世界と日本のスキー歴史館・歴史・年表・年譜
SAJ(財団法人 全日本スキー連盟)の役員名簿など(過去帳)


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SAJ歴代会長リスト

  就任期間会長名 備 考副会長名
初代1925(大正14年)〜稲田 昌植1925年、S.A.J.(全日本スキー連盟)創設、初代会長に就任。大学教授、貴族院議員などをし、
戦後は日本大学の講師。1968年79歳で没。静内町には稲田家屋敷跡がある。
第2代1945(昭和20年)〜小島 三郎1945に第2次世界大戦終結(8月15日)。(公財)全日本スキー連盟復活。
(1888.8.21-1962.9.9 享年74歳。伝染病予防、予防衛生学、公衆衛生への業績を残す。)
小川勝次
中川 新、
西野陸夫、
阿部 一
第3代1954(昭和29年)〜小川 勝次著書:日本スキー発達史(1956年)、高松宮殿下のスキー随行記(1975年)
(1988年没 享年89歳)
第4代1958(昭和33年)〜木原 均 1964冬季オリンピック団長、植物世界的な遺伝学者、1986年没92歳
第5代1968(昭和43年)〜東 龍太郎59〜67年まで二期、東京都知事。1983年5月26日没、享年90。
第6代1975(昭和50年)〜伴 素彦1984、オリンピック・オーダー銀賞(功労賞)を受賞する。
第7代1986(昭和61年) 〜堤 義明 西武鉄道グループ会社の株保有比率を虚偽記載問題で、会長を辞任。片桐 匡(86〜92)
伊藤 義郎
など3名
第8代2004(平成16年)11月〜伊藤義郎08年の役員改選を巡っても同様の訴訟を起こされ、1審でSAJ側が敗訴。2審で当時の伊藤義郎会長らが辞任することで和解が成立した。04〜北野次登、
青木 巌
08〜青木 巌、
岡山紘一郎
第9代2008(平成22年) 〜鈴木洋一 2010年10月の役員改選手続きに不備ありと、SAJの評議員ら25人が、SAJを相手取り訴訟。内容は、鈴木洋一会長と会長推薦理事5人の地位に無いことの確認で、東京地裁判決(2011年8月31日)は原告側の訴えを認めた。SAJは9月20日、東京高裁に控訴した。2審についてSAJの谷雅雄総務本部長は、「(和解を含め)あらゆる可能性を排除しない」と話した。原告側は和解には応じない方針。(2011.8月9月)
吉田 肇、
坂本祐之輔
第10代2015(平成27年)10月〜北野貴裕坂本祐之輔(29年10迄)
菱沼信夫、
後藤田 正純(29年10〜)
 注: ◇ 高橋次郎(戦後)、松浦益司郎(更に後期)が副会長を務めているが、時期は不明。

4代の会長が顔揃え。左から小島三郎(二代)、稲田昌植(初代)、木原均(四代)、小川勝次(三代)(スキー年鑑第27号より)
SAJ4代の会長が顔揃え。
左から小島三郎(二代1945(昭和20年)〜)、稲田昌植(初代1925(大正14年)〜)、木原 均(四代1958(昭和33年)〜)、小川勝次(三代1954(昭和29年)〜)
(スキー年鑑第27号より)
1958年?

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SIA 役員・委員のスキーの歴史年表


 ◇ SAJ追悼碑 ◇

 偉大な先人の功績を忍んで、お名前をここに記載させていただきます。
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高橋 次郎さん(19511年永眠。享年 不明)
 北海道人(小樽?)。アールベルクスキー術の権威で、戦後初期までのスキー界をリード。1939年SAJ第2代技術委員長になり、第1回指導員検定講習会・主任講師。1936年ガルミッシュ五輪・監督。戦後はSAJ副会長を務めた。
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小島三郎(Saj二代会長) 小島 三郎さん(1888.8.21-1962.9.9 享年74歳)
 SAJ第2代会長。伝染病予防、予防衛生学、公衆衛生への業績を残す。岐阜県各務原市出身。
 伝染病予防、予防衛生学、公衆衛生など、病気の予防に対する研究を終生行っている。研究内容は防疫、予防、上下水道、大気汚染、食中毒と多岐にわたる。特に、予防衛生学の基礎確立に尽力している。コレラ、腸チフス、赤痢の消化器系伝染病の撲滅を目指し、赤痢についてはSS寒天培地、検査法の改良に力を注いでいる。
 インフルエンザに対してまだ国内で関心が無い時、インフルエンザウイルス研究を始めている。


稲田昌植(Saj初代会長) 稲田 昌植さん(いなだ-まさたね 1890年8月28日‐196811月28日 1968年永眠。享年78歳)
 S.A.J.初代会長に就任。大正-昭和時代の農政学者、政治家。大学教授、貴族院議員などを経て、戦後は日本大学の講師。
 大正9年東京外国語学校教授、のち東京農大教授。昭和14年貴族院議員となり、農林関係を中心に外郭団体の要職につき、植民事業を推進した。北海道出身。東京帝大卒。著作に「婦人農業問題」など。
 北海道・静内町(現・新ひだか町)には稲田家屋敷跡がある。


スキーの歴史・福岡 孝行さん 福岡 孝行さん(1913年(大正2年)10月9日 -1981 享年68歳?)
 法政大学教授。ドイツ語学者。多数のスキー本の翻訳などによって、近代スキーの幕開けに貢献した。
 八方に疎開していたつながりで、滑降スキー大会の開催を提唱して八方尾根開発を勧めた。記念碑も作られている。変わったところでは、福岡さんは、度々八方尾根で滑り、また東京帝国大学在学中に監督として、映画『スキーの寵児』も製作している。
◇劇場用映画『スキーの寵児』監督
 スキーの寵児(1937)
 製作=東京文化映画研究所 配給=東和商事 1937.12.25 帝国劇場 6巻 白黒
 監督 福岡孝行  原作 新東次郎
◇スキー著書、翻訳
1940 昭和15年 『今日のスキー』 オーストリアのK.ラインルト、T.ドアチエ共著、福岡孝行氏によって翻訳出版。(出版:登山とスキー社、発売:昭和書房、19cm 194P)
自然なスキー / 福岡孝行. -- 小笠原書房, 1948
正しいスキー / 福岡孝行. -- 湖山社, 1948 昭和23
オーストリアスキー教程 / オーストリア職業スキー教師連盟[他]. -- 法政大学出版局 福岡孝行訳, 1957年 B5総アート 800円
スキー上達 十三のコツ / アルウェット・メエーン著 -- 法政大学出版局 福岡孝行訳, 1957年頃? ポケット・サイズ 150円
スキー / 福岡孝行 ベースボールマガジン社 -- S36.12.5初班 \200 B6サイズ141ページ 当HP管理人がお勧め(但し絶版)
スキーの王者を目指して カール・ブルックナー著/北条元一・福岡孝行訳 ベースボール・マガジン社,295ページ 初1966/10 再1969/10 \360 【小説】
『新版 スキー』  福岡孝行・福岡孝純著  ベースボール・マガジン社(1984) お勧め(但し絶版)
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スキーの歴史・東(あずま) 龍太郎 東(あずま) 龍太郎さん(1893年1月16日 - 1983年5月26日永眠。享年904歳)
 SAJ第5代会長。1959(S34)4月27日〜67年まで二期、東京都知事。
 日本の医学者・官僚。第4・5代東京都知事(1959年4月27日 - 1967年4月22日)。第10代日本赤十字社社長(1968年3月15日-1978年3月31日)。
 位階勲等は正三位勲一等旭日桐花大綬章。学位は医学博士(東京帝国大学)。称号は東京大学名誉教授、東京都名誉都民、日本赤十字社名誉社長など。
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木原 均(Saj四代会長) 木原 均さん(きはら ひとし 1893年10月21日 - 1986年7月27日 1986年永眠。享年92歳)
 第4代会長。1964冬季オリンピック団長、植物世界的な遺伝学者。
 京都大学名誉教授。元国立遺伝学研究所所長。理学博士(京都帝国大学、1924年)。東京都出身。
 「コムギの研究を中心に遺伝・進化学の分野で世界的な業績を残された博士を記念し、」1985年3月には、木原記念横浜生命科学振興財団が設立。



猪谷 六合雄 猪谷 六合雄(いがや くにお)さん(1986年永眠。享年95歳)
 我が子・千春さんを独自の哲学で五輪SL・銀メダル選手に育て、パラレル指導法も開発。その後SIAに移り第2代会長(1974年〜1978年)も。純粋にスキーに生きた偉人であった。


シュテフアン・クルッケンハウザー教授 シュテフアン・クルツケンハウザー教授(オーストリア)(1988.10.01 永眠。享年82歳)
 サン・クリストフ所在のオーストリア国立スキー学校の校長を長年勤める。
 1959年、第5回インタースキーで、主張するバインシュピール技術が広がる。ウェーデルン登場、ジャンプ系技術が中心。ローテーションを主張するフランステクニックに対するもの。
 親日家で、日本の現代スキーの恩人。何度も来日し、またオーストリア国立スキー学校には杉山 進、黒岩逹介さんなどなどを受け入れ、日本人のオーストリア国家検定スキー教師を大勢育てた。



小川勝次(Saj三代会長) 小川 勝次さん(1988.永眠。享年89歳)
 SAJ第3代会長、「日本スキー発達史」などなど、著書も多い。
 オスロオリンピック日本選手団監督。
 大正六年高田中学の卒業、早大にスキー部を設立。



スキーの歴史・大熊 勝朗さん 大熊 勝朗さん(1990年(平成2年)永眠。享年 不明)
 長い間、日本のSAJスキー界の中心にいて、健全にリードされた温厚な方? 赤城山かその近くの出身?と記憶。(確か猪谷六合雄さんと親戚?)
 1960年代に日本のスキー教程を編纂し、国際スキー技術者会議への加盟、デモンストレーター制度発足に尽力した。



スキーの歴史・野崎 彊(つとむ)さん 野崎 彊(つとむ)さん(2002年8月7日永眠。享年86才)
  昭和24年(1949年)から昭和46年(1971年)まで全日本学生スキー連盟理事。
  猪谷千春選手が銀メダルを採った1956年第7回冬季オリンピック(コルチナダンペッツオ)、日本選手団スキー監督。
  全日本スキー連盟専務理事として日本スキー界に大きな貢献を残した。



スキーの歴史・藤巻 文司さん 藤巻 文司さん(大正5年9月15日生-平成14年 9月24日永眠。享年87才)
 近代スキーのパイオニアの一人、燕温泉。中頸城郡妙高村燕温泉 旅館「花文」経営
略 歴
昭和15年 指導員検定合格。第7回、第10回、第11回国体壮年組大回転優勝。SAJ技術員、一般スキー委員会普及部長として「スキー教程」作成に貢献。県連アルペン強化委員、県指導員会々長として新潟県基礎スキー界の育ての親でもある。
昭和36年民間スキー指導者として初の渡欧。オーストリースキー技術の権威クルッケンハウザー教授と親交を深め、教授の来日を実現させる。
昭和35年「ウェーデルンへの道ー初心者のためにー」(朋文堂)出版。昭和37年「シーハイル」(玉川大学)出版。
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スキーの歴史・片桐 匡(ただし)さん1972年 片桐 匡(ただし)さん(2003年11月15日永眠。享年83歳)
 1943年 第21回全日本スキー選手権 回転 優勝、元全日本スキー連盟副会長(昭和61年〜平成4年)、長野県スキー連盟会長(昭和49年から平成5年)、指導者として数多くの選手を育ててきた。
 写真は、1972年第11回オリンピック札幌大会会場?(横に娘・美雪さんと)



西村 一良 西村 一良さん(2005/昭和17年10月 8日永眠。享年98歳)
 第1回指導員検定講習会(山形県米沢市 五色温泉)で指導員合格者(1939.12)
 日本のプロスキーヤー第1号であり、西沢スキーやデサント、バイソンスキー靴の商品開発顧問契約し、通称・西村厩舎として大杖正彦を初め多数の選手をサポート。
 SIA初代会長(1968〜1973年)でもある。
慰霊碑・西村一良さんへ)


三浦 敬三 三浦 敬三さん(2006/平成18年1月5日永眠。享年101歳)
 第2回指導員検定講習会(野沢温泉)で指導員合格者(1940.03)
慰霊碑・三浦 敬三さんへ)


天野 誠一 天野 誠一さん(2006年 8月25日永眠、享年89歳)
 元全日本スキー連盟(SAJ)常務理事で教育本部長。SAJ在任中、教育関係を中心に、札幌オリンピック特別強化委員などなど。その後SIA第4代会長(1981年〜1996年)。スキー教師の育成、スキーの安全対策などにも貢献。スキー場安全対策協議会誕生のきっかけも作った。
 当HP管理人が心から尊敬する方でした。
 父親は天野 貞祐(あまの ていゆう)、文部大臣(第3次吉田内閣)を務めた後に獨協大学を創立した。文化功労者。
慰霊碑・天野 誠一さんへ)


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