儲かって儲かった、世界大戦後からバブルの時代まで
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西村 一良
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スキー産業がめざましい発展を遂げたのは、昭和25年以降。しかし西沢では、戦前から専門のスキーヤーとスキー職人の手によって、開発が行われていた。
専門のスキーヤーを代表するのが、西村一良氏(デサント(ウエア)、バイソンスキー靴顧問、初代SIA会長など。2005年(平成17年10月 8日)永眠。享年98歳)。
主に西村さんが収集してきた海外の新素材、新形状、新製法のスキーを見本に試作を繰り返す。試作品は、すぐに長野、新潟の選手に履いてもらいテスト。
◇1949年
すでに民間用スキーの生産は始めていた。国産初の合板スキーも手がけている。
◇1951年
MARHWEST(マーシュウエスト)を発表。
◇1953年
輸出ネーム「THUNDERBIRD」をアメリカ中心に輸出。
◇1955年
スポーツ用品卸問屋「美須津」(のちの西沢スポーツ)を東京・浅草橋にオープン。アンテナショップの役割を果たすサービスステーション。
◇1963年
西澤喜太郎(第13代当主)が日本スキー工業組合の理事長に就任。
◇1968年
西澤喜太郎(第13代当主)が日本スポーツ用品工業協会の会長に就任。
◇ 昭和30年代(1955年代) 年間スキー生産台数は4〜5万台
西沢の年間スキー生産台数は4〜5万台。月産が4,500台。このうち半分以上が輸出用。作れば売れる時代。輸出も好調。
輸入品はまだ贅沢品。関税も100%。クナイスル・ホワイトスターは6万円。
為替レートは1ドル=360円。生産量の半分を輸出に回し、利益も相当なもの。
春先から輸出用スキーを生産。8月、9月にはすぐに現金に変わってしまう。銀行信用状LCによって、輸出代金を銀行が立替決済。資金繰りに苦労している会社が多いなかで、たいへんに恵まれていた。
8月後半からは国内スキー生産をスタート。輸出で得た潤沢な資金でバックアップされていた。
スキーが売れる1月いっぱいまで工場はフル稼働。それが終わると輸出向けへとシフト。年間のローテーショーションになっていた。
売り上げは5〜7億円。現在なら50億円に相当。
◇アレ60(たぶん1960年)
エミール・アレはロシニョールの技術顧問となり、ヒッコリー最高峰のアレ60を開発。当時、市場を独占していたオーストリアのスキーを圧倒し、またたく間に世界市場をロシが席巻する原動力になる。それまでの世界の主流はケスレー、クナイスル、ヘッドだったが、あっという間に凌ぐことになる。
飛ぶように売れた、大卒初任給の1.5倍のヒックコリースキー
◇1966年
西澤保佑(第14代当主)西沢スキー入社。初任給1.9万円。日本の大卒平均2.1万円。
1万円以下の一般用がボリュームゾーンだが、一番高いスキーが「CM(シーエム)」。
昭和20年代から生産され、40年代前半にかけてのヒット商品で、ヒックコリー(木材)を使用した最高級品で3万円。大卒の初任給の1.5倍だが、飛ぶように売れたのだから、日本の経済力も大きな力をつけてきたことになる。
◇西沢アドバイザリー・スタッフの重鎮の杉山 進さん(日本のアルペンのトップ選手、オリンピック代表、オースリア国家検定教師、SIA会長など)。スタート年度は不明だが、1966年には関与。
◇1968年5月
業績は絶好調の時代。篠ノ井工場で出火、全体の1/3は消失。一時はもうダメだと覚悟したほど。
半年後に、世界最新のグラススキー工場のラインが完成。
◇札幌オリンピック(1972年2月)に向け開発体制の強化
西沢スキーチーム監督丸山仁也、選手は富井澄博、大杖正彦、南雲美津代などトップレベルの選手たち。
夏のテスト。それまでは白馬、乗鞍、館山の残雪でテスト。それでは本物のアイスバーンの感触は得られない。日本の夏は冬のニュージーランド氷河でのテスト合宿を要望。
その頃台頭してきたヤマハは、移動可能なテーバーリフトを購入し、テスターは選手と開発スタッフの総勢名の陣容を整えた。
◇開発費の概念が拡大。近代化による負担増が新たなネックに
スキー・ワールドカップが登場(1967年1月)してから販促費用がかさんでいくのが工場の悩み。工場担当の専務はつねに、レース主体の販促に難色を示すようになる。世界的な名声を勝ち得ることが、国内の営業売り上げに正比例しない、と。
事実、その後ヨーロッパのロシニョール、サロモン、アトミックもこの莫大な費用が悩みの種。会社が傾いていく大きな原因となった。
◇1986〜91年のバブル景気
スキー以外も含む西沢の売り上げは、年商100億円を達成。
バブルの崩壊で日本列島沈没。西沢スキーをおそった未曾有の危機。あれほど好調だったはずの西沢スキーの経営が、あっという間に大ピンチ。存続の危機、その瀬戸際まで追い込まれてしまう。