世界と日本のスキー歴史館・歴史・年表・年譜
SAJ(財団法人 全日本スキー連盟)スキーの歴史年表

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P-1
丸ボタン 0001-1929
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丸ボタン 1930-1939(昭和05-)
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丸ボタン 1940-1949(昭和15-)
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丸ボタン 1950-1959(昭和25-)
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丸ボタン 1960-1969(昭和35-)
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丸ボタン 1970-1979(昭和45-)
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丸ボタン 1980-1989(昭和55-)
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丸ボタン SAJ歴代会長リスト
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丸ボタン ◇ SAJ追悼碑 ◇ 2009/ 5/14新設
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  ▼ 過去データー ▼
丸ボタン 1939.12 第1回指導員検定講習会+第2回リスト
    2009/ 5/14 新設
丸ボタン 1956年 SAJ加盟団体リスト 2007/ 4/15新設
丸ボタン 1956年 昭和31年 役員名簿 2007/ 4/15新設
丸ボタン 2004年 平成16年 役員名簿 2007/ 4/15新設
丸ボタン 2008年 平成20年 役員名簿
    2009/ 5/14 新設



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丸ボタン 本物のSAJ公式サイト
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丸ボタン SAJ (公財)全日本スキー連盟の部屋へ (当サイト内です)
 SAJ傘下の都道県連、さらにその傘下のスキー連盟、スキー協会、そのまた所属クラブなど総リストでは、現時点でもっとも詳しいハズです(2007/ 8)。
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丸ボタン 新潟スキー100年史 (スキーにいがた(栄光のシュプール)より)
丸ボタン 加茂スキークラブ小史 (スキーにいがた(栄光のシュプール)より)
 上記3サイトは、fujitaさんという方個人の尽力によるものと思います。データー量の多さ、年度などの詳しさ正確さ、先人を称える人物史や顕彰者芳名録など素晴らしさ。敬意を表します。
丸ボタン 連盟61年間の歴史 (神奈川県スキー連盟より)
丸ボタン 県スキー史と歴代役員 (福島県スキー連盟より)
丸ボタン 東村山市スキー連盟の歴史 と 役員履歴  リンク切れ2010/1/15
丸ボタン SAJ会員証 写真(1980〜1999年) リンク切れ(2014/04/24)(スキー指導者サイトより)
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丸ボタン 本物のSIA公式サイト
丸ボタン SIAスキーの歴史年表78-88
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丸ボタン 世界と日本のスクール・連盟・協会など組織の歴史
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 1991年以降はまだ調べていません。
 他にも手がけなければいけない資料的なホームページが多数あるため、いつ出来るものかは不明です。申し訳ありません。

2004/ 8/10 管理人


★浦佐スキースクール
 2011年9月に浦佐スキー場と、運営母体の浦佐スキー観光(株)が閉鎖。50年もの歴史ある浦佐スキー学校も消滅し、DNAを引き継ぐ ネイティブリンクスキースクールが'12シーズンより誕生。
 (ちなみに、当サイトの管理人が運営する【磐梯ひじかたスキースクール】も、'12シーズンを最後に45年の歴史に幕を下ろします。
 かつ、初期の平沢文雄、佐藤加世子、平川仁彦さん達も顔見知りなので、いっそうの感傷が生まれています。2012.03土方あきら)


SAJスキーの歴史年表 − 0001-1929
  1925年 大正14年、S.A.J.(全日本スキー連盟)設立

1911 明治44年
 高田歩兵連隊(新潟県)に配属されたテオドル・エドレル・フォン・レルヒ少佐(オーストリア。Theodor von Lerch, 1869-1945年 享年76歳)が、1月12日、スキー専修員(青年将校10名、あるいは14名の説もある)に教授する。
 ツダルスキー方式による「リリエンフェルト・テクニック」。日本スキー界の恩人。
高田市に我が国初のスキークラブ設立(2月)。−−「越信スキー倶楽部」
 大日本体育協会設立。


1922 大正11年
 大日本体育協会内に、スキー部が設けられる。
1923 大正12年
 第1回全日本スキー選手権大会が北海道・小樽市郊外の緑が丘で開催される。
第1回冬季オリンピック・シャモニー大会ポスター
第1回
冬季オリンピック
・シャモニー大会
第2回冬季オリンピック・サンモリッツ大会ポスター
第2回
冬季オリンピック
・サンモリッツ大会

稲田昌植(Saj初代会長)
稲田昌植
(初代会長)
1925 大正14年
 S.A.J.(全日本スキー連盟)創設(2月)。会長稲田昌植が就任。
 S.A.J.日本体育協会に加盟。
1926 大正15年
 S.A.J.、F.I.S.(国際スキー連盟)に加盟。
 全日本大学専門学校スキー競技連盟結成。
1927 昭和2年
 『スキー年鑑』創刊号発刊(日本)。
1928 昭和3年
 第1回全日本学生スキー選手権大会が大鰐で開催される。
 第4回明治神宮体育大会にスキー競技会が加えられ、高田で開催される。
 第2回冬季オリンピック、サンモリッツ大会に参加する(7名)。

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SAJスキーの歴史年表 − 1930-1939

1930 昭和5年
 SAJ内に『フランス・スキー研究班』をつくり、渡仏させる
1931 昭和6年
 第1回スキー講習会実施(文部省主催)
 (SAJ?)加盟団体の資格を甲、乙 丙の3段階に分ける。
1932 昭和7年
 第3回冬季オリンピック、レイク・ブラシッド大会に参加する。
1936 昭和11年
 第4回冬季オリツピック、ガルミンシュ・パルテンキルヘン大会に15名が参加する。伊黒正次、ジャンプ7位。
1937 昭和12年
 全日本スキー選手権大会を滋賀県・伊吹山で開催。初めてのアルペン種目が採用(男子新複合、女子滑降のみ)。即ち第1回アルペン大会。
 東京府スキー連盟(現都連)創立(5月12日)。
1938 昭和13年
 世界選手権大会ジャンプ競技に初参加(フィンランド・ラハチ)。
 『一般スキー術要項』発刊。干家哲麿編。特徴はテレマークLST。
 スキー指導員制度制定。
 第1回全日本選抜スキー・ジャンプ大会(甲子園大会 1938年1月10日、後楽園球場1938年2月27日)
貨車で運ばれた雪を敷き詰めた球場内の特設ジャンプ台で開催。
詳しくは、ここをクリック(写真で見る、古き人工スキー場の歴史)
1939 昭和14年
 昭和14年1〜3月 SAJ全国スキー講習会が、全国40スキー場で開催。2〜3日間の講習+最後にバッジテスト。技術章検定(1、2級)制定。シーズン中の受講者 3,611人中、1級 148名、2級 525名が合格。
 第2回全日本選抜スキー・ジャンプ大会(後楽園大会 1939年1月28日、29日、甲子園大会1939年2月18日、19日)
 貨車で運ばれた雪を敷き詰めた球場内の特設ジャンプ台で開催。
詳しくは、ここをクリック(写真で見る、古き人工スキー場の歴史)
西村 一良 三浦 敬三
西村 一良 三浦 敬三
◇1939.12 SAJ第1回指導者講習会(検定会)が山形県五色温泉(山形県米沢市 五色温泉 宗川旅館)で開催。受験者64名、合格者10名(認定11名)の指導員が誕生する(文部省とSAJ共催)。西村一良さん合格。
 土方注(2016.2):SAJ公式サイト内では、会場は「五色沼(福島県)で開催」とあるが、これは多分間違いである。同じ「五色」という単語から、山形県五色温泉を五色沼(福島県)と誤解した、と考える。
『一般スキー術要項』改訂、高橋次郎他。

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SAJスキーの歴史年表 − 1940-1949

1941 昭和16年
 第2次世界大戦勃発(12月8日)
 特別指導員制度制定
 全日本スキー連盟、財団法人になる(厚生大臣認可4月23日)。
1942 昭和17年
 第二次世界大戦勃発のため財団法人全日本スキー連盟解散、大日本体育会スキー部会となる。
 『国民スキー教本』
 戦技スキー指導者誕生。
1943 昭和18年
 戦技スキー審議委員会が結成される。
 「スキー年鑑」第16号刊行、以後休刊
1944 昭和19年
 戦技スキー指導員養成中央講習会開催(菅平)。
 『戦技スキー読本』特徴、部隊訓練用スキー。


小島三郎(Saj二代会長)
小島三郎
(二代め会長)
1945 昭和20年
 第2次世界大戦終結(8月15日)。
 財団法人全日本スキー連盟復活(会長小島三郎)。
1946 昭和21年
 第1回地方競技会が、札幌(420名)、蔵王(70名)で開催される(厚生省共催)。
 横手、小千谷で、社会体育スキー指導者講習会が開催される。
 指導者講習会が野沢で開催される(3月)。
1947 昭和22年
 全日本学生スキー選手権大会が第20回大会として復活、小樽で開催される。
 全日本スキー連盟、基礎スキー部を設ける 。
 指導員検定講習、技術章検定制度(1〜3級復活)。
 『一般スキー術』猪谷六合雄、藤沢伸光、三浦敬三、柴田信一他共著発刊。特徴は前外傾によるターン、中間姿勢。
1948 昭和23年
 第3回国民体育大会冬季スキー大会
 兼 第26回全日本スキー選手権大会が野沢で開催される。
 第5回冬季オリンピック、サンモリッツ大会開催。日本からは不参加。
1949 昭和24年
 『スキー年鑑』7年ぶりに復刊
 日本初の風洞実験が東京大学第二工学部で実施される(のちにスキージャンプ競技の練習に使用)

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SAJスキーの歴史年表 − 1950-1959

猪谷 六合雄 三浦 敬三
猪谷 六合雄 三浦 敬三
1950 昭和25年
 『基礎スキー教科書』猪谷六合雄、竹節作太、野崎彊、柴田信一他共著。前外傾とローテーション。
1951年 (昭和26年)
 財団法人全日本スキー連盟、国際スキー連盟に復帰
1952 昭和27年
 第6回冬季オリンピッ久オスロ大会開催。30力国732名が参加する。
 アルペン複合が廃止され、大回転力て加えられる。女子距離競技が新設される。
 第6回冬季オリンピックに戦後初めて参加する(8名)。
 指導員研修会制度制定。
 技術章検定改訂(1〜5級)。
 全日本スキー選手権大会と国民体育大会スキー競技会が分離される。
 第1回高等学校スキー選手権大会が水上で開催される。
 『一般スキーテキスト』発刊、山本宇明男、栗林薫共編。特徴は、基礎回転からボーゲンとクリスチャニアへの道。
 後楽園の特設ジャンプ台で、ジャンプ及び回転の競技会開催。雪は新潟県から貨物列車で輸送(30車両分)
詳しくは、ここをクリック(写真で見る、古き人工スキー場の歴史)
スキーの歴史・片桐 匡(ただし)さん1972年 スキーの歴史・大熊 勝朗さん
片桐 匡 大熊 勝朗
小川勝次(Saj三代会長)
小川勝次
(3代め会長)
1954 昭和29年
 世界スキー選手権大会アルペン競技に戦後初めて参加する。
1955 昭和30年
 第3回インタースキーがフランスのパルデイゼールで開催される(参加13力国)。インタースキーに初参加(片桐 匡、橋本茂生)。
 フランス・スキー連盟へ片桐 匡、橋本茂生の2名を派遣。
 『一般スキーテキスト』『初心者のための滑降技術』大熊勝朗、中沢 清他共著。
 特徴、V字形ブライト滑降及び回転、ブライト・クリスチャニア。
1956 昭和31年
 第7回冬季オリンピック、コルチナ・タンペッツオ大会開催。7名参加。日本選手団スキー監督は野崎 彊(つとむ)。
  猪谷千春がスラロームで2位に入り、初のスキー・メダリストが誕生する。
 全日本スキー選手権大会のアルペン競技が、滑降・回転・大回転の3種目となる 。
スキーの歴史・野崎 彊(つとむ)さん 木原 均(Saj四代会長)
野崎 彊 木原 均
(4代め会長)
1958 昭和33年
 木原 均4代め会長に就任。
 アールベルクスキー学校長兼オーストリア職業教師達盟会長ルデイ・マットを招待する。
 ルデイ・マットによる講習会が、万座、伊吹、石打、岩原、赤城、日光、細野(現在の八方)で開催される。
 S.A.J.傷害防止対策委員会を設置する。
 世界スキー選手権バドガスタイン大会で猪谷千春、スラローム3位。
1959 昭和34年
 『S.A.J.スキーテキスト』発刊。柴田信一、三浦敬三他。バインシュピール技術を採用。

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SAJスキーの歴史年表 − 1960-1969

1960 昭和35年
 第8回冬季オリンピック、スコーバレー大会参加。
 ルデイ・マントを招き、技術員研修会を実施する。
1961 昭和36年
 スキー大学制度制定。
 現代スキー史年表1962一1969
1962 昭和37年
 第6回インタースキーがイタリアのモンテボンドーネで開催される(参加19カ国)。バインシュピール技術定着、比較デモ各国5名で競演。
 第6回インタースキーに柴田信一、中沢 清、西山実幾、大熊勝朗の4名が参加。
シュテフアン・クルッケンハウザー教授
シュテフアン・
クルッケンハウザー
1963 昭和38年
 シュテフアン・クルッケンハウザー教授(国際スキー教育会議議長『オーストリア・スキー教程』著者。1988.10.01 永眠。享年82歳)が、
 フランツ・フルトナー他2名とともに来日する。各地で講演会開く
1964 昭和39年
 第9回冬季オリンピック・インスブルック大会に20名参加。
 第1回S.A.J.デモンストレーター選考会を兼ねて、第7回インタースキー派遣デモンストレーター選考会が開催される。
 (前年に第1次選考会・山形県蔵王温泉で20名と、)1月に第2次選考会・青森県大鰐温泉で12名。計32名によって4月2日から4日間、八方尾根で第1回デモ選、18名を選出。
 土方注(2016.2):SAJ公式サイト内では、第1回Sデモ選会場は「(福島県・五色沼)」とあるが、これはほぼ間違いである。
1965 昭和40年
◇第7回インタースキーが、オーストリアのバドガンスタインで開催される(参加22カ国)。名実とも世界会議となる。スキーの全領域を包括する機構となる。
 初めてSAJデモンストレーター5名を派遣。日本からは計10名が参加する。
 日本代表デモンストレーターは平沢文雄、宮沢英雄(新潟県)、北沢宏明、丸山庄司(長野県)、斉藤城樹(群馬県)。中川 新、インタースキー理事となる。
 『スキー教程』改訂。大熊勝朗、岡沢吉夫、小島弘平他。
1966 昭和41年
 「スキー教程』改訂。本の装憤を改め、内容を加筆。
 丸山仁也が、全日本スキー選手権大会でアルペン男子初の三冠王
1967 昭和42年
 クルッケンハウザー教授一行4名が来日し、特別研修会を実施する。
 S.A.J.公認スキー学校制度制定。
スキーの歴史・東(あずま) 龍太郎
東 龍太郎
(5代め会長)
1968 昭和43年
 第8回インタースキーがアメリカ(アスペン)で開催される(参加18カ国)。30名が参加する。日本代表デモンストレーターは8名。
 東 龍太郎、第5代め会長就任。南波初太郎、インタースキー理事となる。
 第10回冬季オリンピック(フランス・グルノーブル)に、初めて女子選手の代表が出場。大杖美保子(アルペン)、加藤富士子(クロスカントリー)を派遣
1969 昭和44年
 『SAJスキー教程』発刊、開脚練習法(立ち聞き)。
 松浦益司郎、栗林薫、他。ターンをA、B、C、Dの4つに分類。屈膝平跨先落し技術が登場。これ以降シュテム・ボーゲンを削除。
 伊藤義郎、F.I.S.理事となる。

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SAJスキーの歴史年表 − 1970-1979

天野 誠一
天野 誠一
1971 昭和46年
 プレ・オリンピック大会開催(札幌)。23ヶ国が参加
 第9回インタースキーが西ドイツのガルミツシュ・パルテンキルヘンで開催される(参加21力国)。50名他が参加する。
 日本代表デモンストレーターは9名
 天野誠一、インタースキー理事となる。
 『SAJスキー教程』改訂。西山実幾、松浦益司郎、栗林薫他。特徴、屈藤平踏先落し(曲進系)。
1972 昭和47年
 第11回冬季オリンピック札幌大会開催。35か国参加。70m級ジャンプで3位まで独占する。1位笠谷幸生、2位金野昭次、3位青地清二、複合5位勝呂祐司。
   (青地清二氏、2008/ 8/14死去、66歳)
 菅 秀文、インタースキー理事となる。
1973 昭和48年
 5月24日、SAJが財団法人として文部大臣の認可を受ける
 日本で最初のワールドカップレース、(新潟県)苗場大会開催。柏木正義の回転10位、日本人初のワールドカップ獲得ポイント。
 全日本スキー連盟、財団法人復活(5月24日、文部省)。
 『日本スキー教程』発刊。菅秀文、浅井清次郎、丸山庄司、平沢文雄他。谷開きからのピボット・ターン。
1975 昭和50年
 第6代会長に伴 素彦就任
 第10回インタースキーがチェコスロバキアのピソケタトリで開催される。80名が参加する。日本代表デモンストレーターは10名
 福岡孝純、国際スキー指導者部会及び国際学校スキー研究部会の委員となる。
 ワールド・カップ苗場大会開催。
1976 昭和51年
 第12回冬季オリンピック、インスブルック大会に23名参加。
 ホビヒラー教授一行11名が来日し、指導員特別研修会を実施する。
 今村源吉、国際学校スキー研究部会の委員となる。
 富士重工業株式会社より、初めて海外遠征用のチームカー(SUBARU)の提供を受ける
1977 昭和52年
 ワールド・カップ富良野大会開催。
 世界スキー指導者連盟(I.V.S.I.)アルタウスゼー大会参加、渡辺才智、福岡孝純、平沢文雄。
 高鳥 修、インタースキー理事となる。佐藤 隆、国際学校スキー研究部会の委員となる。
1978 昭和53年
 ワールド・カップ、オーベルスタウフエン大会で海和俊宏、スラローム5位。
 第25回アルペンスキー世界選手権は西ドイツのガルミッシュ=パルテンキルヘンで開催。男女の滑降、大回転、回転、アルペン複合の計8種目が実施された。
  海和俊宏が回転で入賞目前の7位。
 土方注(2016.2):SAJ公式サイト内では、海和7位の会場は「スイス・サンモリッツ」とあるが、これは間違いである。
1979 昭和54年
 第11回インタースキーカ唱本の蔵王で開催される(参加23力国、3,024名)。
 1月28日〜2月4日、参加23カ国3,024名(内日本2,520名)。日本代表デモンストレーターは30名
 FIS副会長に伊藤義郎就任
 SAJ、国際パトロール連盟に加盟

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SAJスキーの歴史年表 − 1980-1989

1980 昭和55年
 第13回冬季オリンピック、レイク・ブラシツド大会開催。70m級ジャンプ、2位八木弘和、4位秋元正博。
 日本初のジャンプ・ワールド・カップ大会、札幌で開催される。八木弘和が日本選手初のワールドカップ優勝
 『日本スキー教程』発刊。膏秀文、浅井清治郎、平沢文雄、北河茂、丸山庄司、高野孝夫、奥田英二他。交互操作とステップ・ターン。
 全日本基礎スキー選手権大会とデモンストレーター選考会を分離
 第17回全日本基礎スキー選手権大会(大和ルスツ)
1981 昭和56年
 国際スキー指導者連盟(I.V.S.I.)オーベルストドルフ大会参加(福岡孝純、平川仁彦、藤本進)。
 『日本スキー指導教本』発刊。菅秀文、平沢文雄、北河茂、奥田英二他。
 『初級スキー教本』発刊。菅秀文、丸山庄司、平沢文雄、北河茂、高野孝夫、奥田英二。
 第1回全日本フリースタイル選手権大会開催(志賀サンバレー)。
 クロスカントリー全日本スキー選手権大会で、早坂毅代司が3年連続三冠達成
 菅秀文、インタースキーの理事となる。
1982 昭和57年
 『日本スキー教程』一部改訂(写真差し替え)。
 菅秀文、F.I.S.指導委員会委員となる。
1983 昭和58年
 第12回インタースキーがイタリアのセストで間催される(参加25カ国)。日本代表デモンストレー夕ーは13名
 オーストリア・ナショナルデモ・チーム特別研修会に来日。F・ホビヒラー(プンデススポーツハイム所長)他
1984 昭和59年
 S.A.J.会長、伴 素彦、オリンピック・オーダー銀賞(功労賞)を受賞する。
 全国公認スキー学校大会の名称変更、「公認スキー学校アニバーサリー」となる(第17回)。
 西ドイツ・ナショナルデモ・チーム特別研修会に来日。
 第17回公認スキー学校アニバーサリーに参加。ジーゲルト(西ドイツ・スキー教師達盟会長)他9名。
 初の国際スキーパトロール大会開催(長野県・車山高原)
1985 昭和60年
 国際スキー指導者連盟(I.V.S.I.)、ウオ力ティ大会参加。平沢文雄、平川仁彦、佐藤正人、工藤雅照、細野博、吉田幸一。
 インタースキーに全日本スキー連盟が加盟団体として再確認される。
 スイス・ナショナルチーム、K・ガンマー(国際スキー職業教師連盟会長)他9名、第18回公認スキー学校アニバーサリーに参加。
1986 昭和61年
 クルツケンハウザー教授、モージャ教授(オーストリア・スキー教師連盟副会長)中央研修会に来日、講演。
 第23回全日本スキー技術選手権大会(基礎スキー選手権大会の名称変更)開催(八方)。
 アメリカ、ナショナルデモ・チーム、H・アブラハム(スキー研究所々長)他12名、第19回公認スキー学校アニバーサリー大会に参加、
 特別講習会を開催。
 『日本スキー教程』全面改訂(ヴエアリアブル・スキーインク)。菅秀文、松浦益司郎、浅井清次郎、西原雅、丸山庄司、
 宮沢一英、元木義夫、北河茂、平沢文雄、奥田英二、高野孝夫、平川仁彦、藤本進、小林規他。
 第7代会長に堤 義明就任
1987 昭和62年
 第13回インタースキーがカナダのバンフで関催される(参加25カ国)。参加、日本代表デモンストレーターは9名
 オーストリア・ナショナルデモチーム、F・ホビヒラー教授他9名が、第20回公認スキー学校アニバーサリー大会に参加、特別講習会を開催。
 『日本スキー指導教本』改訂。菅秀文、平沢文雄、北河茂、高野孝夫、奥田英二、平川仁彦他。
 菅秀文、インタースキー理事に再選。
1988 昭和63年
 1988. 4.22 毎日新聞と読売新聞に、『SIAはSAJの傘下に、、が決定』の誤報記事が掲載。
    (関心のある方は、勇気をふるい、今だから明かす SIAがSAJに吸収?事件顛末 をどうぞ)
木原 均(Saj四代会長)
木原 均
 1988.10.01 日本の現代スキーの恩人、シュテフアン・クルツケンハウザー教授(オーストリア)永眠。享年82歳
 SAJ第3代会長・小川 勝次氏没、享年89歳
1989 昭和64年  (平成1年)
 SAJ第4代会長・木原 均氏没、92歳(1964冬季オリンピック団長)
1999 平成11年
 SAJ副会長兼専務理事の八木祐四郎が、JOC会長に就任。
 ノルウェー開催のインタースキーバイトストーレン大会へ代表団派遣。 2000 平成12年
 5月、オーストリアスキー連盟と協力協定締結。
2001 平成13年
 八木祐四郎副会長兼、専務理事(JOC会長)9月9日逝去。
スキーの歴史・片桐 匡(ただし)さん1972年
片桐 匡
2003 平成17年
 片桐 匡(ただし)(2003年11月15日永眠。享年83歳)
 1943年 第21回全日本スキー選手権 回転 優勝、元全日本スキー連盟副会長、指導者として数多くの選手を育ててきた。
2004 平成16年
 第8代伊藤義郎が会長に就任。
 猪谷千春、三浦雄一郎氏がSAJ名誉委員に、荻原健司氏が同顧問に就任。
 「基礎スキー」から「スキー」へ、「技能テスト」から「スキーバッジテスト」へ教育本部が大幅に改組、刷新。
2005 平成17年
 6月26日、財団法人全日本スキー連盟創立80周年記念式典、開催。
2006 平成18年
 天野誠一さん 2006年 8月25日永眠、享年89歳。
 SAJ在任中、教育関係を中心に、札幌オリンピック特別強化委員などなど。その後SIA第4代会長(1981年〜1996年)。スキー教師の育成、スキーの安全対策などにも貢献。当HP管理人が心から尊敬する方でした。
2010 平成22年
 第9代会長に鈴木洋一就任。
2011 平成23年
 東日本大震災の発生により、3月11日以降の国内公認大会の多くが中止に。フリースタイル・ジュニア世界選手権大会の選手派遣も見送り。
 「I LOVE SNOWキャンペーン」の一環として、SAJ主動の「復興支援活動」を展開。
2013 平成25年
 7月30日、内閣府より「公益財団法人」の認定を受ける。

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