要約版 SKI74-4「発掘・日本スキー用具発達史」瓜生卓造 
要約版 SKI74-4「発掘・日本スキー用具発達史」瓜生卓造

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▼ まえがき ▼

 瓜生さんは、1920−1982 昭和時代後期の小説家。早大在学中スキー部に所属し,耐久レースで活躍。月刊スキージャーナルや季刊SKI(実業之日本社)などにも、多く執筆があります。
 詳しくは、当サイト内 「 > 世界と日本のスキーの歴史館 > スキーの本・出版物・総リスト > 小説家などプロ作家による本 > 瓜生卓造 」
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 本編は、実業之日本社の季刊SKI誌に長期連載した「発掘・日本スキー用具発達史 第9回の富山・直江津・長野(編)」によるものです。SKI誌は毎年5〜6号ほど発行していたので、少なくとも2年がかりの連載です。
 他の号は既に廃棄しているので不明ですが、この号の「発掘・日本スキー用具発達史」は切り抜き、資料として残されていました。その記憶はありましたが、長年所在不明で諦めていたものが、2016年春に整理中に見つかりました。幸いでした。
 改めて読み返してみると、やはりスキー史の資料としても大変に貴重なものです。ここでは、スキー製造、スキーメーカーに関係しない部分は全て割愛して、量的には約半分ていどにダイエットしてあります。
 瓜生さんに感謝と敬意をもって、ここに勝手にダイジェスト版を紹介させて頂きました。
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 私にとって、金田スキーと波多スキーはとくに想いであるメーカーです。金田スキーには、二代目の社長時代に契約を頂き、たいへんな勉強もさせて頂いています(1969年5月から1974年6月の5年間の契約)。その間は冬を除き毎月1週間ほどは城端の工場にこもり、良いスキー作りに関わらせて頂いています。
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 この資料の掲載が、どなたかの研究や好奇心を満たすことへ、ささやかにでもお役に立てれば幸いです。
2016/04/28 土方あきら
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▼ 2.金田健治(金田スキー製作所  富山県東砺波郡城端町) ▼

(富山のスキーは、富山平野の南にひっそりと庇を寄せる城端の近郊、立野原にはじまる。城端はスキーの町となり金田スキー製作所が誕生した。)
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 金田(健治)の父親は棟梁であり、竹スキーの注文を受け、倅の彼も製作を手伝った。大正8年、14歳のときである。
 金田は年とともにスキーづくりに興味を持っていった。筏スキーでは満足できず、なんとか本格的なものをつくりたい、と思った。高田にいき、製作をかいま見、曲げ釜を求めて帰った。彼は幾日も見よう見まねでスキーと取り組んだ。もともと器用な生まれつきで、やがて一人前のスキーができるようになった。
 材は欅で、ベンド曲げには苦労が多かった。蒸気をかけるのと、湯で煮るのと、二つの方法を試みたが、一長一短であった。蒸気のほうが木のアクが抜けず弾力や強度はよかったが、曲げにくく破損が多かった。煮れば曲げやすいが、アクが抜け弾力が失われてしまう。欅という材質も最高のものとは思われなかった。
 昭和2年、ともかく金田スキーの看板をかかげたが、彼は自力では限度があるのを察して、北海道に渡り芳賀の門をたたいた。藤左衛門は親切に指導してくれた。芳賀は蒸気一本槍で、湯で煮てはダメだ、といった。特別に目新しい方法はなかったが、芳賀のつくるスキーは鮮かな仕上がりを見せた。また材も欅よりもイタヤのほうが、数等すぐれていることを知った。金田は3ヵ月も芳賀の食客となって滞在し、芳賀の案内で道東の遠軽方面にでかけ、イタヤを仕入れて城端に帰った。
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 帰ってみると、衣川清一(電力会社の重役・スキー連盟の評議員)が来城し、滞在していた。郊外の粗山ダムの工事責任者である。
 衣川清一は富山スキー発展のために桜庭留三郎を呼び寄せた。昭和4年であった。
 桜庭はスキーの名手であり、かつスキーづくりにもきわめて明るかった。金田はさっそく桜庭の指導を受けた。ことに中央ベンドの曲げは、独特の桜庭流であった。炭火を入れた釜でたわめるのだが、一度に曲げるのではない。釜の上でスキーを適宜に移動させ、小刻みに曲げていく。当然凸凹ができるが、これはカンナをかけてなめらかにした。この方法はきわめてすぐれたもので、一度つけた中央ベンドはけっして反りかえることがなかった。
 彼は樺太の小形(おがた)スキーや札幌のツバメスキーを持ちこんだ。さすがに優秀なスキーであった。これを手本に、金田はよりよいスキーを目ざして、いっそうの努力を重ねた。
 やがて衣川も桜庭も城端を去り、戦争がはげしくなった。この苦難を乗りこえて、戦後は金田スキーの名は高くなり、29年には株式会社に生まれ変わった。
 学童の下敷きを切り貼りして、セルロイドーエッジを考案した。日本最初のアメリカ向け輸出業者になった。
(SKI 74-4 「発掘・日本スキー用具発達史 第9回 富山・直江津・長野」瓜生卓造著 より抜粋 約半分にダイエット)
 全くの別資料に、「桜庭から紹介されたエッジ付きスキーの製造販売を始めたときは,日本で初めてのことであり,スキー界にセンセーションを巻き起こした」がある。前記のセルロイドーエッジのことだろうか。
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▼ 3.波多栄吉(波多スキー  富山県西礪波郡福光町) ▼

 城端の二つ手前の福光町には波多スキーがある。創業者は波多栄吉。
 栄吉は立志伝中の人である。貪しい農家に生まれ、地主の苛酷な搾取を目のあたりにして成長した。祖母が傑物で、機織をおこし、一家を泥沼から救った。父親の代には家業も順調になったが、栄吉は田舎の沈滞をきらい都会にでて働きたい、と思った。
 父親は栄吉を家にいつかせようと思い、二十歳で結婚させたが、彼はかまわずに家郷を飛びだし、名古屋にいって山本商店に勤めた。美津濃と並び称された大運動具店である。
 彼はきわめて勤勉であり、店で扱うスポーツ用具を一つ一つ丹念にメモして、他日の独立にそなえた。生活を切り詰め、3年で年季が明けたときには、700余円の貯金ができた。独立の決心をして、25歳で福光に帰ると、父親は2000円を投じてくれた。
 さっそく彼は職人ふたりを雇い、自宅のマユの乾燥室で、製作を開始した。最初に手がけたのは円盤である。栄吉は独特の圧縮法を考案し、絶対に(外側の)鉄がはずれない円盤をつくった。
 やがて波多円盤は全国にひろまった。
 円盤についで、バットである。さいわい付近の山に用材のトネリコが多かった。これは大ヒットした。「虎印、波多バット」は、徹夜作業も追いつかないほどの売れ行きをしめし、波多スポーツの基礎が築かれた。
 スキーをはじめたのは、さらに2、3年遅れ、大正14年からである。ドラム缶に湯をわかし、材をたわめて高田製の曲げ釜にかけた。しかし、ここがなかなか思うようにはいかなかった。彼は北海道に渡り、メーカーを見学しようと思ったが、芳賀も野村も容易に近づけてくれなかった。やむなく彼は客になって、スキーを注文した。客の申し出だから、メーカーも彼を工場に入れた。そこであますところなく観察して帰った。北海道仕込みで、波多のスキーは、優秀なものができるようになった。昭和十年代には押しも押されぬメーカーに成長した。
 戦後は復員してきた長男の錦一と力を合わせた。25年には合板に切り換えた。スキー・ブームの波に乗って商品は急速に伸びた。郊外に大きな工場を建てて引き移った。
 27年には長男に工場を託して、一線から退いた。
 波多スキーは錦一の手で発展の一路をたどっていた。昭和36年には、三菱重工の技術援助で日本最初のメタルスキーを開発した。最近は三浦雄一郎を抱えたり、波多の名は高かったが、昨年かぎりでふっつりとスキーと縁を切った。
 波多はもともとバットメーカーで、スキーは従であった。メーカーの乱立で割がわるくなったスキー製作をやめ、その分をバットや他の運動具にまわした。虎印バットと波多製作所は、栄吉のノレンを守っていまも隆盛である。
(SKI 74-4 「発掘・日本スキー用具発達史 第9回 富山・直江津・長野」瓜生卓造著 より抜粋 約半分にダイエット)
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▼ 4.田中鉄工場(田中スキー 越後直江津町) ▼

 明治末年、直江津に田中鉄工場というスキー・メーカーがあった。明治のスキーづくりはきわめて貴重なので記録にとどめておきたい、と思った。
 明治三十年代に、新潟鉄工場の直江津支店長に田中福松という技術者がいた。
 この人がのちに田中鉄工場として独立した。発祥当時の高田のメーカーは、締め具づくりに頭を悩ました。なにぶん複雑な金具で、町の鍛冶屋ではどうもうまくできない。彼らは思案の末、田中鉄工場に発注した。これがスキーと関係したはじめで、明治44年だ、という。(直江津駅前の旅館)「いかや」に蒸気ボイラーがあって、高田のメーカーはこれを借りて曲げていた。この県最初のボイラーも、じつは田中の示唆で買い入れたもので、田中が管理していた。
 田中は鉄工場だが、木工部も併設しており、翌年から高田から職人を呼んできてスキーをつくるようになった。材は欅で、ボイラーでふかし、三間式の曲げ釜にかけた。現在高田の郷土博物館に明治生まれの田中スキーが残されている。当時のものとしてはなかなかの出来とみた。
 しかし、田中のスキーづくりは長くはつづかなかった。大正5年版のスキー書に広告が見えるが、これが最後の年かもしれない。福松は優秀な技術者だったが、商才のほうはそう秀でてはいなかったらしい。結局高田のメーカーに押し流されてしまった。
 その後、彼は本来の鉄工場にかえった。いまは三代目が織機を製造している。この人は田中スキーのことはなにも知らない。
(SKI 74-4 「発掘・日本スキー用具発達史 第9回 富山・直江津・長野」瓜生卓造著 より抜粋 約半分にダイエット)
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▼ 5.西沢スキー ▼

 長野県には現在10軒にあまるメーカーがある。そのほとんどが飯山に集中しており、長野市出身というのは西沢1軒にすぎない。小賀坂も飯山で戦後になって長野にでた。
 西沢家は長野でも屈指の旧家、資産家である。善光寺の門前で書籍を商って十三代、家の歴史は徳川も中期にさかのぼる。三代目喜太郎がなかなかのやり手であった。西沢家の養子に入った。太っ腹で決断が早く、事業欲の旺盛な人であった。西沢家に磐石の礎を築いた。
 こんな西沢が、最初にスキー製作に手を染めたのは昭和6年である。西沢書店は2階で運動具を商っており、美津濃や美満津などのスキーを扱っていた。木工部門もあって学童の机や椅子、平行棒などの運動具を製造していた。
 そのころ県庁に中園という体育主事がいて、西沢と親しくしていた。
 中園は一種のスキー狂で、西沢にスキー製作をすすめた。木工場も持っていた。中園の示唆ですぐに製作に踏み切った。製作指導には野沢から富井宣威が呼ばれた。早大OBで草創期のジャンパーである。
 工場には休校中の木工学校が当てられた。富井は飯山から3人の職人を呼び、高橋という西沢子飼いの棟梁を職長に船出した。曲げ釜は小賀坂から買った。先端用5円、中央ベンド用が10円であった。
 イタヤ材が主体で、ベンドを水でたわめ石綿を置いて曲げ釜にかけた。石綿からのぼる蒸気が都合よく働いてくれた。
 とはいっても最初は思うようにいかず、赤字がつづいたそうである。西沢に太い屋台骨があったのでことさらな痛痒も感じなかった。先代はスキーづくりには反対で、最初のころは内緒でやつた、という。
 西沢スキーが軌道に乗ったのは、昭和10年をすぎてからである。そのころは現社長が采配をふるうようになっていた。富井宣威も、製作顧問のバトンを馬場忠三郎(菅平)に渡した。数年後には馬場からさらに西村一良に引き継がれた。
 戦争中も西沢スキーは多忙であった。軍から一度に3万台の注文を受けたりした。青森スキーや小賀坂や芳賀が協力してくれた。現社長は先代に似て太っ腹の事業家である。軍から大量注文を受けると、北海道に渡り、立木のまま15万台分の原木を買いこんできた。
 戦後は引きつづき西村が製作顧問として残り、25年から合板に着手、35年からメタル、翌年メタグラ、いまはグラスが主体である。西沢はランナーやジャンプ用はほとんどつくらないが、アルペンスキーは多くのオリンピック選手が愛用した。現在は杉山(進)が専属プロである。
 36年、緑町の工場が手ぜまになって篠ノ井に移った。従業員350名、年産10万台にあまる大メーカーとなった。
 ただ西沢のばあいは他のメーカーの主とちがって、立志伝中の話や、自らカンナを握った草創の苦しみはない。資力と経営の才で大きくなった。その点他の裏方に見る涙ぐましい楽屋話とは無縁である。
(SKI 74-4 「発掘・日本スキー用具発達史 第9回 富山・直江津・長野」瓜生卓造著 より抜粋 約半分にダイエット)
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★参考リンク 丸ボタン 西沢スキーの歴史、興亡 (2009/ 7/25)
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