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P-1 0001-1929 1930-1939(昭和05-) 1940-1949(昭和15-) 1950-1959(昭和25-) 1960-1969(昭和35-) 1970-1979(昭和45-) 1980-1989(昭和55-) P-2 SAJ歴代会長リスト ◇ SAJ追悼碑 ◇ 2009/ 5/14新設 P-3 ▼ 過去データー ▼ 1939.12 第1回指導員検定講習会+第2回リスト 2009/ 5/14 新設 1956年 SAJ加盟団体リスト 2007/ 4/15新設 1956年 昭和31年 役員名簿 2007/ 4/15新設 2004年 平成16年 役員名簿 2007/ 4/15新設 2008年 平成20年 役員名簿 2009/ 5/14 新設 |
本物のSAJ公式サイトへ SAJ (公財)全日本スキー連盟の部屋へ (当サイト内です) SAJ傘下の都道県連、さらにその傘下のスキー連盟、スキー協会、そのまた所属クラブなど総リストでは、現時点でもっとも詳しいハズです(2007/ 8)。 新潟スキー100年史 (スキーにいがた(栄光のシュプール)より) 加茂スキークラブ小史 (スキーにいがた(栄光のシュプール)より) 上記3サイトは、fujitaさんという方個人の尽力によるものと思います。データー量の多さ、年度などの詳しさ正確さ、先人を称える人物史や顕彰者芳名録など素晴らしさ。敬意を表します。 連盟61年間の歴史 (神奈川県スキー連盟より) 県スキー史と歴代役員 (福島県スキー連盟より) 東村山市スキー連盟の歴史 と 役員履歴 リンク切れ2010/1/15 SAJ会員証 写真(1980〜1999年) リンク切れ(2014/04/24)(スキー指導者サイトより) 本物のSIA公式サイトへ SIAスキーの歴史年表78-88へ 世界と日本のスクール・連盟・協会など組織の歴史 1991年以降はまだ調べていません。 他にも手がけなければいけない資料的なホームページが多数あるため、いつ出来るものかは不明です。申し訳ありません。
2004/ 8/10 管理人 ★浦佐スキースクール 2011年9月に浦佐スキー場と、運営母体の浦佐スキー観光(株)が閉鎖。50年もの歴史ある浦佐スキー学校も消滅し、DNAを引き継ぐ ネイティブリンクスキースクールが'12シーズンより誕生。 (ちなみに、当サイトの管理人が運営する【磐梯ひじかたスキースクール】も、'12シーズンを最後に45年の歴史に幕を下ろします。 かつ、初期の平沢文雄、佐藤加世子、平川仁彦さん達も顔見知りなので、いっそうの感傷が生まれています。2012.03土方あきら) |
SAJスキーの歴史年表 − 0001-1929
1925年 大正14年、S.A.J.(全日本スキー連盟)設立
1911 明治44年高田歩兵連隊(新潟県)に配属されたテオドル・エドレル・フォン・レルヒ少佐(オーストリア。Theodor von Lerch, 1869-1945年 享年76歳)が、1月12日、スキー専修員(青年将校10名、あるいは14名の説もある)に教授する。
ツダルスキー方式による「リリエンフェルト・テクニック」。日本スキー界の恩人。
高田市に我が国初のスキークラブ設立(2月)。−−「越信スキー倶楽部」
大日本体育協会設立。
大日本体育協会内に、スキー部が設けられる。
1923 大正12年
第1回全日本スキー選手権大会が北海道・小樽市郊外の緑が丘で開催される。
第1回 冬季オリンピック ・シャモニー大会 |
第2回 冬季オリンピック ・サンモリッツ大会 |
稲田昌植 (初代会長) |
S.A.J.(全日本スキー連盟)創設(2月)。会長稲田昌植が就任。
S.A.J.日本体育協会に加盟。
1926 大正15年
S.A.J.、F.I.S.(国際スキー連盟)に加盟。
全日本大学専門学校スキー競技連盟結成。
1927 昭和2年
『スキー年鑑』創刊号発刊(日本)。
1928 昭和3年
第1回全日本学生スキー選手権大会が大鰐で開催される。
第4回明治神宮体育大会にスキー競技会が加えられ、高田で開催される。
第2回冬季オリンピック、サンモリッツ大会に参加する(7名)。
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SAJスキーの歴史年表 − 1930-1939
1930 昭和5年SAJ内に『フランス・スキー研究班』をつくり、渡仏させる
1931 昭和6年
第1回スキー講習会実施(文部省主催)
(SAJ?)加盟団体の資格を甲、乙 丙の3段階に分ける。
1932 昭和7年
第3回冬季オリンピック、レイク・ブラシッド大会に参加する。
1936 昭和11年
第4回冬季オリツピック、ガルミンシュ・パルテンキルヘン大会に15名が参加する。伊黒正次、ジャンプ7位。
1937 昭和12年
全日本スキー選手権大会を滋賀県・伊吹山で開催。初めてのアルペン種目が採用(男子新複合、女子滑降のみ)。即ち第1回アルペン大会。
東京府スキー連盟(現都連)創立(5月12日)。
1938 昭和13年
世界選手権大会ジャンプ競技に初参加(フィンランド・ラハチ)。
『一般スキー術要項』発刊。干家哲麿編。特徴はテレマークLST。
スキー指導員制度制定。
第1回全日本選抜スキー・ジャンプ大会(甲子園大会 1938年1月10日、後楽園球場1938年2月27日)
貨車で運ばれた雪を敷き詰めた球場内の特設ジャンプ台で開催。
詳しくは、ここをクリック(写真で見る、古き人工スキー場の歴史)
1939 昭和14年
昭和14年1〜3月 SAJ全国スキー講習会が、全国40スキー場で開催。2〜3日間の講習+最後にバッジテスト。技術章検定(1、2級)制定。シーズン中の受講者 3,611人中、1級 148名、2級 525名が合格。
第2回全日本選抜スキー・ジャンプ大会(後楽園大会 1939年1月28日、29日、甲子園大会1939年2月18日、19日)
貨車で運ばれた雪を敷き詰めた球場内の特設ジャンプ台で開催。
詳しくは、ここをクリック(写真で見る、古き人工スキー場の歴史)
西村 一良 | 三浦 敬三 |
土方注(2016.2):SAJ公式サイト内では、会場は「五色沼(福島県)で開催」とあるが、これは多分間違いである。同じ「五色」という単語から、山形県五色温泉を五色沼(福島県)と誤解した、と考える。
- 詳しくは 1939.12 第1回指導員検定講習会+第2回リスト を参照
1940.3月に野沢温泉で、SAJ第二回指導員検定講習会。三浦敬三さんが合格者の中の一人。
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SAJスキーの歴史年表 − 1940-1949
1941 昭和16年第2次世界大戦勃発(12月8日)
特別指導員制度制定
全日本スキー連盟、財団法人になる(厚生大臣認可4月23日)。
1942 昭和17年
第二次世界大戦勃発のため財団法人全日本スキー連盟解散、大日本体育会スキー部会となる。
『国民スキー教本』
戦技スキー指導者誕生。
1943 昭和18年
戦技スキー審議委員会が結成される。
「スキー年鑑」第16号刊行、以後休刊
1944 昭和19年
戦技スキー指導員養成中央講習会開催(菅平)。
『戦技スキー読本』特徴、部隊訓練用スキー。
小島三郎 (二代め会長) |
第2次世界大戦終結(8月15日)。
財団法人全日本スキー連盟復活(会長小島三郎)。
1946 昭和21年
第1回地方競技会が、札幌(420名)、蔵王(70名)で開催される(厚生省共催)。
横手、小千谷で、社会体育スキー指導者講習会が開催される。
指導者講習会が野沢で開催される(3月)。
1947 昭和22年
全日本学生スキー選手権大会が第20回大会として復活、小樽で開催される。
全日本スキー連盟、基礎スキー部を設ける 。
指導員検定講習、技術章検定制度(1〜3級復活)。
『一般スキー術』猪谷六合雄、藤沢伸光、三浦敬三、柴田信一他共著発刊。特徴は前外傾によるターン、中間姿勢。
1948 昭和23年
第3回国民体育大会冬季スキー大会
兼 第26回全日本スキー選手権大会が野沢で開催される。
第5回冬季オリンピック、サンモリッツ大会開催。日本からは不参加。
1949 昭和24年
『スキー年鑑』7年ぶりに復刊
日本初の風洞実験が東京大学第二工学部で実施される(のちにスキージャンプ競技の練習に使用)
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SAJスキーの歴史年表 − 1950-1959
猪谷 六合雄 | 三浦 敬三 |
|
『基礎スキー教科書』猪谷六合雄、竹節作太、野崎彊、柴田信一他共著。前外傾とローテーション。
1951年 (昭和26年)
財団法人全日本スキー連盟、国際スキー連盟に復帰
1952 昭和27年
第6回冬季オリンピッ久オスロ大会開催。30力国732名が参加する。
アルペン複合が廃止され、大回転力て加えられる。女子距離競技が新設される。
第6回冬季オリンピックに戦後初めて参加する(8名)。
指導員研修会制度制定。
技術章検定改訂(1〜5級)。
全日本スキー選手権大会と国民体育大会スキー競技会が分離される。
第1回高等学校スキー選手権大会が水上で開催される。
『一般スキーテキスト』発刊、山本宇明男、栗林薫共編。特徴は、基礎回転からボーゲンとクリスチャニアへの道。
後楽園の特設ジャンプ台で、ジャンプ及び回転の競技会開催。雪は新潟県から貨物列車で輸送(30車両分)
詳しくは、ここをクリック(写真で見る、古き人工スキー場の歴史)
片桐 匡 | 大熊 勝朗 |
小川勝次 (3代め会長) |
世界スキー選手権大会アルペン競技に戦後初めて参加する。
1955 昭和30年
第3回インタースキーがフランスのパルデイゼールで開催される(参加13力国)。インタースキーに初参加(片桐 匡、橋本茂生)。
フランス・スキー連盟へ片桐 匡、橋本茂生の2名を派遣。
『一般スキーテキスト』『初心者のための滑降技術』大熊勝朗、中沢 清他共著。
特徴、V字形ブライト滑降及び回転、ブライト・クリスチャニア。
1956 昭和31年
第7回冬季オリンピック、コルチナ・タンペッツオ大会開催。7名参加。日本選手団スキー監督は野崎 彊(つとむ)。
猪谷千春がスラロームで2位に入り、初のスキー・メダリストが誕生する。
全日本スキー選手権大会のアルペン競技が、滑降・回転・大回転の3種目となる 。
野崎 彊 |
木原 均 (4代め会長) |
木原 均4代め会長に就任。
アールベルクスキー学校長兼オーストリア職業教師達盟会長ルデイ・マットを招待する。
ルデイ・マットによる講習会が、万座、伊吹、石打、岩原、赤城、日光、細野(現在の八方)で開催される。
S.A.J.傷害防止対策委員会を設置する。
世界スキー選手権バドガスタイン大会で猪谷千春、スラローム3位。
1959 昭和34年
『S.A.J.スキーテキスト』発刊。柴田信一、三浦敬三他。バインシュピール技術を採用。
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SAJスキーの歴史年表 − 1960-1969
1960 昭和35年第8回冬季オリンピック、スコーバレー大会参加。
ルデイ・マントを招き、技術員研修会を実施する。
1961 昭和36年
スキー大学制度制定。
現代スキー史年表1962一1969
1962 昭和37年
第6回インタースキーがイタリアのモンテボンドーネで開催される(参加19カ国)。バインシュピール技術定着、比較デモ各国5名で競演。
第6回インタースキーに柴田信一、中沢 清、西山実幾、大熊勝朗の4名が参加。
シュテフアン・ クルッケンハウザー |
シュテフアン・クルッケンハウザー教授(国際スキー教育会議議長『オーストリア・スキー教程』著者。1988.10.01 永眠。享年82歳)が、
フランツ・フルトナー他2名とともに来日する。各地で講演会開く
1964 昭和39年
第9回冬季オリンピック・インスブルック大会に20名参加。
第1回S.A.J.デモンストレーター選考会を兼ねて、第7回インタースキー派遣デモンストレーター選考会が開催される。
(前年に第1次選考会・山形県蔵王温泉で20名と、)1月に第2次選考会・青森県大鰐温泉で12名。計32名によって4月2日から4日間、八方尾根で第1回デモ選、18名を選出。
土方注(2016.2):SAJ公式サイト内では、第1回Sデモ選会場は「(福島県・五色沼)」とあるが、これはほぼ間違いである。
1965 昭和40年
◇第7回インタースキーが、オーストリアのバドガンスタインで開催される(参加22カ国)。名実とも世界会議となる。スキーの全領域を包括する機構となる。
初めてSAJデモンストレーター5名を派遣。日本からは計10名が参加する。
日本代表デモンストレーターは平沢文雄、宮沢英雄(新潟県)、北沢宏明、丸山庄司(長野県)、斉藤城樹(群馬県)。中川 新、インタースキー理事となる。
『スキー教程』改訂。大熊勝朗、岡沢吉夫、小島弘平他。
1966 昭和41年
「スキー教程』改訂。本の装憤を改め、内容を加筆。
丸山仁也が、全日本スキー選手権大会でアルペン男子初の三冠王
1967 昭和42年
クルッケンハウザー教授一行4名が来日し、特別研修会を実施する。
S.A.J.公認スキー学校制度制定。
東 龍太郎 (5代め会長) |
第8回インタースキーがアメリカ(アスペン)で開催される(参加18カ国)。30名が参加する。日本代表デモンストレーターは8名。
東 龍太郎、第5代め会長就任。南波初太郎、インタースキー理事となる。
第10回冬季オリンピック(フランス・グルノーブル)に、初めて女子選手の代表が出場。大杖美保子(アルペン)、加藤富士子(クロスカントリー)を派遣
1969 昭和44年
『SAJスキー教程』発刊、開脚練習法(立ち聞き)。
松浦益司郎、栗林薫、他。ターンをA、B、C、Dの4つに分類。屈膝平跨先落し技術が登場。これ以降シュテム・ボーゲンを削除。
伊藤義郎、F.I.S.理事となる。
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SAJスキーの歴史年表 − 1970-1979
天野 誠一 |
プレ・オリンピック大会開催(札幌)。23ヶ国が参加
第9回インタースキーが西ドイツのガルミツシュ・パルテンキルヘンで開催される(参加21力国)。50名他が参加する。
日本代表デモンストレーターは9名
天野誠一、インタースキー理事となる。
『SAJスキー教程』改訂。西山実幾、松浦益司郎、栗林薫他。特徴、屈藤平踏先落し(曲進系)。
1972 昭和47年
第11回冬季オリンピック札幌大会開催。35か国参加。70m級ジャンプで3位まで独占する。1位笠谷幸生、2位金野昭次、3位青地清二、複合5位勝呂祐司。
(青地清二氏、2008/ 8/14死去、66歳)
菅 秀文、インタースキー理事となる。
1973 昭和48年
5月24日、SAJが財団法人として文部大臣の認可を受ける
日本で最初のワールドカップレース、(新潟県)苗場大会開催。柏木正義の回転10位、日本人初のワールドカップ獲得ポイント。
全日本スキー連盟、財団法人復活(5月24日、文部省)。
『日本スキー教程』発刊。菅秀文、浅井清次郎、丸山庄司、平沢文雄他。谷開きからのピボット・ターン。
1975 昭和50年
第6代会長に伴 素彦就任
第10回インタースキーがチェコスロバキアのピソケタトリで開催される。80名が参加する。日本代表デモンストレーターは10名
福岡孝純、国際スキー指導者部会及び国際学校スキー研究部会の委員となる。
ワールド・カップ苗場大会開催。
1976 昭和51年
第12回冬季オリンピック、インスブルック大会に23名参加。
ホビヒラー教授一行11名が来日し、指導員特別研修会を実施する。
今村源吉、国際学校スキー研究部会の委員となる。
富士重工業株式会社より、初めて海外遠征用のチームカー(SUBARU)の提供を受ける
1977 昭和52年
ワールド・カップ富良野大会開催。
世界スキー指導者連盟(I.V.S.I.)アルタウスゼー大会参加、渡辺才智、福岡孝純、平沢文雄。
高鳥 修、インタースキー理事となる。佐藤 隆、国際学校スキー研究部会の委員となる。
1978 昭和53年
ワールド・カップ、オーベルスタウフエン大会で海和俊宏、スラローム5位。
第25回アルペンスキー世界選手権は西ドイツのガルミッシュ=パルテンキルヘンで開催。男女の滑降、大回転、回転、アルペン複合の計8種目が実施された。
海和俊宏が回転で入賞目前の7位。
土方注(2016.2):SAJ公式サイト内では、海和7位の会場は「スイス・サンモリッツ」とあるが、これは間違いである。
1979 昭和54年
第11回インタースキーカ唱本の蔵王で開催される(参加23力国、3,024名)。
1月28日〜2月4日、参加23カ国3,024名(内日本2,520名)。日本代表デモンストレーターは30名
FIS副会長に伊藤義郎就任
SAJ、国際パトロール連盟に加盟
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SAJスキーの歴史年表 − 1980-1989
1980 昭和55年第13回冬季オリンピック、レイク・ブラシツド大会開催。70m級ジャンプ、2位八木弘和、4位秋元正博。
日本初のジャンプ・ワールド・カップ大会、札幌で開催される。八木弘和が日本選手初のワールドカップ優勝
『日本スキー教程』発刊。膏秀文、浅井清治郎、平沢文雄、北河茂、丸山庄司、高野孝夫、奥田英二他。交互操作とステップ・ターン。
全日本基礎スキー選手権大会とデモンストレーター選考会を分離
第17回全日本基礎スキー選手権大会(大和ルスツ)
1981 昭和56年
国際スキー指導者連盟(I.V.S.I.)オーベルストドルフ大会参加(福岡孝純、平川仁彦、藤本進)。
『日本スキー指導教本』発刊。菅秀文、平沢文雄、北河茂、奥田英二他。
『初級スキー教本』発刊。菅秀文、丸山庄司、平沢文雄、北河茂、高野孝夫、奥田英二。
第1回全日本フリースタイル選手権大会開催(志賀サンバレー)。
クロスカントリー全日本スキー選手権大会で、早坂毅代司が3年連続三冠達成
菅秀文、インタースキーの理事となる。
1982 昭和57年
『日本スキー教程』一部改訂(写真差し替え)。
菅秀文、F.I.S.指導委員会委員となる。
1983 昭和58年
第12回インタースキーがイタリアのセストで間催される(参加25カ国)。日本代表デモンストレー夕ーは13名
オーストリア・ナショナルデモ・チーム特別研修会に来日。F・ホビヒラー(プンデススポーツハイム所長)他
1984 昭和59年
S.A.J.会長、伴 素彦、オリンピック・オーダー銀賞(功労賞)を受賞する。
全国公認スキー学校大会の名称変更、「公認スキー学校アニバーサリー」となる(第17回)。
西ドイツ・ナショナルデモ・チーム特別研修会に来日。
第17回公認スキー学校アニバーサリーに参加。ジーゲルト(西ドイツ・スキー教師達盟会長)他9名。
初の国際スキーパトロール大会開催(長野県・車山高原)
1985 昭和60年
国際スキー指導者連盟(I.V.S.I.)、ウオ力ティ大会参加。平沢文雄、平川仁彦、佐藤正人、工藤雅照、細野博、吉田幸一。
インタースキーに全日本スキー連盟が加盟団体として再確認される。
スイス・ナショナルチーム、K・ガンマー(国際スキー職業教師連盟会長)他9名、第18回公認スキー学校アニバーサリーに参加。
1986 昭和61年
クルツケンハウザー教授、モージャ教授(オーストリア・スキー教師連盟副会長)中央研修会に来日、講演。
第23回全日本スキー技術選手権大会(基礎スキー選手権大会の名称変更)開催(八方)。
アメリカ、ナショナルデモ・チーム、H・アブラハム(スキー研究所々長)他12名、第19回公認スキー学校アニバーサリー大会に参加、
特別講習会を開催。
『日本スキー教程』全面改訂(ヴエアリアブル・スキーインク)。菅秀文、松浦益司郎、浅井清次郎、西原雅、丸山庄司、
宮沢一英、元木義夫、北河茂、平沢文雄、奥田英二、高野孝夫、平川仁彦、藤本進、小林規他。
第7代会長に堤 義明就任
1987 昭和62年
第13回インタースキーがカナダのバンフで関催される(参加25カ国)。参加、日本代表デモンストレーターは9名
オーストリア・ナショナルデモチーム、F・ホビヒラー教授他9名が、第20回公認スキー学校アニバーサリー大会に参加、特別講習会を開催。
『日本スキー指導教本』改訂。菅秀文、平沢文雄、北河茂、高野孝夫、奥田英二、平川仁彦他。
菅秀文、インタースキー理事に再選。
1988 昭和63年
1988. 4.22 毎日新聞と読売新聞に、『SIAはSAJの傘下に、、が決定』の誤報記事が掲載。
(関心のある方は、勇気をふるい、今だから明かす SIAがSAJに吸収?事件顛末 をどうぞ)
木原 均 |
SAJ第3代会長・小川 勝次氏没、享年89歳
1989 昭和64年 (平成1年)
SAJ第4代会長・木原 均氏没、92歳(1964冬季オリンピック団長)
1999 平成11年
SAJ副会長兼専務理事の八木祐四郎が、JOC会長に就任。
ノルウェー開催のインタースキーバイトストーレン大会へ代表団派遣。 2000 平成12年
5月、オーストリアスキー連盟と協力協定締結。
2001 平成13年
八木祐四郎副会長兼、専務理事(JOC会長)9月9日逝去。
片桐 匡 |
片桐 匡(ただし)(2003年11月15日永眠。享年83歳)
1943年 第21回全日本スキー選手権 回転 優勝、元全日本スキー連盟副会長、指導者として数多くの選手を育ててきた。
2004 平成16年
第8代伊藤義郎が会長に就任。
猪谷千春、三浦雄一郎氏がSAJ名誉委員に、荻原健司氏が同顧問に就任。
「基礎スキー」から「スキー」へ、「技能テスト」から「スキーバッジテスト」へ教育本部が大幅に改組、刷新。
2005 平成17年
6月26日、財団法人全日本スキー連盟創立80周年記念式典、開催。
2006 平成18年
天野誠一さん 2006年 8月25日永眠、享年89歳。
SAJ在任中、教育関係を中心に、札幌オリンピック特別強化委員などなど。その後SIA第4代会長(1981年〜1996年)。スキー教師の育成、スキーの安全対策などにも貢献。当HP管理人が心から尊敬する方でした。
2010 平成22年
第9代会長に鈴木洋一就任。
2011 平成23年
東日本大震災の発生により、3月11日以降の国内公認大会の多くが中止に。フリースタイル・ジュニア世界選手権大会の選手派遣も見送り。
「I LOVE SNOWキャンペーン」の一環として、SAJ主動の「復興支援活動」を展開。
2013 平成25年
7月30日、内閣府より「公益財団法人」の認定を受ける。
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