◆悲しいお知らせ (1999/ 9/11) |
68-77矢野邦史 25歳頃 (1999/ 9没) |
ご遺族のご意向で、9月7日に松戸市八柱にて密葬をいたしました。したがって大半の方に対し、ご連絡は控えたようで、私ですら参列をしていません。
我が子に先に逝かれたショックは言うまでもありませんが、お母さんがお元気だったことが救いです。長男・哲慈さんは昨年?慶応大学を卒業後、フジテレビに勤務。たいへん立派な青年に成長されています。
今回の葬儀関係その他にわたり、矢野君や私の友人である「井上和彦さん」と「72-73平瀬勝久君(=スキーヤー編集長)」のお二人に幹事役を買っていただき、たいへんにお手数をかけ、お世話になったことを、お知らせしておきます。
連絡網の一部では、直ちゃん(70-71中野直一君)に助けられ、お別れ会の受付でのスクール関係者の接待では、柔道の70-79池内雅胤君が買って出てくれました。
◆お別れ会は
9月9日に東京葛飾の金町で開かれましたが、ご連絡漏れになってしまった方には、この場を借りてお詫び申し上げます。
スクール関係では、石川県から72-1 黒川正博君、三重県からは74-81岩花光博君、猪苗代からは71〜 渡部寿雄君などなど、遠路からも大勢の人が駆けつけてくれました。
また山と渓谷社社長の川崎さん、写真家の白籏史朗さん、反保公嘉さんなどなどの親しくおつき合いいただいた関係者も。締め切りに追われていたイラストレーターの谷井健三さん(元日大芸術学部講師)は、顔だけ出すと言っていたのが、最後まで残ってくれています。
などなど。
そのほかにもスクール関係以外からも、私の知らない大勢の方々にご参加いただき、盛況なお別れ会になり、故人を偲ぶことができました。
当日、ご参加いただいた皆々様には、この場を借りて御礼を申し上げます。
◆お別れの会に出席いただいた方のお名前 (敬称略、順不同)
私の記憶などにより、分かる範囲のものです。ここにお名前が抜け落ちた大勢の方には、お詫び申し上げます。
◇ご子息の関係者
勤務先フジテレビの先輩・同僚多数、 中学時代の同級生多数 ほか
◇矢野君本人の仕事・遊びの関係者
横澤隆男((株)インパクト・トレーディング)、 西山 寛(経営コンサルタント)、 松尾忠武((株)マツオ)、 雀荘・柳生のママ、 由比(高校・大学の一番の悪友?。電通)、 お名前失念(スワローレンタル取締役・関口氏の上司)、 お名前失念(小・中学の同級生で、現ドクター。成田にお住まい)、 ほか
◇スクールの近い関係者
磯 英明(元・日本BGM/現・ソーゴーアド社長)、 井上和彦、 猪瀬(元・太平索道) 稲葉光子(矢野君同級生/スクールお得意様)、桜井(稲葉)淑子(元スクールお得意様)、 川崎吉光(山と渓谷社社長)、 川辺義倫(プロスキーヤー)、 白籏史朗(写真家)、 谷井建三(イラストレーター)、 反保公嘉(写真家)、 内木三郎(ないき=元エバニュー、現ウイズSS)、 真下靖夫(=元・北アルプス総合案内所ほか)、 泰江孝夫(元・(株)日欧)、 芳野ひろや(元さくらい=スポーツ卸。有名な登山家・満彦の実兄)、 ほか
◇スクールの元・現スタッフ(賄いも含む)
安藤 徹、 池内雅胤、 石橋善行、 岩花光博、大島清史、 木川(佐藤)加代子、 黒川正博、 古家哲也、 後上和幸+後上(成田)美和子、 桜井和弘、 佐藤義彦、 塚原(押田)英子、 中野直一、 長渡明久+長渡(崎田)淳子、 原 伸和、 土方あきら、 平瀬勝久、 間地 強、 村井正太郎+(岡田)幸子、 村山眞史、 渡部寿雄 ほか
◆矢野邦史君の略歴と想い出など
私より2学年下で、享年55歳。
早稲田大学の商学部卒
当時は早稲田の講師だった見谷昌禧さんの授業をとっていて、脅かされたとか。
ロッククライミング専門の登山家=名門の山岳クラブにも入り、とくに高校時代から熱心に山を攻めていたようです。
磐梯プロスキースクール(後にチロリアスキースクールに改名)を、私たちと一緒に10年間運営。当然、SIA設立当初から10数年は会員。
以降はスキー(およびスポーツ)関係、それも輸入・販売の仕事を進み、アトミックスキー、サンマルコ・スキーブーツなどは長い間扱う。一時はフィラのウエアの併行輸入も。
ひじょうに有能で、商才も溢れる人でしたが、何度か会社をつぶし・興しの苦労をしています。
人を強く惹きつける人柄と魅力の持ち主で、若い人も・年輩の人も、男も・女も周りに集まります。当然若い頃は、女性にもモテモテでした。
猪苗代時代のことですが、酔っぱらうとスクール事務所の掃除や、食器洗い、壁に立てかけてあるスキーの整頓をする、という良い癖がありました。
また夜中に宿舎のプレハブに戻ると、既に眠っている同室の大島清史君(前・九州にあるSS校長)の瞼をこじ開け、300メータ先を照らす大型懐中電灯で照らす、という楽しい癖もありました。
今年の春から矢野君の仕事の関係で、私はインソールをテストしました。そんなこんなで、今年は久しぶりに会い、電話とFAXのやりとりを何度もしています。ある意味ではお別れのようなものが、結果的に済ませていたような気もして、それがわずかな慰めになっています。
1週間ほど?前には、平瀬勝久君と長渡明久君が入院中の矢野君を見舞っています。
でも、こんなに突然とは、想像もしていなかったです。
今は矢野君のご冥福を祈るのみです。
矢野君も好きだったスキー。私たちがスキーを楽しみ、この世界で真面目に仕事をし、生き延びることが、矢野君への供養だと思います。
また磐梯ひじかたスキースクールは、既に亡くなられた原 正先生や矢野君の足跡でもあるのです。これを、恥じないスクールとして存続させることも、私の義務と感じています。
くどくどと下らないことを書き連ねましたが、こんなことからでも矢野君の何かを思いだし、偲んでいただければ幸いです。
1999/ 9/11 土方あきら