー」を発売。 しかしこの実験結果を世界で最初に、スキーメーカーの製品化以前に発表したのは私・土方である。1973年 9月号「スキージャーナル」誌に発表。 | |||||
1976 昭和51年 |
◇スキーストッパー(スキーブレーキ) '76シーズンでは、ヨーロッパおよびアメリカからの輸入で約20機種、それに国産品を合わせると、日本の国内でも30機種以上のストッパーが市販されるほどの商品になってしまった。まだ締具とはセットではなく単独商品として登場して、数年目の頃。 1970年代の半ばになると、ヨーロッパではブームといっていいほどの勢いで普及しはじめ、従来のヒモ式の流れ止めに取って替わる存在となっていった。日本でも少しずつ普及し、80シーズンではストッパーの使用経験者は57%以下。この頃は、紐の流れ止めが付いていないとリフトに乗せない、などの公式発表騒動もあったほど。 ◇ 最初の誕生は1960年頃に、ミラー(アメリカの締具メーカー)が製作したものである。しかし、当時はそれほど人気を得ることはできなかった。(但しこれは土方あきらの記憶によるもので、資料などは無し) | |||||
1977 昭和52年 |
◇多目的な使用ができるコンパクトスキーが増える。 コンパクトスキーはすでに何年か前に誕生しているが、年度は不明。 ◇'77はバインディングは国産化の年 西ドイツのマーカー杜は、日本における技術、販売提携先を今年からヤマハに変更し、すべてのモデルを日本で生産。 また、ホープでは5重関節機構のトウピース"H5"を新しく発売します。サロモンも代表モデルの555Sを国産化して昨年より6000円ほど安くなっています。 チロリアは以前からエバニューのハズで、'68か'70頃からか。 ◇安全スキーに欠かせないスキーバインディングは、ステップイン式、ワンタッチ式、プレート式など、形態の上から三つのタイプに分類できます。 ◇プレート式の人気、上昇中 プレート式バインディングにはガーチ、ベッサーのほかに、チロリア、ゲッツェ、バート、ヘッドなど。'77シーズンからルックネバダでもプレート式を登場。価格は、チロリァPB-IIの1万3000円からルックLK5の3万7500円まで幅がある。 | |||||
1978 昭和53年 |
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1980 昭和55年 |
◇第13回冬季オリンピック、レイク・ブラシツド(アメリカ)大会開催。 | |
1981 昭和56年 |
◇サロモンがスキーブーツの発売開始。即ちリアエントリータイプが元気に誕生の年かと思う。 (実際には、リアエントリーについては、1969年、イタリアの会社Garmontは、特許を取得。1970年後半、日本企業のホープは、提供(offered )し、リアエントリーの原則が定義された。 1977年以前に、ハンソンはさらに発展さた。) その後大半のメーカーが後追いで力を入れ、一大ブームになったのは4年後から。 しかし'00シーズン頃?には、気がついたらリアエントリーは全く姿を消してしまっていた。それなり長所はあったのだから、改良を続けて一部に残すべき商品であったと私は思う。無責任なメーカーの姿勢を問いたい。 詳しくはリアエントリーの誕生 | |
1982年 |
◇スキーに関する日本工業規格JIS S7019(スキー試験方法)が制定される。 | |
'83頃 |
◇可倒式ポールの誕生 可倒式ポールの誕生は'83頃であろう。これによって、レーサーの滑りかたが激変した。 ケルマは従来のポールでは可倒式ゲートに対応しきれないとして、シャフトが自然に前に出るニューグリップを'85に登場させている。このことからも、この頃であることは確実である。 | |
'84〜'88 |
◇スキーブーツのパワーベルト パワーベルト(ベルクロストラップ)の誕生は不明である。しかし大昔からレーサーたちは、流れ止め革ベルトなどを自分で足首に巻きつけることで、ブーツとの一体感を強めることは行っていた。 '84〜'88の間では、まだ選手などトップモデルのごく一部での採用にとどまっていた。それがその後上級者モデルなどに広がっていく。本来の目的以外にも、ブーツの持ち運びのときにも、パワーベルトは大変に便利である。 | |
1985 昭和60年 |
◇クロスカントリー用のNNN(新しい北欧のNorm)爪先締具は、Rottefellaによって導入された。スキー靴ソールと締具が慎重に互いに適合させられたので、以前の爪先締具より改良されていた。 ◇スキー交差止め(交差防止器)が誕生したのは、'85の少し前か? 論拠としては、「'85年度版 主要メーカー・商社一覧」には、「ジャパンパラブラック(名古屋市中区)」の名前が載っている。 また「世の中がバブル絶頂、佐藤譲や渡辺一樹が技術選を競った頃」(→1980年代後半)に交差防止器を使ったという記述も見ているので、この当たりまでは使われていたのは間違いがない。私自身は必要としなかったので、使用経験が無く、従ってこの商品にいての記憶もほとんど無いのである。 製品としては、スキー上面のトップのほうに小さなやぐら状に取り付け、左右のスキートップの交差を防止するための小型装置である。商品(メーカー)としてはパラブラックが有名。価格は1万円ほど? ◇'85シーズンのスキーブーツの話題は、リアエントリー夕イプにつきる。 リアエントリーは、なによりも着脱の容易さと、シンプルなスタイルで軽量化が図れることがメリットである。しかし、その反面、ホールドが不十分で上級スキーヤーには不向きとされていた。 ところが、サロモンが発売4年目にして、リアエントリータイプだけで世界ナンバー2に成長し、このタイプが多くのユーザーの支持を得たことから、メーカー各社の開発の目がここに集中した。'85シーズンは、需要増を期待して多くのメーカーが参入している。
スキー用具用品・写真カタログ集
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1989 昭和64年 (平成1年) |
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1990 平成 2年 |
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1990年 |
◇国内スキー用品専門店 1990年には約800社あった。 (倒産や廃業で1998年現在は130社に減った。 ) | |
1991年 |
◇1991年にハガスキー倒産(負債22億円) 。 ◇日本のスキー市場:1991年280万(国産+輸入) ◇国内スキー・スケート・スノボ用品市場 1991年 4,290億円(4,500億円という別DATAも)、1995年 4,100億円、1998年 2,890億円、2004年 1,910億円 ◇(1991年頃) 世界中で1年間のスキー板販売数が約300万台。内200万台が日本で販売、という異常なスキーブーム。 カービングスキー誕生年度ははっきりしないので、以下HP管理人の記憶と調べによる。 ◇カービングスキーの誕生年度は、1991年か、その少し前である。 (更に福岡孝純氏らの論文には、「1990年代に入ると、」とあるので、80年代は否定される。) 1992年4月、安比で開催された「第22回国際職業スキー教師協会総会」報告書の中に、「新しいスキー製品について スロベニア●マリヤン・ステーレ、ペーター・ステラー」という講演議事録がある。赤ボールペンで、「カービングスキー」という、私のメモ書きがある。たから、このとき初めて知ったのかも知れない。 このことから、少なくとも1991/1992シーズンにはカービングスキーが製品として開発されていたことが分かる。 我々スキー教師集団への講演で、「新しいスキー製品について」という表現を使っているので、それから大きくさかのぼることはなく、早くてもほんの1、2年前の誕生だろ。 ◇更に厳密に見ると、福岡孝純氏らの論文には、「1990年代に入ると、」とあるので、80年代は否定される。即ち、1990か1991年カービングスキー誕生と考えられれる。 ・アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察(Discussion on the History of Alpine Ski Technique from the Perspectives of Biomechanics and Cybernetics)(福岡孝純 、谷本都栄 共著) 福岡孝純氏(法政大学 教授)は、故・父孝行氏から続く、スキー研究史の第一人者である。従って、本論文の一部である以下は、高く信頼できるものであろう。 (p-46 8. ホピヒラーの時代、シュヴィンゲンとカービングスキーの登場) 1990年代に入ると、マテリアルがますます進歩した。特に、カービングスキーの登場により、今までは上級者しかできなかったシュヴィンゲンは誰でもが驚くほど容易にできるようになった。 それは、旧来はスキー板が長く、またスキーのタイレ(くびれ)が通常40〜50R(半径40〜50mの円) であったのだが、これが15〜20Rのカービングでは、初級者でも少しエッジングしただけで殆どスキッドすることなく、ターンの弧を描くことができるようになったからである。 '91、'92の実業之日本と山と渓谷社の「用具カタログ特集」を調べて見たが、これらの中には「カービングスキー」の文字は見つからない。しかし、今意識して写真を見れば、海外のごく一部メーカーの一部のスキーでは、それらしきサイドカーブの絞りの強いスキーは散見される。しかし、メーカーの広告にも、用具・用品の傾向にも登場はしていない。 1993年 カービングスキーの原型として「エルゴ(クナイスル)」と「パラボリック(エラン)」が登場。その形状から、おしゃもじスキーと呼ばれた。 1994年頃? 当時、管理人が契約していたミズノのGS用スキーで、それらしきものが生まれ、レース関係で好評を得る。サイドカーブも今までよりもかなり強まったが、ジャンプ用スキーと錯覚する幅広さに驚いた。長さは従来のまま。 まだこの頃でも、「カービングスキー」という用語の認識はなかったように思う。 1997年頃 はっきりとカービングスキーとうたわれたのは、この頃からだろうか。 HP管理人のスクールで1998年まで所属のコーチが、辞める前にカービング指導法・講習会に参加している。ロシニョールが主催で、カービングに力を入れ始めた時代である。 1997年12月15日 「+CARVING カービングスキーのスキー指導」(「日本スキー教程・日本スキー指導教本」副読本)が出版(著者 SAJ / 発行 スキージャーナル社)。ということは、その数年前にはカービングスキーが認知されている存在であった訳である。 2002年頃 いわゆるショート・カービングが登場。 ◇ ちなみに初めての「くびれ型スキー」の設計は、100年ほど前の人でソンドレ・ノールハイム(1825〜1897)。詳しくはソンドレ・ノールハイム
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1993年 |
◇世界のSki市場 1993年 610万台。 日本の市場:1991年280万(国産+輸入) ◇スキー人口 '93シーズン 1,860万人(レジャー白書) '05シーズン 750万人(レジャー白書) | |
1990年代半ば |
◇スキーの滑走面 最近、話題のシンターンド・ベース。これは滑走面の素材の違いではなく、製法の一つ。従来からあった製法は、ポリエチレンの押し出し成形で、製造コストは次の方法の約3分の1。 焼結製法と呼ばれるシンタードは、ポリエチレンを加熱・加圧し一度、高密度の円筒を作り、それをリンゴの皮をむくように帯状に仕上げる。 エレクトラとかグラファイトと呼ばれるものも、シンタードである。但し、滑走中に生じる静電気の帯電を減らし、滑走性能高めるために、カーボンを混入しているものである。 | |
1995 平成7年 |
◇国内スキー・スケート・スノボ用品市場 1991年 4,290億円(4,500億円という別DATAも)、1995年 4,100億円、1998年 2,890億円、2004年 1,910億円
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1996 平成8年 |
◇最終的に国産50万台に加えて輸入品が100万台を突破。次シーズンへの残数は70万台をゆうに超える規模。 スキー業界の様相の変化。スキー制作技術は飛躍的に向上し、大量生産が可能になる。ロシニョールも自国フランス工場では高くつくので、人件費の安いスペインなどに生産拠点をシフト。製造原価も革新的に安くなっていく。 皮肉なことに世界的なメーカーの淘汰が進む。加えて、アルプス地方の温暖化の進行。あっという間にスキー関連商品の価格の低下。 ヨーロッパで行き場を失ったスキーが、日本に怒濤のように押し寄せる。空前の輸入ラッシュが続く。国内スキー市場に、異常ともいえる事態が襲う。 ◇ 新潟の伝統あるスキーメーカー、カザマスキーが倒産。 ◇ 天下のヤマハが、翌年1月までにスキー界から撤退することを発表。 | |
1997 平成9年 |
◇スキーに関する日本工業規格JIS S7028(アルペンスキー用のスキー・ビンディング・ブーツ(S-B-B)システムの組み立て、調整および検査方法)が制定される。 | |
1998 平成10年 |
◇国内スキー・スケート・スノボ用品市場 1991年 4,290億円(4,500億円という別DATAも)、1995年 4,100億円、1998年 2,890億円、2004年 1,910億円 ◇(国内スキー用品専門店 1990年には約800社あった。) 倒産や廃業で1998年現在は130社に減った。 ◇西沢スキー、倒産は避け、スキー界から撤退を決意 長野オリンピック(1998年2月7日〜)終了後の3月末に、従業員全員を解雇。 1990年代前半には、年間スキー15万台。ブーツ(テクニカ)5万足の商いのあった会社である。 詳しくは、西沢スキーの歴史、興亡を参照。 | |
2000年以降 | ◇国産スキーメーカー数 1960年代頃 約30社 2000年以降 約 5社 | |
2002年 |
◇世界のSki市場 2002年 420万台。 日本の市場:2003年 40万弱輸入+小賀坂分 2002年頃 いわゆるショート・カービングが登場。 ◇ ちなみに初めての「くびれ型スキー」の設計は、100年ほど前の人でソンドレ・ノールハイム(1825〜1897)。詳しくはソンドレ・ノールハイム | |
2003 |
◇世界のSki市場 2002年 420万台。 日本のスキー市場:2003年 40万弱輸入+小賀坂分 | |
2004年 |
◇国内スキー・スケート・スノボ用品市場 1991年 4,290億円(4,500億円という別DATAも)、1995年 4,100億円、1998年 2,890億円、2004年 1,910億円 | |
2005年 |
◇スキー人口 '93シーズン 1,860万人(レジャー白書) '05シーズン 750万人(レジャー白書) | |
2010年 |
◇アシックスは、スキー用品撤退検討、早ければ2011年にも判断する見通。堅調なスノーボードウエアの販売は継続する方針だ。 ウインタースポーツ用品事業の売上高は、1990年代前半に約230億円。2009頃では6億円程度の売上高。(日経新聞2010年6月26日) 2012.5に同社のサイトからは(スノーボードはあるが)スキーは無い。'10/11シーズンを最後に撤退したのだろうか。 |
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