世界と日本のスキー歴史館・歴史・年表・年譜
各用具・パーツ別に見たスキーの歴史


 このページでは、用具と滑り方・技術は密接な関係にあるという観点から、スキーの歴史を述べてあります。
 昔から国内では用具に関する歴史資料は見つからず、私が若い頃に購読していた、アメリカのスキー誌とスキーイング誌の記事を参考に、資料を作っていました。
 それを基に、1990年代前半?に「(SIA)(商業施設における指導者)専門科目 スキーB級教師教本・スキーの特性と歴史」を執筆しました。ここでは、その歴史関連の部分をベースにしてあります。

2003/ 6/12 土方あきら


国内で初めてのスキーは、いつ、どこで、作られたか 2017/12/11追加

 私は長い間、日本で最初のスキー製作年度は「明治43年(1910年)末かその少し後と判断」、レルヒが高田に持ち込んだスキーは「日本国産かどうか不明」としてきました。
 しかし本日、新しい資料が幾つか見つかったので、この項を大幅に書き直し、もう少し具体的なものにしました。(2016/04/21)
 この項の最後に、「エゴン・フォン・クラッツアー、横浜、明治43年(1910年)のはじめに」説を追加しました。(2017/12/11)

透明スペーサー
国内で初めての官製スキー製作は、明治43年(1910)末と判断
◇ レルヒは自費でスキーを10台作り、それを持参。そして明治44(1911)年1月12日、歩兵第58連隊営庭において、14名のスキー研究員を対象にスキーの指導が行われた。これが日本におけるスキーのはじまりである。
(土方の注:講習した場所については、「58連隊営庭」と「金谷山スキー場」の2つの記載が見られる。どちらかが、誤りの可能性もある。しかし信頼性の高い「上越市のサイト」でも両方が記されていることから、両者は同じ場所である可能性が高い。)
 (土方注:)「レルヒはスキー指導のために来日」と誤解されているケースも少なくない。しかしそれは誤りである。超大国ロシアと極東にある小さな島国・日本。勝てるはずのない日露戦争に勝利した、日本陸軍の研究のため来日した。たまたまそのレルヒは、リリエンフェルト式スキー術を考案したマチアス・ズダルスキー(Mathias Zdarsky)の高弟であった。これが来日理由を誤解されている原因である。
透明スペーサー
◇ (レルヒは1910年11月に交換将校として来日。1911年1月1日に、新潟県・高田(現上越市)の歩兵58連隊に着任。)東京の砲兵工廠で作らせたスキー10台を持って上越市高田に来た。
 『上越市史 通史編5 近代』のなかでも、「官製スキーは東京砲兵工廠で製作された」と記されている。
透明スペーサー
 この2つの資料から見ても、日本最初のスキー製作年度、場所は、1910年11月〜12月の間に東京の砲兵工廠となる。
 ただ一つ腑に落ちないのは、「レルヒは自費でスキーを作り」と「東京砲兵工廠で製作された」の結びつきの悪さだ。自費でと申し出ても、官営の東京砲兵工廠が、自費製作を許可するだろうか。
 結果的には、官品として東京砲兵工廠で製作された可能性もある。そうするとレルヒからのプレゼント説は誤りになってしまう。
透明スペーサー

透明スペーサー
国内で初めての商品・製品スキー製作は、明治43年(1910年)末、一般商品も翌44年にはと判断
◇説.1 当時たまたま,師団の御用商人として高田にやって来た長岡の三間新吾の弟・博は,師団からスキー製作の依頼を受けて生産を始め,三間製作所を設立した。これが日本におおけるスキ一生産の始まりである,との説もある。
透明スペーサー
 『上越市史 通史編5 近代』のなかでも、「(官製スキーは東京砲兵工廠で製作されました。)また高田の地元でも、民間にスキー製作が依頼されました。こちらに関しては額縁屋の三間博が苦心惨憺のすえに完成させ、高田師団(当時は師団でした)にそれを納めた。」と概略が述べられている。
 この2つの参考資料とも、非常に信頼度の高いものである。
透明スペーサー
◇説.2 明治末年から大正にかけて、新潟県高田市仲町の大工・横山喜作が、堀内大佐の命令で作ったのが始まりといわれている。用材は、けやきやくり材で、当時の高田の湿雪に合った用材が選ばれた。(金具は大町3丁目の月岡鉄工所に作らせた。)
 管理人注:明治末年とは明治45年。しかし明治44年2月19日の高田日報に、横山喜作,スキー製造販売の掲載。同、明治44年2月20日に月岡鉄工所,スキー製造販売。すなわち明治44年には、横山喜作のスキーが一般人に向けて販売されていたのは事実である。
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◇説.3 1910年(明治43年)末、額縁屋の三間博が先端部を上手に曲げたスキーを製作、これが民間人が初めて作ったスキーだと言われています。
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◇説.4 「私が最初に履いたスキーは自家製の竹スキー。
 その後わら靴でも履ける木製のスキーが売り出された。高田の蔵番町の田原平八作のノルウェー式のスキー。値段は1本杖つきで1円50銭。明治44年(小川勝治著「日本のスキー発達史」昭和31年 朋文堂より)」 皇室にも献上させて頂いた事が有ると(ひ孫の方からの伝聞)。
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◇説.5 「私が初めてスキーを買ってもらい、履いたのは、明治44年。
 スキーは、台はケヤキで、木目も鮮やかに見える飴色に塗ってあり、製作所の屋号が焼き印で打ち抜いてあった。
 このスキーは当時製造されて売れ出された2種類のスキーの内、ノルウェー型だった。もう1種類はオーストリア型。(スキー夜話 / 山口諭助. -- 法政大学出版局, 1964 昭和39年)より」


 幾つかの説はあるが、最後のお二人は、実際に国産スキーを購入して貰い、履いている。明治44年(1911年)には、一般人が購入できるスキーが出回っていたことになる。
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18) 山田善四郎,高田日報,明治44年1月30日.  (高田の「山善」(山田善四郎スキー製作所))
19) 高橋熊蔵,スキー製造販売,高田日報,明治44年2月4日.
20) 横山喜作,スキー製造販売,高田日報,明治44年2月19日.
21) 月岡鉄工所,スキー製造販売,高田日報,明治44年2月20日.
25) 田中鉄工所,高田日報,明治45年1月1日.
 という資料もある。中央が掲載新聞、年月日である。

透明スペーサー
 なお、1908 明治41年
◇スキーを冬の遊び、スポーツとして紹介した人は、札幌農学校(現・北海道大学)のドイツ語講師として赴任してきたスイス人、ハンス・コラー(スイス)。両杖式のスキー1台を持参するが実技の指導なし。赴任当時のコラーはスキーをまったく滑れなかった。持参説よりも、母国からスキーを取り寄せ、学生たちに紹介したとの説に説得力がある。
 当時の学生たちは、そのスキーをモデルに馬そり屋にスキーを作らせ、校内の坂などで滑った。商品ではないスキーとしては、1908 明治41年が国産の第一号だろう。
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新説追加・『もしかしたら、日本で最初に作られたスキーの可能性も? 43年(1910)のはじめ』  2017/12/11追加
エゴン・フォン・クラッツアー(クラッセルとも読む、Egon Edler von Kretzer)は、「ドイツ商社シーメンスの日本駐在員として明治42年、26歳で来日した。
43年(1910)のはじめ早速横浜でスキーを作らせ、ドイツ語、英語のパンフレットを刷り、外国人相手に販売を始めている。」(「クラッセル」(登って滑る)より-リンク切れ)
あのレルヒは、1910年11月に交換将校として来日。1911年1月1日に、新潟県・高田(現上越市)の歩兵58連隊に着任。)東京の砲兵工廠で作らせたスキー10台を持って上越市高田に来た。すなわち、1910年11〜12月にスキーを製作。
クラッツアーは「43年(1910)のはじめに」とあるが、レルヒよりも10ヶ月ほど早くに製作と云うことになる。否定はできないが、当時のスキー製作技術、工具、治具を思うと半信半疑。
透明スペーサー
また次のような資料もあります。
1940年1月「TOURIST」に寄稿されたEgon Edler von Kretzerさんの手記「Skiing in Japan 30 Years Ago」です。
 1910年「スキーの製作と販売」
 勤務地横浜で母国から持参したスキーを見本に、家具職人にスキー板を、締め具は鍛冶屋に製作を依頼している。・・・。
「スキーの注文が増えたが、製造経験が不足で完全とはいえなかった」
 販売は「ジャパンポスト」「ジャーマンウィークリー」当時の英字新聞等に広告を掲載、広く通信販売を計ったとも述べもている。
クラッツアーさんの手記を訳してみました(趣味人倶楽部(しゅみーとくらぶ))より)
透明スペーサー
もしかしたら、日本で最初に作られたスキーの可能性も? 2つの資料から「明治43年(1910)」であることは間違いないでしょう。しかし「その年のはじめに」説は、原典が不明なので、まだ断定には至りません。少なくとも、日本での初期グループの一人ではあることは確かです。
透明スペーサー
透明スペーサー


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スキー用具の歴史

 ★ 太古のスキー ★


右上2点
 
右下
スキーの神ウル
壁画
穴のあいた骨の遺物
名寄叢書『北海道のスキーづくり』より
   (佐藤徹雄著,1983年)


 スキーの歴史は6千年以上ともいわれているが、スキー用具が大きく変貌したのは、わずかこの 100年足らずの間のことだ。


▼固定型のスキー留め具とくびれ型スキーの誕生
 ノルウエー南部テレマークの住人ソンドレ・ノールハイム(Sondre Norheim 1825〜1897)は、スキーの名手であるだけでなく、用具革命の人でもあった。
 1870〜80年代に、現代スキーの原型ともなった固定型のスキー締具を開発。ターンやジャンプしてもスキーは外れなくなり、それまで4千年続いていた伝統的なスキーに終止符をうった。
 また彼は「くびれ型スキー」を設計し、テレマーク・スキーと呼ばれ、現在のスキーの原型になっている。
◇ 詳しくは、当サイト内ソンドレ・ノールハイム

フィットフェルト式 締め具
図 1 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
フィットフェルト式 締め具の完成型


図 2 はフィッツフェルトの完成型。
鉄板のバッケンがスキーの木部を貫通し、
シュテムロッホに革製ベルトを付けて
固定している
▼フィットフェルト式 締め具
 1893 明治26年 フリッツ・フィットフェルトがバインディングを考案(1895年説もある)。爪先の位置に付けた金具に爪先と踵を留める革ベルトを付けたもので、フィットフェルト式締具と呼ばれる。
透明スペーサー
フィットフェルト式 締め具の完成型
フィットフェルト式


マチアス・ズダルスキーによる、最初の金属締具・リリエンフェルト式締具。1896年頃
最初の金属締具・リリエンフェルト式締具。1896年頃
フィットフェルト式
図 7 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
▼山岳スキーの創始者M.ズダルスキー
 最初の金属締具・リリエンフェルト式締具の誕生は、リリエンフェルト式スキー術を考案したマチアス・ズダルスキー(オーストリア。Mathias Zdarsky。マティアス・ズダルスキーとも表記。1856〜1940)による1896年頃のこと。1893年/明治26年(または1895年)フリッツ・フィットフェルトによるフィットフェルト式締具の説もある。

マチアス・ズダルスキー
マチアス・ズダルスキー
レルヒ少佐と連隊長の堀内大佐1911
レルヒ少佐と
連隊長の堀内大佐1911
 短めのスキー、ミゾ無しの滑走面、2本杖から1本に改良。それまでの2本杖のノルウェー流の滑降技術には無かったシュテムによる技術体系を確立。
 このスキーの特徴は、長大なノルウェー式と比べ全長が短く(手を伸ばして先が握れるくらい)、締具が頑丈で山岳地の急斜面の滑降に適しているということ。そしてストックが一本の杖であることが挙げられる。(ストックはスキーよりも少し短めで、鉄製の石突きが付いているが、ストックリングは無し。1922年出版のある書籍によれば「ツダルスキーの一本杖(竹製、長さ約180cm)」の記載がある。(図9:Henry Hoek“Der Schi", Bergverlag Rudolf Rother, Munich,1922,p81))
 注: ツダルスキーが、スキー術と用具を考案したリリエンフェルトの地名をとり、リリエンフェルト式****と呼ばれる。(ズタルスキーとリリエンフェルト式****についての詳しい説明

 当時のスキー靴は石器時代の頃のものと比べれば素晴らしかったが、深くて非常に柔らかい、女性が良く履いているような編みあげ式のブーツや一般の作業靴、といった程度のものである。防水と防寒のために、その上をスパッツで被うことが流行していたようだ。
 高速や氷の斜面の滑走を可能にした金属エッジが考案され、スキーに取り付けられたのは1930年頃のこと。1936年か少し前には合板スキーが誕生(実際の特許図面入り)し、従来の一枚板の単板スキーでは考えられなかったほどのしなやかなバネをもたらした。(国産初の合板スキーは、1949年の西沢)
1910 明治43年
1910 明治43年がゲオルグ・ビルゲリーが新しい締具を考案
図 8 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
 オーストリアの陸軍大佐ゲオルグ・ビルゲリー(Georg Bilgeri 1873〜1934)は、ズダルスキーの技術と ノルウェー流の技術を対立するものとは考えずに、両者を合わせて1つにまとめた。
新しい締具を考案し、2本杖を採用し、テレマーク型スキーを取り入れて、軍と一般の指導にあたった。
また1.2〜1.5mというショートスキーを、山岳登山に使用した先駆者である。



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エミール・アレ
第2次大戦前に活躍の
エミール・アレ(仏)
▼前傾スキーへの突入
 それから約30年間は強い前傾技術の時代で、スキーに開けた横穴に皮の前傾ベルトを通し、足首を縛っていた。当時の靴も締具もまったく前傾に適していなかったので、こういう方法でカバーしていた。この時代の後半は、靴底の中に金属板や木片を入れたりして、靴の作りも幾分しっかりしたものに変わっていた。しかしそれでも物足りないレーサー達は、2メートル近い長い皮ベルトで靴とスキーをしばり、前傾と足の固定を求めていた。オールドスキーヤーには懐かしいラグリーメンである。

イメージ写真
カンダハー (新)
カンダハー (新)
トウピース開放式。1965年頃
 その間の1935年にはアッテンホーファーが、性能のいいカンダハー式締具を開発した。解放締具がスイスの特許庁に登録されたのは1912年だが、実際の製品が誕生したのはその登録が消滅した後である。1952年にアメリカのA&T社(アンダーソン&トンプソンスキー会社)が、1954年に西ドイツのマーカーが開発している。
透明スペーサー
▼第2次世界大戦(1941〜1945)後
 第2次世界大戦が終ると、靴の後ろも紐で縛る靴をモリトールが作った。それを追いかけるように、一時代をふうびしたダブルの靴を、リーカーが誕生させている。靴と足の一体化の時代に入ってきた。
 木材だけで作られたスキーに、ジェット機にも使われている強いジュラルミンでサンドイッチしたメタルスキーが、1948年にヘッドによって作りだされた。いかにもアメリカ的な斬新なアイディアといえよう。
 このメタルスキーには面白い逸話。
 1956年の第7回冬季オリンピック、コルチナ・タンペッツオ大会で、トニー・ザイラー(オーストリア)がアルペンの三冠王。この大天才に勝つために、ジャン・ピュアルネ(フランス)が考えたのが、滑降競技ではスピードの出るメタルスキーの使用。
 それと長時間は無理とされていたクラウチング姿勢(卵型姿勢)を、肉体トレーニングによって可能にしたこと。
 1960年、スコーバレー(USA)のオリンピックで、ジャン・ビュアルネは最初のメタルスキーを使用して滑降の金メダル。クローチングスタイル、卵形の姿勢が世界で初めて公開された。
 この姿勢を「ピュアルネの卵(型姿勢)」とも言うのは、そのためである。
 現在は閉鎖サイト ski-and-ski/work/History/Hist2.htm アルペンスキー・ワールドカップの歴史 ナポレオンとギロチン (SKI & SKI)より
 1960〜1973年代(オノレ・ボネ監督〜ジョルジュ・ジュベール監督)の、フランス・アルペンスキーチームの天国から地獄時代10数年間の詳細。我が友人の木村之与カメラマン(KiPO PRESS)の貴重な、力作のスキーの歴史資料です。
 このページの中間辺りに載っています。


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 今日では紐式の靴は知らない人の方が多いと思うが、それに取って代わったバックルの登場は、ちょうどウェーデルンの時代に突入した頃だ。バックル靴の登場は、1958年にホックランド(西ドイツ、もしかしたらオーストリア?)によるものである。しかしヘンケも、世界最初のメーカーを名乗っている。
 ほぼそれと同時期に、グラスファィバー・スキーを開発したのは、クナイスルだ。同じ年に、スキーの軽量化をはかるために、中の芯材をくり抜いた空洞スキーも生まれている。
 日本でのグラススキーの誕生は、それに遅れること2年である。
 グラススキー誕生は同じKneissel社によってだが、1960年説もある。(『Reference.com/Encyclopedia/Ski』(英文→2015リンク切れ)
バックル靴の写真
1958年
ホックランドの世界初 バッ
クル靴 撮影:土方あきら
 面白い逸話 − どちらの会社が最初に?
 日本で最初にグラススキーを造ったのは、海研工業。東京・青山にあったこの会社で私(土方あきら)がアルバイトで、グラスファイバーを木芯に巻き付けグラススキーを造らせていただいたことがある(1965年頃)。
 1961〜63年のスキー案内(ベースボールマガジン社)に、海研工業「FRP10年 世界で一番古い硝子繊維スキーメーカー」の広告を載せている。
 しかし、ヤマハも同じく日本で最初のメーカーをうたっていた。
 こういうケースはよくあることで、世界で最初のバックル・スキー靴は、1958年にホックランドによるものである(右の写真)。しかしヘンケも、世界最初のメーカーを名乗っている。
 この最初のバックル・スキー靴も、私(土方あきら)はホックランドで見ている。


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▼プラスチックブーツの誕生
 今では常識のプラスチックブーツの誕生は、本当にごく最近のことだ。バックルやグラススキーの誕生と同じ1958年に、アメリカのラングが最初に手をつけている。しかしまだしばらくの間は、世界の主流は革靴のままだ。
  オールプラスチックブーツ誕生は同じラング社によってだが、1964年説もある。(『Reference.com/Encyclopedia/Ski』(英文→2015リンク切れ)
 次に流行った、皮の上にプラスチックをラミネートした靴の登場はその8年後(1963年頃)。防水性、硬さ、耐久性、天然材には難しい材質の均一性などが、プラスチック材の特徴である。更に色も黒一色だったものが、カラフルになり、しかもその色が鮮やかで、ファッション性からも、若者や女性に積極的に歓迎されていったのは当然である。
 その数年後から今日の一体成形のプラスチックブーツが、ぽつりぽつりと増えていき、と同時に革靴とラミネートの靴が減り始め、現在ではそのほとんど全てがこのタイプのスキー靴になっている。
 この硬いシェルを締めるためには、もはやヒモ式では不可能で、バックル・スキー靴に変わっていったのは当然である。(1958年にホックランド、またはヘンケが最初のものを開発)

 1968か69年頃?の春に(株)エバニューの依頼で、ダハシュタインの赤色のプラスチック・ブーツをテスト。多分、輸入可否の検討のためだったと思うが、男性の自分が初めての赤色ブーツを履き、恥ずかしく感じた記憶がある。
 それ以前は、革靴のひも締めが大半だった。
 '73の国内市場ではラミネート(ケミカルシート)が多く、一部にインジェクション成型。エアーフォームとフォーミングも。
 このエアーフォームとは、インナーブーツの中に空気室を造り、そこにエアーを注入することでフィット感を調整するもの。多分、西村一良氏(故人)の開発したシステムで、バイソンなどの国産スキー靴メーカー数社で大々的に採用。スキー靴はラミネート(ケミカルシート)であった。数年間は流行したが、その後姿を消した。
 1970年の夏に、私がイタリアのサンマルコ社を訪れたときに、初めて開発中のフォーミング・インナーを知り、1夏テスト。'72頃?頃から市場に出始め、その後かなり長い間少なくないシェアを占め、今でも続いている。上級者や選手などを対象に、ウレタン?などの発泡材2液を混合することで、より高いフィット感をもたらすものである。

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目で見るスキー板の歴史



 ★ 太古のスキー ★
太古のスキー

右上2点
 
右下
スキーの神ウル
壁画
穴のあいた骨の遺物
名寄叢書『北海道のスキーづくり』より
   (佐藤徹雄著,1983年)

 スカンジナビア半島など北ヨーロッパの遺跡では、紀元前2500年と測定される地層からスキーの遺物が出土しており、同時期の岩に描かれた壁画にも初期の姿をみることができる。はじめは、滑走具というより、踏雪具であったろうと思われるが、動物にひかせて橇(そり)のように用いることもあったようだ。また、紐を通して縛り付けるための穴をあけた獣骨もみられ、靴底に付ける踏氷具として凍結した湖沼の通行に用いられたのであろう。
かんじき
かんじき
上 米国アラスカ州
下 富山県利賀村 
手縄の付いたスキー
手縄の付いたスキー (静岡県)
 生活を営むうえでも、野山をめぐるには”歩く“・”走る“という機能分化が必要なはずで、歩く機能が「かんじき」として、走る機能がスキーやスケートとして発達したと考えられる。日本でも縄文時代晩期の是川遺跡(青森県・B.C1,000より以降)からかんじきの輪と推定できるものが出土しており、北アメリカなどとともに現代まで用いられてきている。

竹スキーとベンジャー
竹スキー「ベンジャ」とツマゴ
(青森県鶴田町)

 青森県・浪岡町細野・相沢地区では、2004年の地域おこしイベントで、「竹スキーのベンジャは初めて見た。挑戦したけどなかなか、むずかしい。でも楽しかった」と参加者が体験。
竹スキー吉城郡
吉城郡宮川村
 熊笹で自然の曲りを利用し、4本を針金で固め、前方の曲がった先に縄をつけた。中央に針金で靴を止めるようにした。前方の縄を両手で持ち、雪の上を滑った。

  • スキー 竹スキー ( 飛騨みやがわ考古民俗館)より (リンク切れ 2019/12)



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1870〜80年代
◇ノルウエー南部テレマークの住人ソンドレ・ノールハイム(Sondre Norheim 1825〜1897)は、スキーの名手であるだけでなく、用具革命の人でもあった。
 現代スキーの原型ともなった、固定型のスキー留め具を開発。ターンやジャンプしてもスキーは外れなくなり、それまで4千年続いていた伝統的なスキーに終止符をうった。
 また彼は「くびれ型スキー」を設計し、テレマーク・スキーと呼ばれ、現在のスキーの原型になっている。
◇ 詳しくは、当サイト内ソンドレ・ノールハイム

1896 明治26年 マチアス・ツダルスキー ◇マチアス・ツダルスキー(オーストリア。Mathias Zdarsky。マティアス・ズダルスキーとも表記。1856〜1940)が、「山岳(リリエンフェルト)スキー滑降術」を公表および出版。
 それまでと比べ短めのスキー、ミゾ無しの滑走面、2本杖から1本に改良。急斜面山岳地用の実用性を重視して、低い姿勢と、回転技術はプルーク・ボーゲン、シュテム・ボーゲン。
◇ズダルスキーが、最初の金属締具・リエンフェルト式締具を考案。(1893年/明治26年(または1895年)フリッツ・フィットフェルトによるフィットフェルト式締具の説もある)
 注: ツダルスキーが、スキー術と用具を考案したリリエンフェルトの地名をとり、リリエンフェルト式****と呼ばれる。(ズダルスキーとリリエンフェルト式****についての詳しい説明

1910 明治43年
◇オーストリア将校のゲオルグ・ビルゲリー(Georg Bilgeri)が「山岳スキー術(Alpine skiing)」を出版。リリエンフェルト・スキー術とノルウェースキー術を対立するものとは考えずに、両者を合わせて1つにまとめた。
 1本杖を廃して2本杖を採用。回転技術では、ノルウエー派のクリスチャニアを取り入れた。
 新しい締具を考案し、2本杖を採用し、テレマーク型スキーを取り入れて、軍と一般の指導にあたった。
 また滑走面に(最初の?)ミゾを採用、1.2〜1.5mというショートスキーを、山岳登山に使用した先駆者である。

将校夫人のスキー練習
将校夫人のスキー練習。
明治45年頃高田にて
       /上越市立総合博物館提供

 

 日本には明治になって伝わっている。特に、オーストリアの駐日武官として、1911年新潟県高田(現上越市)に派遣されたテオドール・エードラー・フォン・レルヒ少佐(Theodor von Lerch, 1869 - 1945年 享年76歳)の指導により普及した。ツダルスキー方式による「リリエンフェルト・テクニック」。行軍訓練が目的であったが、すぐに地元の人々だけでなく東京の学生などにも広まり、子ども用には竹を曲げたスキーも工夫されている。

1920〜1950年頃
透明スペーサー
アントン・ゼーロスの活躍、競技スキーとスキー用具の発達
    しかし、技術体系を確立には、あまり興味を示さなかった。
オーストリア、ゼーフェルト出身のアントン・ゼーロス(Anton Seelos オーストリア 1911年3月4日-2006年6月1日)は、いかなる流派にも属さないスキーの天才であった。彼は羊飼いであり、強靭な身体をもち、アールベルク・スキーにあきたらず、競技スキーに独自の境地を拓いた。
透明スペーサー
1930年代に入ると、スキーレースが各地で開かれるようになったが、オーストリアのホシュックやヴォルフガングは、踏み固められたバーンでは、最初からパラレルで良いと主張した。
透明スペーサー
図 14 スチールエッジ、踵があがらないバインディングar1930-1940頃 ?
図 14 スチールエッジ、踵があがらないバインディングar1930-40?
図 14 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
図 15 レース用のスキー板、先端の反りが少ない
図 15 レース用のスキー板、先端の反りが少ない
図 15 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
ゼーロスは、その豊かな素質に加えて、持ち前の探究心からスキー用具がスキーのコントロールに極めて重要であると考えた。これにはリフトやケーブルの発達により踏み固められたピステが出現したことと密接に関係する。
(土方の注:1935年、1936年にリフトが誕生し、ゼーロス39歳の1940年代に入ると欧州にもチェアリフトが架設されるようになった。)
透明スペーサー
ゼーロスはその著書で、スキー用具についてきめ細かい指示を出している。
・スキーは合板のグリップ性の良いものが必要である。特に、トップは出きるだけ反りが少なくコンタクト性に優れたものがよい。またスチールエッジは必須である。
・締具はカンダハー式としてブーツをしっかり板に固定し、踵を固定する。
・ブーツは底やシャフトが丈夫で堅く、エッジングに対応できるものを使用する。
・ストックは軽く操作のしやすいものを使用する。
・滑走専用のワックスを利用する。
・風雪よけのゴーグル、サングラス、ウェア、グローブが必要である。
透明スペーサー
ゼーロスのターンは、スキーは常にパラレル、立ち上がり抜重、アンティシペーション(回転初期のターン方向への先行的前投)、強い 前傾、早いターンの切り換えが特徴であった。
ゼーロスはシュテムの伝統ともいえる交互操作を巧みに使い、これに加えたアンティシペーションとターン終点の外傾姿勢で、エッジのコントロールを確実に行うようにした。
こうして、アールベルク・スキー術とは異なった、エッジングを効果的に使った現代の技術の先取りともいえる技術を確立した。 そして、これは踏み固められたピステに適した新しい技術であった。
しかし、数々の大会で抜群の成績を残したゼーロスは、 技術体系を確立するなどといったことにはあまり興味を示さなかった。
図 14 15 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
透明スペーサー
土方の注:
ドイツ語は全く不明の私ですが、時代特定のために、図 14 15の下のコメントが気になりました。大体、以下のような意味?だろうと想像します。
原文
(図 14:Anton Seelos. Wilhelm Voelk: “Abfahrtslauf”, Wilhelm Limpert Verlag ,Frankfurt/M, 1954,pp18-19、図 15:同 pp11-13)
怪しげな訳文
多分、大体このような意味だろう。
(図 14:Anton Seelos. Wilhelm Voelk共著: “Abfahrtslauf”(ダウンヒルスキー), Wilhelm Limpert Verlag ,Frankfurt/M(出版社), 1954年, ページ18-19、図 15も同著 ページ11-13より引用)




 スキーの板には摩擦と水分に耐えることが要求される。一枚板の単板スキーには弾力性のあるヒッコリーが最良とされ、日本ではイタヤやナラなども用いられていた。1930年代頃から薄い板二枚の間に別材をはさんだ合板が開発され、50年代になると合成樹脂やグラスファイバーも用いられるようになる。現在では、樹脂を発泡させて一体成型するインジェクションスキーが主流となっている。

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S.10年ころの単板スキー
昭和10年頃の単板スキーと
竹のストック・スキー用革靴
合板スキー昭和30年頃 「R.K.MIZUNO」
  合板スキー。 昭和30年頃 ラベル 「R.K.MIZUNO」 
合板にペイントしたスキー
   合板にペイントをしたスキー。
インジェクションスキー
  インジェクションスキー。
平成元年頃。ラベル「ROSSIGNOL]


 板と靴を一体化するための締め具は、1930年頃まで、爪先の位置に付けた金具に爪先と踵を留める革ベルトを付けたフィットフェルト式が用いられていた。これは靴幅の調整が可能で、踵が自由に動くため野山の雪原を滑るには適していた。
 1936年のガルミッシュ・オリンピックから普及したのがカンダハーという締め具で、爪先の前方に付けた金具にバネ式のワイヤーを付けて靴を留めた。これに、ラングリーメンという革紐を付けて踵を固定するものもできたが、怪我につながりやすく、転倒すれば外れるセイフティー・ビンディングに変わっていく。


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●スキーのISO-JIS規格


1912 日本のスキー板の工業的な製造は、小賀坂濱太郎氏により始まったと言われている(小賀坂スキー)。


1958 スキーに関する日本工業規格JIS S7007(アルペンスキー)が制定される。
1982 スキーに関する日本工業規格JIS S7019(スキー試験方法)が制定される。
1997 スキーに関する日本工業規格JIS S7028(アルペンスキー用のスキー・ビンディング・ブーツ(S-B-B)システムの組み立て、調整および検査方法)が制定される。
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ISO 11088(ISO=the International Organization for Standardization 国際標準化機構 1993年第1版・1998年第2版)= このISO 11088の内容をS-B-Bシステムと呼んでいます。
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'73スキー(2P)  '78スキー(6P)  '85スキー(2P)  '90スキー(2P)  '95スキー(1P) 
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締具の歴史(バインディングの歴史/ビンディングの歴史)

★ 締め具/バインディング/ビンディングの変化 ★
  • 写真は、'97年度冬の企画展 スキー・スケートの出現 [日本はきもの博物館・日本郷土玩具博物館] )より転載。
フィットフェルト式 締め具
フィットフェルト式
カンダハー (旧)
カンダハー (旧)
カンダハー (新)
カンダハー (新)
トウピース開放式。1965年頃
ヒールロータリー式締め具
ヒールロータリー式・セミラグリーメン
トウ、ヒールピース開放式。1965年頃
セイフティー (新)
ステップイン式
トウ、ヒールピース開放式。1967年?頃以降
1955 昭和30年頃の締具
1955 昭和30年頃の締具
◇ 1870〜80年代 固定型のスキー締具の誕生
 ノルウエー南部テレマークの住人ソンドレ・ノールハイム(Sondre Norheim 1825〜1897)は、スキーの名手であるだけでなく、用具革命の人でもあった。
 現代スキーの原型ともなった(「くびれ型スキー」と、)固定型のスキー締具を開発。ターンやジャンプしてもスキーは外れなくなり、それまで4千年続いていた伝統的なスキーに終止符をうった。
フィットフェルト式 締め具
図 1 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
フィットフェルト式 締め具の完成型


図 2 はフィッツフェルトの完成型。
鉄板のバッケンがスキーの木部を貫通し、
シュテムロッホに革製ベルトを付けて
固定している

◇ 1893 明治26年 フリッツ・フィットフェルトがバインディングを考案(1895年説もある)。
 爪先の位置に付けた金具に爪先と踵を留める革ベルトを付けたもので、フィットフェルト式と呼ばれるのは考案者の名前による。これは靴幅の調整が可能で、踵が自由に動くため野山の雪原を滑るには適していた。
フィットフェルト式 締め具の完成型
フィットフェルト式



マチアス・ズダルスキーによる、最初の金属締具・リリエンフェルト式締具。1896年頃
最初の金属締具・リリエンフェルト式締具。1896年頃
フィットフェルト式
図 7 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
◇ 1896年頃 山岳スキーの創始者M.ズダルスキーが最初の金属締具・リリエンフェルト式締具を誕生
 最初の金属締具・リリエンフェルト式締具の誕生は、リリエンフェルト式スキー術を考案したマチアス・ズダルスキー(オーストリア)による1896年頃のこと。1893年/明治26年(または1895年)フリッツ・フィットフェルトによるフィットフェルト式締具の説もある。

 フリチョフ・ナンセンが、「スキーでグリーンランドを横断」を1891年に出版。
 ツダルスキーはこの本に感銘し、リリエンフェルト(オーストリー)の山にこもり、約6年間のスキーの研究。やや幅広い短めのスキー板とリエンフェルト式締具も考案。滑ることを飛躍的に進歩させたリエンフェルト式締具は、完成までに150種類ほどの締具を制作・改良を繰り返した、と言われる。(杉山 進さん談)
 注: ツダルスキーが、スキー術と用具を考案したリリエンフェルトの地名をとり、リリエンフェルト式****と呼ばれる。(ズタルスキーとリリエンフェルト式****についての詳しい説明
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1910 明治43年がゲオルグ・ビルゲリーが新しい締具を考案
図 8 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
◇ 1910 明治43年がゲオルグ・ビルゲリーが新しい締具を考案。
 オーストリアの陸軍大佐ゲオルグ・ビルゲリー(Georg Bilgeri 1873〜1934)は、ズダルスキーの技術とノルウェー流の技術を対立するものとは考えずに、両者を合わせて1つにまとめた。
 新しい締具を考案し、2本杖を採用し、テレマーク型スキーを取り入れて、軍と一般の指導にあたった。
 また1.2〜1.5mというショートスキーを、山岳登山に使用した先駆者である。
◇ 1912 明治45年 解放締具が、スイスの特許庁に登録される。
 しかし、実際の製品が誕生したのは、その登録が消滅した後の1935 昭和10年である(アッテンホーファーのカンダハー式締具)。
◇1927 昭和2年
 Rottefella(ねずみ取り器)の軽量な爪先型の締め具は、ノルウェーのBror With (1900-1985) によって発明された。
 翌1928年サン・モリッツ冬季オリンピックでは、性能の良さで大成功を収め、、以来ずっと、クロスカントリースキー規格のままで、その後50〜60年間残っている。
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ハンネス・シュナイダーが考案した締具
図 13 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
◇1930? 昭和5年?頃
ハンネス・シュナイダーが締具を考案
『スキーの驚異(アールベルグバイブル)』(1924シュナイダー著、出版(25,000部))には、スキー用具の選び方とともに、締具はいかにあるべきかにかなり頁が割かれている。
スキーの長さは最長で 2 m30cmとし、 長いスキーの有利性を説いた。これは主として深雪を高速で滑るには適しているからである。
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締具については、ビルゲリーの時代から一転してスキーに横穴をあけて皮ひもを通している。シュナイダーは、微妙なアジャストができる皮ひもを最適とし、適切な締め具合と転倒したときのアローアンスが優れているとした。
そして、ノルディックやジャンプの締具と異なり、アルペン用は足を雪面から持ち上げた時にスキーがブーツの底とぴったりくっついてくるように固定すべきだと主張した。
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一方で登行や歩行の時には踵が上がり、これらの活動に支障をきたさないようにすべきであるとした。
図 13 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より 透明スペーサー
★ハンネス・シュナイダーについての詳しくは、
 アールベルグスキー術  シュテム

締具と前傾ベルトの写真
締具と前傾ベルト
(注:図は近代のもの)
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◇ 1930年頃から約30年間は皮の前傾ベルト
 強い前傾技術の時代で、スキーに開けた横穴に皮の前傾ベルトを通し、足首を縛っていた。当時の靴も締具もまったく前傾に適していなかったので、こういう方法でカバーしていた。
 この時代の後半は、靴底の中に金属板や木片を入れたりして、靴の作りも幾分しっかりしたものに変わっていた。しかしそれでも物足りないレーサー達は、2メートル近い長い皮ベルトで靴とスキーをしばり、前傾と足の固定を求めていた。オールドスキーヤーには懐かしいラグリーメンである。
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図 14 スチールエッジ、踵があがらないバインディングar1930-1940頃 ?
図 14 スチールエッジ、踵があがらないバインディングar1930-40?
図 14 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
◇ 1935年 アッテンホーファーが、性能のいいカンダハー式締具を開発した。
 解放締具がスイスの特許庁に登録されたのは1912年だが、実際の製品が誕生したのはその登録が消滅した後である。
◇最初のかかとグリップケーブル結合の締具は、1935年、カンダハーによる。(First heel-grip cable binding implemented in 1935 by Kandahar.)
◇1932〜1936年の間にアルペンレーサーは、新しいカンダハー締具でかかとを下に固定し始めた。
◇ 1952年にアメリカのA&T社(アンダーソン&トンプソンスキー会社)が、解放締具を開発。
◇ 1954年に西ドイツのマーカーが解放締具(リリース・バインディング)を開発。
◇1985 昭和60年
 クロスカントリー用のNNN(新しい北欧のNorm)爪先締具は、Rottefellaによって導入された。スキー靴ソールと締具が慎重に互いに適合させられたので、以前の爪先締具より改良されていた。


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◇ステップイン式締具
 私自身の記憶では、それまではヒールロータリー式のセミラグを使っていたのが、'68からステップイン式締具も使用(チロリア)。足首に巻き付けるベルトが無く、何とも心許なく、ゲレシュプなどの大技に挑む時はヒールロータリー式のセミラグ締具のスキーにプレート式締具1973 履き替えていた記憶がある。
◇プレート式締具
 '73シーズン前後の数年は、ガーチなどを代表とするプレート式締具も大きなシェアを占めていた。(革靴は姿を消し、ほんど全てがラミネート・スキー靴の時代)
 しかしその後プレート式締具は姿を消したのは、衝撃吸収と拘束性という締具としての大切な性能面のためかと思う。


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カンダハー (新)
カンダハー (新)
トウピース開放式。1965年頃
ヒールロータリー式締具
ヒールロータリー式・セミラグリーメン
トウ、ヒールピース開放式。1965年頃
セイフティー (新)
ステップイン式
トウ、ヒールピース開放式。1967年?頃以降
◇ 1960年代
 セフティという言葉(リリース・バインディング)が使われるようになったのは、1960年代に入ってから。それまでいわゆるカンダーハーが主流だった。カンダーハーにも改良が加えられ、一応解放装置が付くようになっていた。
 その後はLDRという締具が登場し、スキーサイドをはしるワイヤーがなくなり、靴先前方の着脱装置(フロントスロー)はワンタッチ(後ろを上げる)になっていきました。よくホープマーカーと親しまれた締具で、またキリーで有名なルックネバダ(仏)もその頃である。
◇ 1960年後半になると、ステップインと呼ばれた締具が普及
 現代のステップイン締具と形態がほぼ同じです。形態が同じようでも、性能面では現在のとでは遙かに遅れていました。
 この頃には、チロリア、サロモンが台頭。
◇ 開放式締具の普及に伴いスキー傷害が増え、エラスが登場
 セフティと呼ばれる開放式締具が登場したにもかかわらず傷害が増える。傷害例においてなんと締具の65%は機能を発揮していなかったというデータが出て来た。
 これらの締具は誤って強く調節され過ぎていた。恐らく適性な調節をすると解放し易かったのだろう。その後締具の弾性工程、いわゆるエラス理論(衝撃吸収)が出来てくるので、後にビンディングの性能における重大な要素となる。
◇ 1967年、ハンス・シュバルツェの提案によって、IAS(国際スキー安全研究会議)という組織が発足。
 ちょうど同じ頃、前後してスイス、アメリカでも研究され始められている。スキー傷害を減らす為に、正しい調節の信頼基準の方法は、足の脛骨頭幅に応じたものにした。
 そうして1972年締具の基準が発表されたのでした。
 現在はDIN(ドイツエ業規格)、ISO(国際規格)が幅広く使われているが、徐々にISOに統一されつつある。
 日本でも1985年、製品安全協会によって認定基準(SGマーク)がつくられた。(HP管理人の土方あきらも、1981.10〜86.1の間、スキー締具製品安全性自主基準 (SG)作成委員会を務めています。)


◇ 現在の締具は、エラス、復元力、拘束性、エネルギーといった様々な角度から安全な締具へと研究開発が進み高水準の技術力により、高いレベルの締具(ビンディグ)が普及しています。

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スキーブレーキ(または、スキーストッパー)


スキーブレーキ
スキーブレーキ
'77シーズン 商品名生産国価格
サロモンスペシャル日本4,200円
チロリアオーストリア6,300円
パラブラック・Aタイプスイス8,800円
ミラーイタリー4,000円
ラカドールフランス3,590円
スキーストッパーイタリー6,950円
マーカー西ドイツ4,500円
ケッチーイタリー
スキーペット日本
パラブラック・ツインタイプスイス6,900円
アルマート8000PSC西ドイツ12,800円
'77シーズンの製品と価格。まだ締具とはセットではなく単独商品として登場して、数年目の頃。



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スキーブレーキ この1960年頃に、スキーストッパー(スキーブレーキ)が誕生。
 ネズミ取りのような仕掛けを採用したユニークな、アメリカのミラーという締具メーカーが製作したものである。しかし、当時はそれほど人気を得ることはできなかった。(但しこれは土方あきらの記憶によるもので、資料などは無し)


 1970年代の半ばになると、ヨーロッパではブームといっていいほどの勢いで普及しはじめ、従来のヒモ式の流れ止めに取って替わる存在となっていった。


 スキーヤーの安全性を高めるために生まれた解放締具(リリース・バインディング)。しかし外れたスキーが流れては困るし、他人への危険性もあるので、それを防ぐためにスキーヤーの足とスキーを結びつける流れ止めベルト。ところがこの流れ止めベルトが原因で、外れたスキーが本人の身体に当たり怪我の原因になってしまう。
 この解決のために生まれたのが、スキーストッパー(またはスキーブレーキ)という装置である。


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締具とは別に、ばら売りだったスキーストッパー。
 ヨーロッパではブームといっていいほどの勢いで普及しはじめ、従来のヒモ式の流れ止めに取って替わる存在となっていった。
  '76シーズンでは、ヨーロッパおよびアメリカからの輸入で約20機種、それに国産品を合わせると、日本の国内でも30機種以上のストッパーが市販されるほどの商品になってしまった。  80シーズンでは、少なくとも13機種は存在した。この冬の普及率ということでは、国内使用経験者は57%より少し下と思われた。
 初めは締具以外のメーカーの製品が大半だったスキーストッパーも、'77シーズンでは自社のバインディング専用のスキーストッパーも増えています。ガーチ、サロモン、コバーなどはそのケースです(。価格は3,900円から7,800円まで)


 多分。'85シーズン頃からだろうか、ヒモ式の流れ止めは完全に姿を消し、かつ、締具とセットなってしまっている。


 しかし、昭和53年の『北海道新聞』で写真2点を入れてほぼ4分の1ページという大きなスペースで発表されたのが、
『スキーストッパー 危険!使わないで
新雪などに効果疑間
道スキー連盟傷害対策委 近く強力指導へ
「他人を傷つける危険性が高いスキーストッパーの使用はやめて」
 この冬、ゲレンデでの強い指導に乗り出そうとしている一方て、ストッパー着用の方は、リフトに乗れません≠ニ決めた道内のスキー場も現われている』


 ほぼ1カ月後の昭和54年1月22日に、それに追い打ちをかけるように新潟地方索道協会から会員リフト業者に、「ストッパー使用者のリフト乗車拒否」の通達がだされた。


 いま思えば、笑い話のような、というか信じ難い話だが、こういう時代があったのは事実である。新潟地方索道協会の会員である猪苗代スキー場でも、「ヒモ式の流れ止めが付いていないので、リフトには乗れません」となりかかったこともある。


 そのような経緯があり、
  「スキージャーナル1977年10月号」=22頁、
  「SKI'81-5集」(1980年秋)=24頁。
 という大特集を私が2回も組み、スキー環境の変化と傷害の関連について、データーを集め、スキーブレーキの実験結果を発表。今日の姿(=ほぼ100%に近い普及率)も予測しました。


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スキー・ソールの歴史(滑走面)

@ 木部をむき出し
 スキーの誕生から近代スキーに入ってのしばらくまで、ひじょうに長い間、この状態だった。水を吸い雪がつくので、ロウソクを塗って使用。
A ラッカー塗り
 1935年頃/昭和10年代に入ってから、底面に塗料が塗られる。
B ベークライト
 エポキシ樹脂系塗料で、当時としては、これはなかなかよかった。
C セルロイドプラスチック滑走面
 1947年に、Dynamicのポールマイケルは、最初のセルロイド(celluloid)プラスチック滑走面を誕生させた。
 セルタナ 日本では1953年頃/昭和28年頃か。しばらく続く。セルロイドが原料で、それを酢酸で溶かし、接着面を荒して接着。ところがこの酢酸が揮発するときに、スキー本体まで曲げてしまう。3年くらいもこの変化が続く(三浦敬三談)。
D ポリエチレン
 そして、1954年までに、ポリエチレン(polyethylene )はスキー滑走面材として広く利用できるようになっていた。
 PTEXは1950年代後半に誕生(PTEXはIMS社の商品名)。
 このポリエチレの初期の滑走面は、剥がれやすかった。簡単に言えば、布の上にポリエチレのシートを作り、その布とスキーの板を接着。当時は、まだ接着剤が進歩していなかったことによる。
 最近、話題のシンターンド・ベース。これは滑走面の素材の違いではなく、製法の一つ。従来からあった製法は、ポリエチレンの押し出し成形で、製造コストは次の方法の約3分の1。
 焼結製法と呼ばれるシンタードは、ポリエチレンを加熱・加圧し一度、高密度の円筒を作り、それをリンゴの皮をむくように帯状に仕上げる。
 エレクトラとかグラファイトと呼ばれるものも、シンタードである。但し、滑走中に生じる静電気の帯電を減らし、滑走性能高めるために、カーボンを混入しているものである。

 溝無しスキー誕生は、1975年?頃。
 私の趣味で行ったいろいろなスキー実験の一つが、ワックスで埋めた「ミゾ無しスキー」。1973年 9月号「スキージャーナル」誌で発表し、その数年後に国産のスワローと、フランスのダイナスター?が製品化したように記憶している。


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スキーの弾性材の歴史

 スキーは幾つもの材料から構成されている。ひじょうに大きなものだけ拾っても、ソール、エッジ、芯材、弾性材などがある。
 スキーにしなりやバネを持たせるのが弾性材と芯材の役目。ものが大きくたわんだとき、内側の表面はもっとも圧縮され、外側の下面はもっとも伸ばされて、元に戻ろうとする。これがバネとして働くので、弾性材や補強材はものの中心から遠くに置いたほうが有利になる。芯材の外側に弾性材を置いている理由である。


▼スキーの素材・弾性材
 この弾性材の種類によって、メタルスキーとかグラススキーなどと分類する方法もある。
 スキー素材としてのメタルは、超高力アルミまたはジュラルミンと呼ばれ、ジェット機にも使われているアルミ合金である。圧縮に強く、ネジレ強度に強いのが特徴。メタルスキーのパイオニアはヘッドだ。

◇単板スキー
 スキーの誕生から近代スキーに入ってのしばらくまで、ひじょうに長い間、この状態だった。
 ちなみに1907年、ロシニョール(フランス)がウッドスキーの生産開始をしている。(ボアロン(Voiron)で生産は始まり、まさに100年後の2007年に、その施設を閉鎖した。)


1936 昭和11年か少し前には合板スキーが誕生。(国産初の合板スキーは、1949年の西沢)
 同じ木材の合板スキーでも、弾性の強いヒッコリー材が高級スキーに使われたのは、1960年前後のことだろうか。もちろん全てがヒッコリーでは無く、ミズナラなどとの合板である。
 バネということでは、しなりのある竹(バンブー)は誰でも知っていること。そのバンブー・スキーは静岡県?のメーカーが作っていたのも、1960年前後のことだろうか。
 1964 昭和39年に出版された「スキー夜話 / 山口諭助著」の中にも、「最近、竹の合板スキーが生まれている。わが国の創製品はまだ量産には入っていないので、市場には僅かしか出ていないようであるが、創製品は、軽くて弾力性のあるスキーとして、、」という記述がある。


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◇スキー本体が弾性材だった時代の終わり
 スキーが誕生以来の単板スキーの長い時代、そして合板スキーが誕生(1936年か少し前)してからのしばらくの時代は、スキー本体が弾性材だった。
 それから弾性材で芯材を包む、メタルスキーやグラスファィバー・スキーなどが生まれ、改善され、スキー木部(=芯材)が持つ弾性材としての役目は軽減されていく。その極端なものがウッドレス・スキー(木材を使っていないスキー)や中空構造スキーの登場である。
 ウッドレス・スキーとは、例えば芯材に発泡プラスチックを使ったものである。オール・プラスチックスキーとも呼ばれた。芯材部分を空洞にしたのが、中空構造である。
 しかし、芯材としての木材の良さも捨てきれなかったようだ。早くにオール・プラスチックスキーを登場させたアトミックスキーだが、すぐに競技用のトップモデルのスキーには木材の芯材を復活させている。おぼろげな記憶だが、'76シーズンの頃だろうか?


 ボックス構造、サンドイッチ構造、オメガ構造などという呼び方は、この弾性材の使い方に対する分類方法である。
詳しくは後に述べてある。


◇廉価なスキーの問題
 ふつうグラススキーでは、100分の1ミリという太さのガラス繊維が素材で、片方のスキーに50万本以上の繊維を使っている。それが2割減っても、3割減っても、名称としてはグラススキーである。これは分かりやすくするための極端すぎる話だが、廉価なスキーではこういう傾向があったのは事実である。
 そうなると、スキーの芯材の与える影響が非常に大きくなる。さらには、シームレスの1本エッジを使っている場合は、全体に占めるこの影響も小さくない。スキーが大きく曲がった時に、この金属エッジが変形してしまい、スキーが元の状態に戻らないというケースもあったようだ。
 なお1995年頃から以降のスキーについては、研究をしていないために不明である。


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◇ 1948 昭和23年 メタルスキーが、ヘッド(アメリカ)によって作りだされた。
 なお、1934年に最初のアルミニウム・スキーはフランスという資料もある。
◇ 1958? 昭和33年 クナイスルがグラスファィバー・スキーを開発。
 日本でのグラススキーの誕生は、それに遅れること2年である。
 グラススキー誕生は同じKneissel社によってだが、1960年説もある。(『Reference.com/Encyclopedia/Ski』(英文→2015リンク切れ)


◇ 1958? 昭和33年 グラススキーの誕生と同じ年に、スキーの軽量化をはかるために、中の芯材をくり抜いた空洞スキーも生まれている。
 ハネカム(蜂の巣構造)によるヘクセル(アメリカ)は、空洞スキーのメーカーとして有名である。


◇1960年前後のことだろうか。
 宮城県仙台?の阿部スキーは、紙を芯材に使った空洞スキーを作っていた、という記憶がある。構造としてはハネカム(蜂の巣構造)を採用していたような気がするが、不確かである。



1960年に、グラスファイバースキー板がKneissel社、Plymold、Sailerによって首尾よく売り出された。
 1958 昭和33年にクナイスルが、という説もある。


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▼メタルスキー
 スキー素材としてのメタルは、超高力アルミまたはジュラルミンと呼ばれ、ジェット機にも使われているアルミ合金である。圧縮に強く、ネジレ強度に強いのが特徴。メタルスキーのパイオニアはヘッドだ。


▼FRPとはプラスチック強化ガラス繊維
 グラススキーでは、100分の1ミリという太さのガラス繊維(グラスファィバー)が素材。柔軟性、耐蝕性、耐水性などの長所があり、とくに引っ張り強度が強い。クロスやロービングといった繊維の織り方で、特定方向に対する特徴を生み出すこともできる。片方のスキーに50万本以上の繊維を使い、エポキシ樹脂で固めて強化する。プラスチックで強化されたグラススキーを略して、FRPスキーとも呼ぶ。


▼新繊維ケブラー、ウイスカーなどなど
 世はハイテク、ハイブリッドの時代。メタルやグラスだけでなく、多くの素材が採用されてきている。例えばオガサカでおなじみのケブラー繊維。グラスと較べて重さは半分、引っ張り強度は1.5倍、弾性係数は2倍もある。
素材別 特性一覧表
材質比重曲げ強度kg/mm曲げ弾性kg/mm
木材0.4〜0.89〜15500〜1,200
アルミ合金(75S-T6)2.8577,000
グラス1.99703,200
ケブラー1.38607,600
シリコン・カーバイト1.541106,300
 ゴルフクラブその他でおなじみのカーボン繊維。これはカーボンを高圧下の2千℃近くの高温で焼いたもの。それをもう一度3千℃以上で焼いたものがグラファイト繊維。グラスと較べて3倍、メタルとなら約1.4倍の高い弾性係数を持っている。ミズノが最近(1990年代半ば)、採用したウイスカーは微細針状結晶で、そのグラファイトの2〜5倍の弾性率を持つ素材だ。
 こういった新素材が、単独または組み合わせて使われている。


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▼構造によるスキーの分類

 弾性材に何を使うかは関係なく、どの様な形で使うかの構造で分類する場合もある。サンドイッチ構造のものが多く、ついでボックス構造。この2つで大半のスキーが作られている。


▼ サンドイッチ構造は、
 芯材の上下を弾性材でサンドイッチした構造。弾性材の使用が始まって以来の、もっともシンプルでスタンダードな構造である。更にそれを改良して、間にダンパーをはさんだり、あるいは異なる素材を組み合わせた、ダブル・サンドイッチとも呼ぶべき構造も登場している。
 初期に生まれたヘッドのメタルスキーも、クナイスルのグラススキーも、このサンドイッチ構造。その後も大半のスキーがこの構造であった。構造的に単純で手間がかからず、製造コストが安いので、とくに安価なスキーでは間違いなくサンドイッチ構造である。
 メタルスキーの場合は、安い・高いに関係なく基本的にこの構造になってしまうものである。


  ▼ 一方のボックス構造は、
 グラスなどの繊維を使った弾性材で、芯材を箱型にくるんだもの。ねじれ(トーション)強度の強さが特徴。それを強調してトーション・ボックス構造とも呼ぶ。


▼ オメガ構造は、
 建築でいう筋かいの理論を応用している。芯材の中に入れた補強材の断面がオメガ(Ω)の文字に似ているので、こう呼ばれている。その高さ、角度、スパーンの調整で、フレックスやネジレ強度を設計できる。ダイナスターがオメガ構造の元祖だ。
 フランスのダイナスター?がこの構造を早くから採用していたと私は記憶するが、定かではない。


▼ その他にもいくつかのタイプが、
 例えばハネカム構造は、自然界が生み出した最高の建築物のひとつである蜂の巣の構造を、芯材に取り入れている。ヘクセルのアルミハネカム芯材は、他の芯材と較べて重量は2分の1以下、強度は5〜10倍と説明されている。

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(スキー)エッジの歴史

@ 木部をむき出し
 スキーの誕生から近代スキーに入ってのしばらくまで、ひじょうに長い間、この状態だった。
ハンネス・シュナイダー1930(Johannes SchneiderまたはHannes Schneider, 1890年 - 1955年4月25日) A 金属エッジ
 1930年(昭和5年)、ラドルフ・レトナー(オーストリア)が考案(1928 昭和3年、1930 昭和5年説の資料がある)。
 まず初めの目的は、アイスバーンや高速を狙ったものではなく、単純に木部のスキーの角の削れの防止ではないかと想像する。
   その後この金属エッジが、いかに威力を発揮したか(「ダボスでの学生選手権で、オーストリア勢がすべてのタイトルを独占。一時は、無許可の補助用具の使用として、禁止騒ぎが起こったほど大きかった。」)、という面白いエピソードもある(「無許可?の補助用具・エッジの大威力」)。
 この年にハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)が、エッジつきのヒッコリースキーを持って来日。翌、昭和6年には物まねで国産化され、各自が軟鉄製の平エッジを購入し、大工に削ってもらい取り付けた。
 この平エッジのバラ売り、各自がつけるシステムは、昭和35年頃でも行なわれていたように思う。
 hp管理人の不確かな記憶によれば、幅8ミリ、長さ30cm、厚さ1.5ミリていどのパーツだったように思う。昭和37年(1962)ころでも、スポーツ店でバラ売りされていた。
B モールドエッジ
 1949年までには、マイケル(Dynamic’s Paul Michal )とハワードヘッド(アメリカの航空機エンジニア)は、埋め込み式のワンピース金属エッジのスキーを作った。(モールド1本エッジのこと)
 埋め込み式のL字型のモールドエッジの誕生は、昭和30年代の辺りだろうか。昭和32年以降、S36.7年頃の、たとえばフイッシャーには、モールドエッジがついていた記憶がある。
 エッジの幅広の接着部分を埋め込むことで、金属のソール側に出る表面積を減らし、滑走性が向上。まだ短いスパンのエッジで、つなぎ方式。コストの関係でしばらくの間は、まだ平エッジが主流。
C 1本エッジ
 継ぎ目による抵抗、めくれや剥がれなどの解決策として、今日のようなトップからテールまで1本のエッジの誕生。その後、いろいろなバリエーションが生まれる。


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▼クラックドエッジ
 たとえばクラックドエッジは、1本エッジに多数の切れ込みを入れることで、スキーのフレックスを殺さないようにするのが目的。初めはエッジの全長に渡って切れ込みが入っていたが、スキーのトップを柔らかくするため前半部のみに切れ込み、というものも生まれた。
 呼び方もメーカーによって、キャタピラエッジ、ミクロカットエッジ、フレキシブルエッジなどいろいろ。
▼レーシングエッジ
 なによりも滑走性が求められる競技の世界では、滑走面側に出るエッジの幅を狭くしたものもある。私の知る範囲では、このレーシングエッジはアトミックが初めに高速系の競技の、滑降用と大回転用に出している。
 今日ではその滑走面側の幅は、一般用でも2.5mmくらいのようで、競技用では 1.3、1.6mmという幅の狭いエッジもある。
▼エッジこぼれ話
◇ ダボスでの学生選手権で、オーストリア勢がすべてのタイトルを独占。一時は、無許可の補助用具の使用として、金属エッジ禁止騒ぎが起こったほど大きかった。
 上記は、故フランツ・ホッピヒラー教授より(=元オーストリア・ナショナルスキーチーム監督。元オーストリア国立スキー学校校長)
 ダボスでの学生選手権の開催年度が分からないので、年度は不明。但し金属エッジが1930年(昭和5年)に考案され、それから数年内の話ではないかと想像する。
透明スペーサー
◇ わずか20数年前でも、「 オフセット・エッジは初心者・初級者には危険だ! 」という論議も盛んでした。(オフセット・エッジとは、エッジの側面をスキーの側面よりも横に飛び出させて、アイスバーンや高速での切れを狙ったもの)
透明スペーサー
◇ 研がなくても済むように、すり減りの少ない硬いステンレスのエッジが登場したこともあります。確かにすり減りもなく、錆びることもなく、目出度し目出度しのはずでした。ところがチューンナップしようとしてヤスリをかけ、3時間ほど額に汗しても、ほとんど削れない、という悲劇もあったのです。


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滑走面のミゾの歩み

 滑走面にミゾが誕生したのは、1910 明治43年、オーストリアの陸軍大佐ゲオルグ・ビルゲリー(Georg Bilgeri 1873〜1934)によると思われる。その目的は皆さんが想像するとおりで、直滑降などでの方向性と安定性である。
1910 明治43年
 オーストリアの陸軍大佐ゲオルグ・ビルゲリー(Georg Bilgeri 1873〜1934)は、ズダルスキーの技術と ノルウェー流の技術を対立するものとは考えずに、両者を合わせて1つにまとめた。
新しい締具を考案し、2本杖を採用し、テレマーク型スキーを取り入れて、軍と一般の指導にあたった。
また1.2〜1.5mというショートスキーを、山岳登山に使用した先駆者である。

 とにかく初期のスキーのミゾは丸型(断面が半円形)で深く、ときには新雪や深雪ではターンを十分に妨害するほどの抵抗を生み出すものもあった。それが時代とともに変化し、今日のような浅い角ミゾになってきた。
 このミゾの深さ、角度などの影響の研究についても、SIAの参与でもある三浦敬三先生が、世界の第一人者である。


▼ミゾ無しスキー(溝無しスキー、 グルーブレススキー)
 しかしスキーのミゾは、一体なんで必要なのだろうか。近代のゲレンデは、かってのような新雪よりも踏み固められていることが多い。滑走は直滑降よりも、スキーを傾けて行なうターンが主体になっている。すなわち、昔のようなミゾの必要性が薄れたのではないか。と考え、「グルーブレス(ミゾ無し)・スキー」の実験を、1973年にスキージャーナルに、私は発表している。
 同じ疑問を持つ人がいて、その数年後に外国メーカー(フランスのダイナスターのように記憶)から実際の商品として誕生している。国内では、スワロースキーが早かったように記憶している。


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カービングスキーの誕生年度


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透明スペーサー


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その他の用具いろいろ

▼「膝当て」を発明は、1970か、それより少し前
 ワールドカップで活躍するエルヴィン・ストリッカー(イタリー)は、ローランド・トエニ(グスタボ・トエニの従弟)、タイラー・パルマー(USA)等とともに、彼自身も「スラロームの狂犬達」と称していた。彼らの膝は嫌というほどポールに打ち当たり、傷は絶えることがなかった。
 そこでストリッカーは膝の保護のために「膝当て」を発明、その後はスラロームパンツの中に縫い込まれるようになった。パルマーの初勝利は'71年、サン・モリッツ(SUI)のスラロームだったが、彼の左の膝のカバーには"Make love not war"と上書きがしてあった。

 現在は閉鎖サイト ski-and-ski/work/History/Hist3.htm アルペンスキー・ワールドカップの歴史3・狂気の70年代 (SKI & SKI)より引用・要約。


ムーンブーツ ▼1970年、 昭和45年「ムーンブーツ」
イタリアのテクニカ(TECNICA)がムーンブーツを発売。その後30年で2.000万足販売したという超ロングセラー。
 1969年にアポロ11号が月面着陸した際、宇宙飛行士がはいていた機能的 なオーバーシューズから誕生。最近(2005)では、極寒のNYで足元から寒さを防ぐスノーブーツとして、マーク・ジェイコブスやエミリオ・プッチなど有名ブランドからも発売されている。


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▼1970年、「ワックスを削り落とせ」
 当然の事ながら、ダウンヒルに於いても「マテリアル戦争」は起こった。
 1970年、ベルンハルト・ルッシ(SUI)は、バル・ガルデナ(ITA)の世界選手権でダウンヒルのチャンピオンとなった。彼のスタート番号は15。サービスマンはそれぞれスタートとゴールにいた。その時のトレーナーはジョルジュ・グリューネンフェルダーだったが、彼は数人の選手の滑りを見て緊急指令を出した。
 「ワックスを削り落とせ」
 それが勝利につながった。この秘密は1年近く経った後で、ルッシ同様スイスダウンヒルチームで色々工夫を凝らした男の一人であるワルター・トレッシュが漏らした。当時スイスチームにはワックスのスペシャリストとしてパウル・ベリンジャーがいた。彼はワックス落としの秘密についてこう語った。
 「メジェーブのシュプールの上で1日中テストを行なった。私は確認した。スキーは湿雪又は新雪に於いて、一度塗ったワックスを滑走面まで削り落とした場合、1分間に2分の1秒ずつ速く走ること。繊細な技術を持って手入れをしたスキーは、それによってより以上の効果を上げる」と。
 トレッシュは説明した。
 「そしてもし、スタートで誰かに聞かれた場合は、我々はスキーにワックスを塗っていなかった。それはただのトレーニング用のスキーなのだと答えたのさ」。

 現在は閉鎖サイト ski-and-ski/work/History/Hist3.htm アルペンスキー・ワールドカップの歴史3・狂気の70年代 (SKI & SKI)より引用・要約。


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▼1970年代、ウェア狂想曲と迂闊者達の終末
 イタリアの中級ダウンヒルレーサーであったバラロ、アンツィ、ベソン、エルウィン・ストリッカーたちが突然世界のトップに進出し、それが何故なのかを誰も気付かなかったのである。当時を思い出して誰もが、グリスマンまでもが「我々は迂闊でバカだった」と言う。
 「いわゆるラックアンツーク(ラッカーを塗ったダウンヒルスーツ)の効用については、すでに1969年にステファーノ・アンツィが発見していた。だが当初はまだ伸縮性が少なかった」。
 1973年12月のバルディゼールでヘルベルト・プランク(ITA)は、ラッカーを塗り立てたウェアで栄光の表彰台に立った。だがその時はそれを見て叫んだものは誰もいなかった。しかし1年後のバルディゼールではオーストリア人とドイツ人はイタリア人と同様にラックアンツークのウェアを着用してきた。
 「その頃には私も分かっていた」とルッシは思い出す。「フランツ・クナイスルが電話をよこした。”そのウェアがここにある。これにより1〜2秒のタイム短縮が可能だ”」と。
 しかしプラスチックウェアは翌'74、'75シーズンから禁止された。理由は高速で転倒した場合、レーサーがブレーキを掛けることが出来ない、というものだった。
 この規制に対して西ドイツのあるレーサーはただウェアを裏返しに着て出てきた。オーストリア人は素知らぬふりでウェアの裏(中側)にラッカーを吹き付けた。
 FISはウェアの空気通気量に関する規定を設置した。
 これを持って時代は終末を告げ、トリコットウェア着用でのレースでは実力のあるレーサーのみが成績を維持できるものとなってしまった。

 現在は閉鎖サイト ski-and-ski/work/History/Hist3.htm アルペンスキー・ワールドカップの歴史3・狂気の70年代 (SKI & SKI)より引用・要約。


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