▼ 2.金田健治(金田スキー製作所 富山県東砺波郡城端町) ▼
おまけ編
以下、私の大恩ある金田スキー製作所について、新井 博さんによる詳しい原稿が見つかった。
本来ここは、瓜生卓造さんのページではあるが、ここに併記させて頂く。 2019/09/16 土方あきら
大正末期から昭和初期における富山県の金田スキー製作所について【_pdf】
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著者;新井 博さん(福井大学教授) 掲載誌名;スポーツ産業学研究 1997 年 7 巻 2 号 p. 41-50 (9ページもの詳しい内容)
以下、瓜生卓造さんの原稿
(富山のスキーは、富山平野の南にひっそりと庇を寄せる城端の近郊、立野原にはじまる。城端はスキーの町となり金田スキー製作所が誕生した。)
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金田(健治)の父親は棟梁であり、竹スキーの注文を受け、倅の彼も製作を手伝った。大正8年、14歳のときである。
金田は年とともにスキーづくりに興味を持っていった。筏スキーでは満足できず、なんとか本格的なものをつくりたい、と思った。高田にいき、製作をかいま見、曲げ釜を求めて帰った。彼は幾日も見よう見まねでスキーと取り組んだ。もともと器用な生まれつきで、やがて一人前のスキーができるようになった。
材は欅で、ベンド曲げには苦労が多かった。蒸気をかけるのと、湯で煮るのと、二つの方法を試みたが、一長一短であった。蒸気のほうが木のアクが抜けず弾力や強度はよかったが、曲げにくく破損が多かった。煮れば曲げやすいが、アクが抜け弾力が失われてしまう。欅という材質も最高のものとは思われなかった。
昭和2年、ともかく金田スキーの看板をかかげたが、彼は自力では限度があるのを察して、北海道に渡り芳賀の門をたたいた。藤左衛門は親切に指導してくれた。芳賀は蒸気一本槍で、湯で煮てはダメだ、といった。特別に目新しい方法はなかったが、芳賀のつくるスキーは鮮かな仕上がりを見せた。また材も欅よりもイタヤのほうが、数等すぐれていることを知った。金田は3ヵ月も芳賀の食客となって滞在し、芳賀の案内で道東の遠軽方面にでかけ、イタヤを仕入れて城端に帰った。
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帰ってみると、衣川清一(電力会社の重役・スキー連盟の評議員)が来城し、滞在していた。郊外の粗山ダムの工事責任者である。
衣川清一は富山スキー発展のために桜庭留三郎を呼び寄せた。昭和4年であった。
桜庭はスキーの名手であり、かつスキーづくりにもきわめて明るかった。金田はさっそく桜庭の指導を受けた。ことに中央ベンドの曲げは、独特の桜庭流であった。炭火を入れた釜でたわめるのだが、一度に曲げるのではない。釜の上でスキーを適宜に移動させ、小刻みに曲げていく。当然凸凹ができるが、これはカンナをかけてなめらかにした。この方法はきわめてすぐれたもので、一度つけた中央ベンドはけっして反りかえることがなかった。
彼は樺太の小形(おがた)スキーや札幌のツバメスキーを持ちこんだ。さすがに優秀なスキーであった。これを手本に、金田はよりよいスキーを目ざして、いっそうの努力を重ねた。
やがて衣川も桜庭も城端を去り、戦争がはげしくなった。この苦難を乗りこえて、戦後は金田スキーの名は高くなり、29年には株式会社に生まれ変わった。
学童の下敷きを切り貼りして、セルロイドーエッジを考案した。日本最初のアメリカ向け輸出業者になった。
(SKI 74-4 「発掘・日本スキー用具発達史 第9回 富山・直江津・長野」瓜生卓造著 より抜粋 約半分にダイエット)
全くの別資料に、「桜庭から紹介されたエッジ付きスキーの製造販売を始めたときは,日本で初めてのことであり,スキー界にセンセーションを巻き起こした」がある。前記のセルロイドーエッジのことだろうか。