写真で見る、古き人工スキー場の歴史 (2015.11新設)
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え〜っ! 野球場でスキー? 甲子園と後楽園球場
★第1回全日本選抜スキー・ジャンプ大会 甲子園大会 1938年1月10日 |
★第1回全日本選抜スキー・ジャンプ 東京大会 後楽園球場1938年2月27日 | |||
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★第1回全日本選抜スキー・ジャンプ大会 甲子園大会 1938年(昭和13年)1月10日 甲子園球場に特設された木造のやぐらに、妙高山(新潟県)から貨車30両で運ばれた雪を敷き詰めたジャンプ台で、甲子園大会が開催された。4万人を越える観衆を集めた。 参加選手は、オリンピック(ガルミッシュパルテンキルヘン)代表の宮島 厳、関口 勇ら36人であった。 優勝 木村隆一(小樽中学校出) 最長不倒:27.0m 木村隆一、若本松太郎 戦前の昭和13、14年にも、後楽園と甲子園で実施している。短期間限定。 (当HP管理人注:スキー・ジャンプ甲子園大会の、1939年は阪神電鉄の社史の中には、載っていない。昭和13年(1938)のジャンプ大会は、反対に阪神電気鉄道(株)『輸送奉仕の五十年』(1955.04) | 渋沢社史データーベースの中には、載っていない。) ★第1回全日本選抜スキー・ジャンプ大会 甲子園大会 1938年1月10日 |
第1回 全日本選抜スキー・ジャンプ 東京大会1938年2月27日 シャンツェの高さは38mと甲子園よりはるかに高い。 最長不倒:32.5m 木村隆一、野村四郎 優勝 :浅木文雄(北海商業学校) ★第1回 全日本選抜スキー・ジャンプ 東京大会1938年2月27日 この写真(1938年)は、左下の地面に立って見上げているため、ひじょうに高く見えてしまう。 下段の写真(1950年と判定)は、右上(正面寄り)から見ているために、高さは感じずに、幅広く見える。 |
★後楽園で1月29日から31日までスキー講習会、その後2週間一般開放 この大会に先立って後楽園球場の外野スタンドにスロープを設けて特設スキー場とし、1月29日から31日までスキー講習会を行った。さらにその後2週間一般開放を行い延べ5000人のスキー客を集めた。 「1938年(昭和13年)には、、、福島県から雪を運んで、(後楽園球場 - Wikipedia - ウィキペディア)」 「石打(新潟県)から夜行貨物列車で雪を運んだ。(岩原スキー場の歴史www.iwa-ppara.com/history)」 雪は、福島県からか、石打(新潟県)からか、どちらかの情報は誤りである。 ★第1回全日本選抜スキー・ジャンプ大会 後楽園球場1938年(昭和13年)2月27日 | ||
★第2回全日本選抜スキー・ジャンプ大会 後楽園大会 1939年1月28日、29日 ★第2回全日本選抜スキー・ジャンプ大会 甲子園大会1939年2月18日、19日 |
★第3回全日本選抜スキー・ジャンプ 東京大会 後楽園球場1950年1月28日 | |||
★第2回全日本選抜スキー・ジャンプ大会 後楽園大会 1939年1月28日、29日 前年の成功を受け後楽園球場に最大高さ39mのやぐらが組み上げられ、1939年1月28日、29日に2回目の大会が行われた。 優勝: 中川政治(明治大学) 最長不倒:34.0m 龍田鳳三(早稲田大学) 本大会で使用されたジャンプ台は次のような規模であった。 全高 :39.0m 斜面全長:85.7m アプローチ長:33.6m アプローチ幅:6.0m 着地斜面長:52.1m 着地斜面幅:15.0m ★スラローム競技会も開催 今回はジャンプに加えて、スラローム競技も行われた。スラロームは、少年組、女子組、男子組の3組 回転競技少年組 優勝 門屋 孝(水上小学) 35秒8 (2位48秒2とは、大差) 回転競技女子組 優勝 鶴見敏子(高田女出) 29秒2 (2位41秒0とは、大差) 回転競技男子組 優勝 富井 堅(沖電気) タイム不明 (▼以下出典:岳に抱かれ生涯極楽スキー : 一途に一本道、一途に一事 丸山庄司 著より要約) 高さは39m、全長85.7m、幅15m、アウトランもスタンド下一杯に200坪となった。選手は飛躍競技30名、回転競技は男子成年23名、少年12名、女子11名、その顔ぶれはまさに全日本選抜。81歳の尾崎咢堂翁も来観。午後1時に開会式。JOAK(ラジオ)では全国に中継放送した。 ★第2回全日本選抜スキー・ジャンプ大会 甲子園大会 ★続いて1939年2月18日、19日に甲子園球場にて甲子園大会が開催された。 続いて1939年2月18日、19日に甲子園球場にて甲子園大会が開催された。 関西組 優勝 久留島敏明(美津濃) 得点66.9点 一般組 優勝 浅木文雄(北海商業学校) 得点74.5点
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上の写真は1950年と判定できた。(当hp管理人判定) 上枠の写真(1938年)との見た目の違いの多くは、撮影アングルの違いによるものである。しかし上枠の写真にだけ、ジャンプ台の右側に大きく高いヤグラが2つあり、異なる年度のジャンプ台である。 逆に右の写真(1950年)と比べると、ジャンプ台の形も、またランディングバーンを支えるヤグラ組みも、その他幾つかが似ているので、同一のジャンプ台と判断できる。 「野沢温泉1960年」表記のHPもあったが、間違いである。 なお、上の写真は合成写真である。小サイズでピントは甘いが全体が広く写っている写真を拡大し、下敷きにした。その上に、よりクリアーな写真を載せてある。 (NTV) 1950年(昭和25年) (▼以下出典:SAJ公式サイト) 後楽園の特設ジャンプ台で、ジャンプ及び回転の競技会開催。雪は新潟県から貨物列車で輸送(30車両分) |
第3回全日本選抜スキー・ジャンプ大会 後楽園 1950年1月28日、後楽園球場史上3回目のジャンプ大会が行われた。 高さ44m・長さ120m/オール日本選抜スキー・ジャンプ大会(この数字データーと上の写真一点の出典は、▼)
別冊週刊ベースボール秋季号 さようなら後楽園球場(ベースボールマガジン社、1987年11月30日発行) (NTV) ★第3回全日本選抜スキー・ジャンプ大会 後楽園 1950年1月28日 | ||
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豊島園(1958年(昭和33年))以降、戦後の人工スキー場
★豊島園スキー場(東京) 1958年11月23日〜2001年頃閉鎖 |
★福岡室内スキー場(福岡市) 1958(昭和33)年12月12日〜数年間は営業 |
★狭山スキー場(埼玉県) 1959年12月22日〜(2015.11)現在開業中 |
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世界初の屋内スキー場 豊島園にオープン(東京) 1958年(昭和33年)11月23日 - こども劇場を改装し、世界初のインドアスキー場開業。インドアすなわち、屋内スキー場である。 開業当日の「日経581123、朝日581123・07」新聞にも載っていたようである。 なお、写真は狭山スキー場?ではないか、と強く疑いを持った。しかし、47都道府県52新聞社のニュースと共同通信の内外ニュースを束ねた総合サイト「47News」にも、同じ写真が豊島園として載っていたので、間違いない。 ★当HP管理人注: 【1958(昭和33)年11月23日に豊島園に世界初のインドアスキー場(オガクズと砂を混ぜた人工雪を使用)が開設さた。】(西武と西鉄、球団と室内スキー場をめぐる数奇な縁(博多湾つれづれ紀行 益田啓一郎のブログ))がある。 しかし写真を見る限り、鮮明ではないが普通の雪に見える。砂については不明だが、スロープに断熱材としてオガクズを下に敷き、その上に雪を貼り付ける方式の前例がある(後楽園)。これとの混同ではないだろうか。 ★豊島園スキー場 1958年11月23日〜2001年頃閉鎖 |
到来するスキーブームに先駆けて、昭和33年12月12日に開場した「福岡インドア・スキー・ゲレンデ(室内スキー場)」。西日本鉄道(株)を中心とする福岡市の企業が共同運営。 同年11月に世界初で開業した豊島園、No.2は翌12月に西武百貨店屋上に登場。次いで国内3番目として、福岡市・筥崎宮外苑(現在駐車場の場所)に人工雪を使った本格的な室内ゲレンデが完成。
【 豊島園インドアスキー場よりも数ヶ月前に開業、数年間は営業。おがくずを使った模様。(福岡のテレビ局よりの情報)】→2015.11.現在検索不可 この情報はたぶん誤りである。経営会社である西日本鉄道(株)HPの中に、「昭和33年12月12日に開場」が明記。従って豊島園よりも1ヶ月後であり、「世界初の室内スキー場」ではない。オガクズについても、誤りである。前の豊島園を参照。 ★福岡室内スキー場・1958(昭和33)年12月〜数年間は営業 |
1959年(昭和34年)、狭山スキー場開業。 ザウスの営業期間(1993年から2002年)を除き、関東地方で唯一の造雪機による屋内人工スキー場である。 全体が屋根で覆われているが、コースの側壁はビニールカーテンの仕切。その外側である屋外にリフトがある。 コース全長320m、コース幅30m、最大傾斜15度。 営業期間は10月下旬〜翌年4月中旬頃。11月後半から3月中旬頃までの金・土曜日を中心に、22時から翌朝までのオールナイト(終夜)営業を実施。 【狭山スキー場の歴史】 1959年12月22日狭山スキー場開業。('80時点では)世界最大のインドア人工スキー場。 当初からリフト2基を設置。1時間に80トンのかき氷が18台の散布機でまかれた。ナイタ−開始は昭和36年(1961年)から。 1963年:プラスチック製の青い雪登場雪を導入、通年営業開始(注:現在は行っていない) 1987年5月1日:グラススキーコース開業(注:現在はグラススキー営業は行っていない) 世界初の人工芝スキー場の記載もよく見る。 1993年 10月31日 鉄道 狭山スキー場に新造雪システム(ICS)導入 (狭山スキー場について詳しくは、「狭山スキー場史」(H.FUKさん)、 狭山スキー場(『ウィキペディア』) ★狭山スキー場(埼玉県) 1959年(昭和34年)12月22日〜(2015.11)現在開業中 |
★船橋ヘルスセンター人工芝スキー場 1962年(昭和37年)〜1977年かそれ以前に閉鎖 |
★よみうりランド・スキー場(神奈川県) 1963年8月5日開業〜1972年3月5日廃業 |
★比叡山人工スキー場(京都市) 1963年 8月8日〜2002年閉鎖 |
夏シーズンはゲレンデを覆い、その上を大滝すべりとして活用。左端にあるチェアリフトも使われている。 大滝すべりの最長が100mなので、これがゲレンデ長であろう。 よみうりランド・人工スキー場と同類の、ブラシ状プラスチック・シートである。写真は昭和39年撮影(ふなばし写真館より) 左横にスプリンクラーが見える。これで水をまき、マサツを減らしスキーの滑りを良くする。 正式名称は「ハイランドスキー場」である。 朝日土地興業が経営する船橋ヘルスセンター(1955年11月3日〜1977年5月)の総合レジャー施設の一環として人工芝スキー場。スキー場は昭和37年(1962年)開始、閉鎖の時期は不明(しかし船橋ヘルスセンターは1977年に閉鎖。従って同じかそれ以前である)。跡地はららぽーとTOKYO-BAYとなった。
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ジャンプ台を後方から見たもの。建物は会議室、宿泊などに使われた。初期SIAもこの場所で泊まり込み研修会などを、よく開催した。 元ジャンプ台の正面。全日本のジャンプ選手のトレーニングも行われていた。閉鎖後の写真。 船橋や比叡山・人工スキー場と同類の、ブラシ状プラスチック・シートである。 写真左が一般ゲレンデ、右がジャンプ台。 ◇よみうりランド・人工スキー場(東京都) 正式名称は、「読売スキーセンター」のようである。 プラスチック(塩化ビニール?)のマス目状のブラシ。比叡山人工スキー場と同じもの。幅30×300メートルくらいだろうか? 斜度はそれなりにあり、わりと滑った。ゲレンデ中央には、縦にスプリンクラーが3台くらいだろうか?あった。 いわゆるリフトは無く、エスカレーターの段差の無いもの(=大型ベルトコンベアー)が1基。その上にスキーを履いたまま立って乗ります。 横にはジャンプ台もあり、40メートル級?くらいだろうか。純ジャンプのナショナルチームの練習にも使われていた。 映画「アルプスの若大将」で若大将(加山雄三)が滑ってました。スキージャンプ台も映っていたとのことなので、関心があり、具体的なイメージを知りたい人は、この映画をどうぞ。DVDなどで販売されているはずです。
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★比叡山人工スキー場 1963年 8月8日〜2002年閉鎖 最寄りの駅「出町柳(でまちやなぎ)駅」/京福電鉄叡山本線(京都市左京区)。もしかしたら1965-2-28撮影かも? このスキー場はかつて の蛇ヶ池の地です。 ゲレンデ奥にスキーリフトが見える。 この下部から見た写真1枚は、閉鎖のものかも知れない。下から見て左側の、リフト沿いにプラスチック・マットが敷かれていないからだ。通年営業だったのに、下部に「立ち入り禁止」看板もある。 (標高差)(38m) コース数 1本 最長滑走距離 200m 平均斜度 12度 索道数 1 本(ペアリフト1基、長さは170m) ナイター 平日21時30分、休前日22時 1964(昭和39)年開業。 比叡山山頂に位置し、ゲレンデ長約200メートル、リフト1基の設備を持つ比叡山人工スキー場では、夏季は人工芝、冬季は天然雪と人工雪によるスキーを楽しむことができた。 1979からアストロゲレンデ(以前はプラスノースキー)を敷設して、通年営業。 人工雪(砕氷型およびスノーガン)の導入年度は不明。 市街地からすぐの立地のよさとなだらかな傾斜から初心者を中心に人気を集め、最盛時の70(昭和45)年度には4万4000人が来場。しかし、最近は8000人程度に落ち込んでいた。 2002(平成14)年11月、京福電鉄は運営する比叡山人工スキー場の閉鎖を決定(京都新聞 2002年11月1日)。同年12月のスキー場開きを行わないと発表した。利用者の減少と温暖化による人工雪維持の難しさを理由に挙げている。 2000年(平成12年)シーズンにて夏期営業を中止、さらに2001年(平成13年)シーズンの冬期営業を最後に閉鎖となった(京都新聞 2002年11月1日)。という記述も別のwikipediaの中に見られる。 いわゆる'2000/01シーズンは冬営業をして、翌'01/02は休業し、その年の2002(平成14)年11月に閉鎖を決定、発表、と理解できる。 ★比叡山人工スキー場 1963年 8月8日〜2002年閉鎖 |
★スキーイングイン津田沼(千葉県) 1991年12月21日開業 〜 1997年(平成9年)閉鎖 |
★ららぽーとスキードームSSAWS(千葉県) 開業1993年 〜2002年閉鎖 | |
ゲレンデ下部か上部を見る。向かって左側に(写真から想像すると)ベルトコンベアー(スキーを履いたまま立ち、上まで運ばれる。)。 ゲレンデ中間部・カーレーター上から、上部を見る。 ゲレンデ中間部・カーレーター上から、下部を見る。 千葉県 松下興産 スキーイングイン津田沼 1991年 12月21日 〜1997年(平成9年)閉鎖 全長120mX幅30m。室温10〜15度。 オーストリアの会社から輸入販売する屋内スキー場システムの、ソフト面の研究とデモを兼ねて。建設費約40億円(ザウスは400億円)。 (松下興産より津田沼ほかを引き継いだ豊秀興産は、2005年会社を特別清算)。京成電鉄第二工場跡地→(1991年 12月21日オープン)スキーイングイン津田沼跡地→2003年10月4日イオン津田沼ショッピングセンター(千葉県習志野市津田沼一丁目) ★スキーイングイン津田沼開業1991年 12月21日 〜 1997年(平成9年)閉鎖 |
長さ490m、高さ100mのゲレンデを持つ巨大建物だ。 ゲレンデ中間辺りで、左側のコースだろうか? ★ららぽーとスキードームSSAWS 開業1993年 〜2002年閉鎖 |
本来は、ここではザウスを取り上げる予定はなかった。今でもデーターが少なく、ほうっておけば更にデーターが得られなくなる、古い人工スキー場だけを少し詳しく説明したいと考えていた。 しかし巨大クジラのザウスは、他と比べてはるかにスケールが大きく、また今後二度とこのような人工スキー場が生まれることはないだろう。 ならば、簡単ではあっても採り上げて、紹介しておく必要があるだろう。 と管理人は考えた次第です。 まさかここが消え去るとは想像もしなかった当HP管理人は、SSAWSを滑り損なったのが残念である。 千葉県 船橋市に誕生した長さ490m、高さ100mのゲレンデは当時、「世界最大の屋内人工スキー場」として脚光を浴びた。 営業開始は1993年(平成5年)とバブル崩壊後だったが、計画自体は1987年(昭和62年)に浮上した。1987年といえば、映画「私をスキーに連れてって」が公開された年で、スキーブーム真っ只中だった。ザウスだけではなく、1991年(平成3年)には千葉県習志野市に「スキーイングイン津田沼」がオープンしたほか、大阪や和歌山などでも計画が持ち上がるなど、屋内スキー場は盛り上がりを見せていた。 400億円を投じ、技術の粋を集めた「夢のスキー場」はしかし、2002年(平成14年)には閉鎖に追い込まれる。年間130万人ともくろんだ来場者は伸び悩み、最後には60万人にまで落ち込んだ。2003年9月17日付の日経産業新聞にザウス関係者のこんなコメントが載っている。「人々の季節に対する感性や人工物では味わえない自然の開放感といったものを見誤った」(日経新聞より抜粋) 2002年9月30日 閉鎖 → ザウスの基礎データー、閉鎖、解体など詳細 ★ららぽーとスキードームSSAWS 開業1993年 〜2002年閉鎖 |
人工スキー場の歴史.1 (2015.11.26大更新 2020.7.11手入れ) 写真で見る、古き人工スキー場の歴史←現在表示ページ (2015.11.26) 関連のありそうな当HPへのリンク 世界と日本のスキーの歴史館へ 用具から見たスキーの歴史年表へ |
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人工スキー場の歴史.1(詳細年表など)