世界と日本のスキー歴史館・歴史・年表・年譜
西沢スキーの歴史-隆盛から撤退まで




 (磐梯ひじかたスキースクール) 

 「あのスキーはどこへいった?」 西澤 保佑 \1,575 出版 :西沢書店  発行年月 : 2008.12
 このページで紹介するデーターなどは、原則として上記から引用させて頂いています。決して名誉ではない、「スキーからの撤退」についても詳しく書かれた西澤 保佑さんに、敬意と謝意を表します。

2009/7/25 管理人


ちなみに、
 西沢スキーと一時代を共にした芳賀スキー(1917年設立)は、
 スキーの輸出実績日本一を記録したこともあるが、70年代に海外メーカーの国内進出が本格化して競争に敗れ、91年6月に倒産(負債22億円)した。
 参考資料 : 小さな芳賀スキー展示場 / 芳賀孝郎著(元ハガスキー社長) / 2010年10月 34ページ

西沢スキーの歴史-隆盛から撤退まで

安政年間から始まった西澤書店

 第13代当主 西澤喜太郎(1905〜1994)
 第14代当主 西澤保佑(3男、1998年スキーから撤退)
創業 安政年間 150年前
明治新政府から長野県と福島県の教科書販売の指定を受ける。それに伴い備品(木製の教育器具)も扱う。
大正に入り、長野市緑町に自前の木工場を所有。跳び箱、木製楽器、椅子・机、黒板などを教科書と一緒に納入。
 教科書販売の指定、県庁とのつながり、自前の木工場を所有ということが、後日(1937年ころ)、長野県庁からのスキー製造要請に結びつく。

◇昭和初期 レルヒ少佐来日(1910年)から20年を経て

 当時、新潟県高田市や長野県飯山市で、外国品スキーを見よう見まねで作っている開発者が数人存在し、軍需用具として僅かながら生産が拡大していた。
 しかし、組織的にスキーを開発・制作していたのは西沢だけ。おそくら日本で最初の量産スキーメーカーだったと推測される。

管理人による参考資料

◇1937年か、その近辺

 第13代当主 西澤喜太郎の時代
 長野県が、学校体育で雪国の特色を生かしスキーを盛んにしたいとの方針を出す。長野県庁の体育主事・中園 進から話が入る。自前の木工場を所有し、しっかりした生産体制が出来ている、県の教科書販売の指定業者であることから、西澤書店に要請。
 「大倉喜七郎男爵が赤倉観光ホテルを創業するのと時を同じにしている」とのことなので、1937年か、あるいはその頃のことである。
 ヨーロッパから輸入されたスキー登山が、日本の上流社会にブームとなってきた頃。
 西沢の最初の専属プロ西村一良氏は、大倉の赤倉スキー場で皇室や上流階級にスキーを教えていた。同時に、教え子と用具制作を兼ね「速く回るスキー」「回転しやすいスキー」の開発が行われていたのである。
◇外国スキー用品・用具輸入禁止。
◇当時の日本政府の外貨獲得政策として国際リゾートホテル建設が推進され、その一つとして建設されたのが、1937年、赤倉観光ホテル。

◇1940年 昭和15年 西澤工業株式会社に社名変更  年間でも3万台

◇1940年 昭和15年
 陸軍被服敞(東京・赤羽)から、軍が監督するスキー工場を立ち上げたい、と。理由は、(ソ連を想定し?)北海道北部方面軍、満州の関東軍にスキー部隊を創設すること。そのために、東京の飯田橋高島屋、諏訪の増沢、それに西沢で、年間10万台のスキーが必要と。

 西沢は年間でも3万台。株券を担保に資金を借り、北海道を巡り、15万台分の材料を買い付け。緑町工場も拡大。突貫工事、フル稼働の連続。納期までに約束数量の納入に成功。
 終戦まで、毎年3万台の単板スキーを軍に納入。(終戦は1945年だが、製造は44年までの可能性が高い)

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儲かって儲かった、世界大戦後からバブルの時代まで

西村 一良
西村 一良
 スキー産業がめざましい発展を遂げたのは、昭和25年以降。しかし西沢では、戦前から専門のスキーヤーとスキー職人の手によって、開発が行われていた。
 専門のスキーヤーを代表するのが、西村一良氏(デサント(ウエア)、バイソンスキー靴顧問、初代SIA会長など。2005年(平成17年10月 8日)永眠。享年98歳)。
 主に西村さんが収集してきた海外の新素材、新形状、新製法のスキーを見本に試作を繰り返す。試作品は、すぐに長野、新潟の選手に履いてもらいテスト。

◇1949年 
 すでに民間用スキーの生産は始めていた。国産初の合板スキーも手がけている。
◇1951年 
 MARHWEST(マーシュウエスト)を発表。
◇1953年 
 輸出ネーム「THUNDERBIRD」をアメリカ中心に輸出。
◇1955年 
 スポーツ用品卸問屋「美須津」(のちの西沢スポーツ)を東京・浅草橋にオープン。アンテナショップの役割を果たすサービスステーション。
◇1963年 
  西澤喜太郎(第13代当主)が日本スキー工業組合の理事長に就任。
◇1968年 
  西澤喜太郎(第13代当主)が日本スポーツ用品工業協会の会長に就任。

◇ 昭和30年代(1955年代) 年間スキー生産台数は4〜5万台

 西沢の年間スキー生産台数は4〜5万台。月産が4,500台。このうち半分以上が輸出用。作れば売れる時代。輸出も好調。
 輸入品はまだ贅沢品。関税も100%。クナイスルホワイトスターは6万円。
 為替レートは1ドル=360円。生産量の半分を輸出に回し、利益も相当なもの。
 春先から輸出用スキーを生産。8月、9月にはすぐに現金に変わってしまう。銀行信用状LCによって、輸出代金を銀行が立替決済。資金繰りに苦労している会社が多いなかで、たいへんに恵まれていた。
 8月後半からは国内スキー生産をスタート。輸出で得た潤沢な資金でバックアップされていた。
 スキーが売れる1月いっぱいまで工場はフル稼働。それが終わると輸出向けへとシフト。年間のローテーショーションになっていた。
 売り上げは5〜7億円。現在なら50億円に相当。

◇アレ60(たぶん1960年)
 エミール・アレはロシニョールの技術顧問となり、ヒッコリー最高峰のアレ60を開発。当時、市場を独占していたオーストリアのスキーを圧倒し、またたく間に世界市場をロシが席巻する原動力になる。それまでの世界の主流はケスレー、クナイスル、ヘッドだったが、あっという間に凌ぐことになる。

飛ぶように売れた、大卒初任給の1.5倍のヒックコリースキー

◇1966年 
  西澤保佑(第14代当主)西沢スキー入社。初任給1.9万円。日本の大卒平均2.1万円。
 1万円以下の一般用がボリュームゾーンだが、一番高いスキーが「CM(シーエム)」。
 昭和20年代から生産され、40年代前半にかけてのヒット商品で、ヒックコリー(木材)を使用した最高級品で3万円。大卒の初任給の1.5倍だが、飛ぶように売れたのだから、日本の経済力も大きな力をつけてきたことになる。
◇西沢アドバイザリー・スタッフの重鎮の杉山 進さん(日本のアルペンのトップ選手、オリンピック代表、オースリア国家検定教師、SIA会長など)。スタート年度は不明だが、1966年には関与。

◇1968年5月
 業績は絶好調の時代。篠ノ井工場で出火、全体の1/3は消失。一時はもうダメだと覚悟したほど。
 半年後に、世界最新のグラススキー工場のラインが完成。

◇札幌オリンピック(1972年2月)に向け開発体制の強化

 西沢スキーチーム監督丸山仁也、選手は富井澄博、大杖正彦、南雲美津代などトップレベルの選手たち。
 夏のテスト。それまでは白馬、乗鞍、館山の残雪でテスト。それでは本物のアイスバーンの感触は得られない。日本の夏は冬のニュージーランド氷河でのテスト合宿を要望。
 その頃台頭してきたヤマハは、移動可能なテーバーリフトを購入し、テスターは選手と開発スタッフの総勢名の陣容を整えた。

◇開発費の概念が拡大。近代化による負担増が新たなネックに

 スキー・ワールドカップが登場(1967年1月)してから販促費用がかさんでいくのが工場の悩み。工場担当の専務はつねに、レース主体の販促に難色を示すようになる。世界的な名声を勝ち得ることが、国内の営業売り上げに正比例しない、と。
 事実、その後ヨーロッパのロシニョール、サロモン、アトミックもこの莫大な費用が悩みの種。会社が傾いていく大きな原因となった。

◇1986〜91年のバブル景気

 スキー以外も含む西沢の売り上げは、年商100億円を達成。
 バブルの崩壊で日本列島沈没。西沢スキーをおそった未曾有の危機。あれほど好調だったはずの西沢スキーの経営が、あっという間に大ピンチ。存続の危機、その瀬戸際まで追い込まれてしまう。

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プラザ合意(1985)、輸入関税が撤廃、輸入スキー用品の急増

◇プラザ合意(1985  昭和60年)を経て
 札幌オリンピックが終わった頃から、急速に輸入台数が増えてくる。
 プラザ合意(1985  昭和60年)を経て、輸入関税が撤廃され、ロシニョール、サロモンといった海外ブランドが、大衆的な価格で日本市場になだれ込むようになる。
 スキーショップの売り場の位置づけも大きく変わり、輸入品主体のレイアウトになる。円高進行も続く。ドル箱だった西沢のアメリカ輸出による利益は、ここ数年伸び悩んでいた。

テクニカと西沢が合併会社を設立

◇年度不明
 スキー・登山靴メーカー、イタリアの老舗テクニカと西沢が合併会社を設立。
 当初は西沢とのシナージ効果もあり、西沢スキーと同等の10万足販売と強気な販売計画を立てていたほど。
 (たぶん平成8年 1996年頃)行き場を失ったヨーロッパのスキーは日本市場になだれ込んだ。テクニカの販売目標の達成は、次第に困難になっていく。

SAJデモを加えて、年間スキー15万台。ブーツ(テクニカ)5万足

◇平成5年 1993年頃
 SAJデモストレーターの渡辺一樹、佐藤 譲と契約。彼らのプロモーション協力もあり、販売台数は年間スキー15万台。ブーツ(テクニカ)5万足を達成する勢い。
 ロシニョール、サロモンが破竹の勢いで攻勢を強めていたこの頃、互角の勝負が出来る国産スキーはニシザワ以外はなかったのも事実である。

国産50万台に加えて輸入品が100万台。残数は70万台超

◇平成8年 1996年
 最終的に国産50万台に加えて輸入品が100万台を突破。次シーズンへの残数は70万台をゆうに超える規模。
 スキー業界の様相の変化。スキー制作技術は飛躍的に向上し、大量生産が可能になる。ロシニョールも自国フランス工場では高くつくので、人件費の安いスペインなどに生産拠点をシフト。製造原価も革新的に安くなっていく。
 皮肉なことに世界的なメーカーの淘汰が進む。加えて、アルプス地方の温暖化の進行。あっという間にスキー関連商品の価格の低下。
 ヨーロッパで行き場を失ったスキーが、日本に怒濤のように押し寄せる。空前の輸入ラッシュが続く。国内スキー市場に、異常ともいえる事態が襲う。

◇平成7年 1995年1/17
 阪神大震災。スキーシーズンはこれからが本番であったが、それどころではない。
 加えてスキーシーズンも短くなった。以前なら11月上旬から約5ヶ月半滑ることが可能だったが、今は12月中旬からせいぜい3ヵ月ほどしかない。
 そこに大災害。日本中のスキー場が閑散。
 市場も目も当てられない状態。

◇倒産は避け、スキー界から撤退を決意

 平成8年 1996年、新潟の伝統あるスキーメーカー、カザマスキーが倒産。
 天下のヤマハが、翌年1月までにスキー界から撤退することを発表。
 (そして西沢は)長野オリンピック(1998年2月7日〜)終了後の3月末に、従業員全員を解雇。
 中国でスキーを製造したいと、ある中国企業から申し入れ。中国・藩陽のスキー場が、残った商品をレンタルに使う、と。建物を除くほとんど残骸とも言える設備類をコンテナに積み込んで、持ち去った。

 この後、2002にはあのザウスが閉鎖。盛田さんの新井マウンテン、丸紅のハンターマウンテン、西部のホテルとスキーリゾートの縮小、などなどがその後に続く。


ちなみに、
 西沢スキーと一時代を共にした芳賀スキー(1917年設立)は、
 スキーの輸出実績日本一を記録したこともあるが、70年代に海外メーカーの国内進出が本格化して競争に敗れ、91年6月に倒産(負債22億円)した。
 参考資料 : 小さな芳賀スキー展示場 / 芳賀孝郎著(元ハガスキー社長) / 2010年10月 34ページ

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