▼ スキークラブ・スクール・協会・連盟 の歴史▼
●世界初の椅子リフト 世界初のオーバーヘッドの椅子リフトは、昭和11(1936)年、アメリカ・アイダホ州ケチャムに建設された。 サンバレーからは、世界初のスキースクールや世界初の子供用クロスカントリーコースも生まれた。(現在山ノ内町志賀高原スキー場とアイダホ州サンバレースキー場は姉妹提携をしている。)
土方あきら注: 世界の「鹿島建設」が、よくこういったページを作ってくれたと感謝している。しかし、年度は不明だが「サンバレーからは、世界初のスキースクール」については、怪しげである。 1880 明治13年 クリスチャニア(今のオスロ)にスキー学校設立。(1877年の説もある) これよりも早くにサンバレー・スキー場が開かれていれば、可能性無しとはいえないが、私の感覚的にはアメリカのスキー史はそれほど古くはないように思える。 |
1875 / 1877年
1875年に、最初のスキークラブが、クリスティアニア(現在のオスロ)に設立された。(1877年の説もある)(諸説があるので、詳しくは世界最初のスキークラブは、いつ、どこ?」を参照)
その2年で後1877年に、最初のスキースクールがクリスティアニア(現在のオスロ)に設立された。(1880年の説もある)
1877 明治10年
ノルウェーのクリスチャニア(今のオスロ)に、初めてスキークラブが結成される。(1875年の説もある)
例えば、パラレル・ターンをかってはパラレル・クリスチャニアと呼んだのは、この地の選手の強さによる。
- 『Reference.com/Encyclopedia/Ski』(英文→2015リンク切れ)より
世界最初のスキークラブ誕生については、諸説があるので、一番後ろに「世界最初のスキークラブは、いつ、どこ?」をまとめました。詳しくは、こちらを参照下さい。(2010/ 9/28)
1880 明治13年
クリスチャニア(今のオスロ)にスキー学校設立。(1877年の説もある)
ノルウェー派スキー技術の特徴、丘陵地用(直線滑降型)、長いスキー、高い姿勢、停止技術としてテレマーク・クリスチャニア。
土方あきら注:
このページの冒頭に、年度は不明だが「サンバレーからは、世界初のスキースクール」説を紹介してある。しかし、これについて怪しげである。
1883 明治16年
ノルウェー・スキー連盟創設。
1890 明治23年
中央ヨーロッパで最初のスキークラブは、ドイツのミュンヘンで創設された。
但し北欧では、1875または1877年に最初のスキークラブが、クリスティアニア(現在のオスロ)に設立されている。
世界最初のスキークラブ誕生については、諸説があるので、「世界最初のスキークラブは、いつ、どこ?」を参照。
1896 明治26年
マチアス・ツダルスキー(オーストリア。Mathias Zdarsky。マティアス・ズダルスキーとも表記。1856〜1940)が、
「山岳(リリエンフェルト)スキー滑降術」を公表および出版。
ツダルスキーが、最初の金属締具・リエンフェルト式締具を考案。(1893年/明治26年(または1895年)フリッツ・フィットフェルトによるフィットフェルト式締具の説もある)
それまでと比べ短めのスキー、ミゾ無しの滑走面、2本杖から1本に改良。急斜面山岳地用の実用性を重視して、
低い姿勢と、回転技術はプルーク・ボーゲン、シュテム・ボーゲン。
▼ 1900年代
1900 明治33年
オーストリア・リリエンフェルト(Lilienfeld)に、「アルペンスキークラブ」が誕生。マチアス・ツダルスキーが中心になり、レルヒも重要メンバーとして参画し。毎年100名規模で増え、やがては正規会員だけで千名超。それ以外も含めれば2〜3千名?とか。
アルペンスキー技術の普及が目的で誕生。2005年までのクラブの活動は、その普及のための講習会を毎年1回開催するていどの、消極的なものであった。(福井大学教授・新井 博談)
1901 明治34年
マチアス・ツダルスキー(オーストリア Mathias Zdarsky)が、チロルの山岳地帯にスキー学校設立。
1月3日 サンクト・アントンの隣村サンクト・クリストフの「ホスピッツ」にて、歴史上初の「スキークラブ・アールベルグ(SCA)」が創設される。翌年から毎年スキー競技会が行なわれるようになり、ハンネス・シュナイダーが世界的に有名となる。
以上「スキークラブ・アールベルグ(SCA)」の出典は、次の公的な地元サイトなので、間違いないと確信する。
- チロル, 日本, 歴史, 関係, 交流, 姉妹都市(JTC - Japan Tyrol Coordinaition チロル州観光局日本担当オフィス・公式hp) リンク切れ2019/01/13
1907 明治40年
ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)によるスキー・レッスンが始まる。
場所はオーストリアのチロルまでは確か。サンクト・アントンの隣村サンクト・クリストフかも?
ハンネス・シュナイダーについての詳しくは、
アールベルグスキー術 シュテム
1910 明治43年
◇オーストリア将校のゲオルグ・ビルゲリー(Georg Bilgeri)が「山岳スキー術(Alpine skiing)」を出版。リリエンフェルト・スキー術とノルウェースキー術を対立するものとは考えずに、両者を合わせて1つにまとめた。
1本杖を廃して2本杖を採用。回転技術では、ノルウエー派のクリスチャニアを取り入れた。
新しい締具を考案し、2本杖を採用し、テレマーク型スキーを取り入れて、軍と一般の指導にあたった。
また滑走面に(最初の?)ミゾを採用、1.2〜1.5mというショートスキーを、山岳登山に使用した先駆者である。
彼のプログラムで、(1910 明治43年かそれより少し後に)最初のスキースクールはチロルで始まった。
1911 明治44年
新潟県高田市にオーストリアのテオドル・エドレル・フォン・レルヒ少佐が来日し、スキー専修員(青年将校10名、あるいは14名の説もある)
に教授する。(ツダルスキー方式による「リリエンフェルト・テクニック」)
高田市に我が国初のスキークラブ設立(2月)。−−「越信スキー倶楽部」
大日本体育協会設立。
▼ 1920年代
1921 大正10年 (または1922 大正11年の説もある)
ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)がオーストリアのサンアントンに、アールベルグ・スキースクール創設。
1922 大正11年
大日本体育協会内に、スキー部が設けられる。
1923 大正12年
Sir Arnold Lunn の援助を受け、 Lady Mabel Lunn、Doreen Elliot、Duncan Harvey によりイギリス婦人スキークラブがミューレンで発足。
1924 大正13年
シャモニー(フランス)において、F.I.S(国際スキー連盟)誕生。
1924年 1月 30日、スキ−の先駆者 Sir Arnold Lunn と、3人の女性を含む8人のイギリス人スキーヤーにより、カンダハル・スキークラブが発足しました。
当時未だ少数派であったアルペンスキーを、国際的なレベルに持ち上げることを目的。スキークラブの名前は、1911年に行われた [Roberts of Kandahar Cup] に由来します。この Lord Roberts は、1880年のアフガン戦争で勝利を記念してカンダハルというニックネームで呼ばれていました。
- Sir arnold Lunn Collection, Georgetown University(アーノルド・ラン卿、ジョージタウン大学コレクション アメリカ 英語) リンク切れ2019/01/13
S.A.J.(全日本スキー連盟)創設(2月15日、加盟20団体)。会長稲田昌植が就任。
S.A.J.日本体育協会に加盟。
1926 大正15年
S.A.J.、F.I.S.(国際スキー連盟)に加盟。
全日本大学専門学校スキー競技連盟結成。
1927 昭和2年
オーストリア・スキー教師国家試験制度制定。
1928 昭和3年
スキー技術の最先端を進むオーストリア国立スキー学校、国立ブンデスシュポルトハイム(現在は国立ブンデススキーアカデミー)が、サンクト・クリストフに創設される。
何代目かの校長がシュテフアン・クルツケンハウザー教授(1988.10.01 永眠、享年82歳。日本の現代スキーの恩人)
その次の校長が故フランツ・ホッピヒラー教授(元オーストリア・ナショナルスキーチーム監督。クルツケンハウザー教授の娘婿)
1929 昭和4年
(1923年イギリス婦人スキークラブ発足に続いて) 1929年、多くの女性達のスポーツ参加を明確に打ち出し、Elsa Roth がスイス婦人スキークラブを発足。
米国最初のリゾートベースのスキースクールは、1929年にSugarヒル(ニューハンプシャー)で開かれた。
また同じ年、ボストンからの組織化されたスキー列車、はニューハンプシャーのホワイト山脈に走り始めた。(米国)
▼ 1930年代
1931 昭和6年
新潟県スキー連盟が創立される。
1933 昭和8年
新潟県連創立2年後、長谷重スポーツ店を母体として新潟スキー倶楽部が誕生。第1回倶楽部行事、妙高高原スキーツアーを開催。
1937 昭和12年
東京府スキー連盟(現都連)創立(5月12日)。
1939 昭和14年
ナチスドイツが、オーストリアを併合(1938年)。
アメリカヘ亡命したハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)が、ノース・コンウエイにスキー学校開設。アメリカのスキーの新しい発展の力となる。
昭和14年1〜3月 SAJ全国スキー講習会が、全国40スキー場で開催。2〜3日間の講習+最後にバッジテスト。技術章検定(1、2級)制定。シーズン中の受講者 3,611人中、1級 148名、2級 525名が合格。
1939.12 SAJ第1回指導者講習会(検定会)が山形県五色温泉(山形県米沢市 五色温泉 宗川旅館)で開催。受験者64名、合格者10名(認定11名)の指導員が誕生する(文部省とSAJ共催)。西村一良さん合格。
土方注(2016.2):SAJ公式サイト内では、会場は「五色沼(福島県)で開催」とあるが、これは多分間違いである。同じ「五色」という単語から、山形県五色温泉を五色沼(福島県)と誤解した、と考える。
- 詳しくは 1939.12 第1回指導員検定講習会+第2回リスト を参照
1940.3月に野沢温泉で、SAJ第2回指導者講習会(検定会)。受検者47名、合格者12名。三浦敬三さん合格。
第2次世界大戦勃発(12月8日)
特別指導員制度制定
全日本スキー連盟、財団法人になる(厚生大臣認可4月23日)。
1942 昭和17年
第二次世界大戦勃発のため財団法人全日本スキー連盟解散、大日本体育会スキー部会となる。
戦技スキー指導者誕生。
1945 昭和20年
第2次世界大戦終結(8月15日)。
財団法人全日本スキー連盟復活(会長小島三郎)。
▼ 1950年代
1951 昭和26年
第1回国際スキー教育会議(略称インタースキー)がオーストリアのツールスで発足する(参加9力国)。
スキー指導に関する初めての国際会議。各国間の情報交換と人的交流の必要性の認識。
講演とデモンストレーションの組み合わせ。特徴、ローテーション技術。
12月 蔵王スキー学校(SAJ)草創。
1967 昭和42年秋
'68 磐梯プロスキースクール設立(その後、'70 磐梯チロリア・スキースクール → '73 チロリアスキースクールと改名し、
1977年 6月 磐梯ひじかたスキースクールに変更。)。
1968 昭和43年
日本職業スキー教師連盟(SIA) 発足
1981
SIA社団法人となり、(社)日本職業スキー教師協会
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