スキー話 / 素人さんには内緒?の数字= アルペンスキーの生産台数 (2009/ 7/25更新 +2020/08/20)
より見やすく、またより検索もしやすいように、「素人さんには内緒?の数字=天国と地獄 スノービジネスの推移MaxとMin」を単独独立ページとしました。2020/08/10◇ちょぴり関連記事
- 国産スキー板メーカー64社リスト(2016/04/25)
年度 | 全世界、または国内でのアルペンスキーの生産台数・輸入台数、市場・マーケット |
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1937年 |
◇外国スキー用品・用具輸入禁止。外貨節約政策。 |
1940年 昭和15 |
◇ 陸軍被服敞(東京・赤羽)から、軍が監督するスキー工場を立ち上げたい、と。理由は、(ソ連を想定し?)北海道北部方面軍、満州の関東軍にスキー部隊を創設すること。そのために、東京の飯田橋高島屋、諏訪の増沢、それに西沢で、年間10万台のスキーが必要と。 ◇ 西沢は年間でも3万台。株券を担保に資金を借り、北海道を巡り、15万台分の材料を買い付け。緑町工場も拡大。突貫工事、フル稼働の連続。納期までに約束数量の納入に成功。終戦まで、毎年3万台の単板スキーを軍に納入。(終戦は1945年だが、製造は44年までの可能性が高い) ◇ 想像としては、それまでの国産台数は合計でも数千以下。1940〜44年は年間10万台のスキーと考えられる。 |
1952〜1990年 |
◇フランスのロシニョールの年間輸入台数。 1952年300台、 正規の輸入用品としてスキーが買われたのは1952年、オスロオリンピックの年から。 スキーが300台輸入されている。10万円近い高価なものであった 1960年3500台、 1970年から輸入商社三井物産が扱う様になって2万台と一気に拡大した。20年間で100倍になったのである。 1972年札幌オリンピックの年に2万5千台、 1974年に5万台と倍々に増え続け、 1980年には20万台となった。 この前後から併行輸入業者が手をつけて輸入の正確な数値は判らなくなった。 1985年には推定22万台、 1989年、90年には推定38万台が日本のマーケットに出たと思われる。 1990年、「今年の目標は22万台と日本側と話を進めている。」と語った。 |
昭和30年代(1955年代) |
◇ 西沢の年間スキー生産台数は4〜5万台。月産が4,500台。このうち半分以上が輸出用。作れば売れる時代。輸出も好調。西沢の年間スキー売り上げは5〜7億円。現在なら50億円に相当。 ◇ 輸入品はまだ贅沢品。関税も100%。クナイスル・ホワイトスターは6万円。 |
1970年、 昭和45年 |
イタリアのテクニカ(TECNICA)がムーンブーツを発売。その後30年で2.000万足販売したという超ロングセラー。 1969年にアポロ11号が月面着陸した際、宇宙飛行士がはいていた機能的 なオーバーシューズから誕生。 |
昭和50-56年(1975-81年代) |
◇スキー板の輸入 昭和50年 34.1万台 昭和51年 32.6万台 昭和52年 25.8万台 昭和53年 30.8万台 昭和54年 41.4万台 昭和55年 41.8万台 昭和56年 45万台(=449,944台 7,109,309千円) ◇スキー靴の輸入 昭和50年 52.6万足 昭和51年 52.4万足 昭和52年 44.8万足 昭和53年 53.3万足 昭和54年 70.1万足 昭和55年 55.3万足 昭和56年 60.7万足(=プラスチック製靴のみ594,888足 6,839,263千円) |
1985年 昭和60年 |
札幌オリンピックが終わった頃から、急速に輸入台数が増えてくる。 プラザ合意(1985 昭和60年)を経て、輸入関税が撤廃され、ロシニョール、サロモンといった海外ブランドが、大衆的な価格で日本市場になだれ込むようになる。 |
1991年 | ◇ 1991シーズンには4,500億円あった国内のスキー用品市場が、1997/98現在ではその3分の2ていど、と言われています。 |
1979年 |
◇ 日本のスキー靴市場では、かねてよリ外国勢優位の時代が続いている。 昨年('79)、日本に輸入されたスキー靴は53万足、これは総需要の60%を越える数で、ちなみにスキーの輸入は30万台強だから、スキー靴分野での外国製品が市場に与える影響力の強さがわかるだろう。 |
1980年後半から1990年 |
◇ 世界中で生産されるスキーは約200万台、その半分の100万台が日本のマーケットに送られている。 ◇ そしてイタリアの有名スキー靴メーカーN社(ノルディカ)の総生産量は55万足、そのうち38万足が日本に送られている。 ◇ 流行り物だから有名ブランド、フランスのR社(ロシニョール)のスキーが売れた。 ちなみにストック市場を見ると 1980年代後半から90年代初頭。そのころの国内ストック市場は年間320万組程度で、シナノの出荷量は100万組程度あった。 90年代後半にはストックの市場規模は70万組程度までに縮み、シナノの出荷量も20万組程度となった。 |
1990年 |
◇世界のアルペンスキーの生産台数Ski 550万 ◇国内スキー用品専門店 1990年には約800社あった。 (倒産や廃業で1998年現在は130社に減った。 ) |
1991年 |
◇日本の市場:1991年280万(国産+輸入) ◇国内スキー・スケート・スノボ用品市場 1991年 4,290億円(4,500億円という別DATAも) ◇1991年にハガスキー倒産(負債22億円) 。 |
平成5年 1993年頃 |
◇ SAJデモストレーターの渡辺一樹、佐藤 譲と契約。彼らのプロモーション協力もあり、販売台数は年間スキー15万台。ブーツ(テクニカ)5万足を達成する勢い。 ロシニョール、サロモンが破竹の勢いで攻勢を強めていたこの頃、互角の勝負が出来る国産スキーはニシザワ以外はなかったのも事実である。 |
1993年 |
◇世界のアルペンスキーの生産台数Ski 610万台。 ◇日本の市場:93年125万台輸入 |
1995 平成7年 |
◇国内スキー・スケート・スノボ用品市場 1995年 4,100億円 ◇1991年にハガスキー倒産(負債22億円) 。 |
平成8年 1996年 |
◇ 最終的に国産50万台に加えて輸入品が100万台を突破。次シーズンへの残数は70万台をゆうに超える規模。 ◇ スキー業界の様相の変化。スキー制作技術は飛躍的に向上し、大量生産が可能になる。ロシニョールも自国フランス工場では高くつくので、人件費の安いスペインなどに生産拠点をシフト。製造原価も革新的に安くなっていく。 皮肉なことに世界的なメーカーの淘汰が進む。加えて、アルプス地方の温暖化の進行。あっという間にスキー関連商品の価格の低下。 ◇ ヨーロッパで行き場を失ったスキーが、日本に怒濤のように押し寄せる。空前の輸入ラッシュが続く。国内スキー市場に、異常ともいえる事態が襲う。 ◇1996年にカザマスキー倒産。 |
1996年頃? |
◇ スキー・登山靴メーカー、イタリアの老舗テクニカと西沢が合併会社を設立。 当初は西沢とのシナージ効果もあり、西沢スキーと同等の10万足販売と強気な販売計画を立てていたほど。 (たぶん平成8年 1996年頃)行き場を失ったヨーロッパのスキーは日本市場になだれ込んだ。テクニカの販売目標の達成は、次第に困難になっていく。 (ちなみに◇西沢は1998年にスキー事業から撤退。) ストック市場を見ると 1980年代後半から90年代初頭。そのころの国内ストック市場は年間320万組程度で、シナノの出荷量は100万組程度あった。 90年代後半にはストックの市場規模は70万組程度までに縮み、シナノの出荷量も20万組程度となった。 |
1997年 |
◇ヤマハがスキー事業から撤退。 |
1998年 |
◇西沢がスキー事業から撤退。 |
99〜2001年 |
◇世界のアルペンスキーの生産台数 440万台。 ◇オーストリア国内で販売されたスキー板の数は、00年の57万組(から、09年は35万組に。)(朝日新聞 2011.1.07スキー王国「厳冬期」より) |
2000年 2001年 |
◇2000年からBindingとSkiのシステム化が始まる。 ◇2000年のスキー人口は1050万人、スノーボード600万人で、93年に比較してスキー170万人、スノーボード120万人減少している。 ◇昨'00シーズンのスキー販売台数はノーマルスキーで67万台、ファンスキーで27万9千台、トータル94万9千台。 ◇今'01シーズンはノーマルスキー66万台、ファンスキー20万台となり、トータル86万台、多くても90万台弱と予測されている。 最終数値は、12月から1月にかけてのレジャー派の動き次第。景気の低迷でボリュームゾーンのピークが遅れ気味になっている。 |
2002年 |
◇世界のアルペンスキーの生産台数 420万台。 Binding 380万。 SKIBoots 345万。 |
2003年 | ◇日本のスキー市場:2003年 40万弱輸入+小賀坂分 |
2005年 | ◇シナノの2005年3月期の売上高は7億8000万円。 |
2007年 |
◇クイックシルバーがロシニョールを手放し売却へ? 米クイックシルバーは、2年前に買収したばかりの欧州のスキー用品メーカー、ロシニョールを手放す方向へ向かう可能性がある。そうすれば、同社の株価が大きく上昇するきっかけとなるとアナリストらは予想する。 スケートやサーファー用のウエアで知られるクイックシルバーが、先月発表した2−4月期(07年)決算は、四半期ベースで1992年以来初の赤字となった。主因は、2005年のロシニョール買収でスキー事業に参入したことだった。成長機会をもたらすとみられていたロシニョールだが、今や同社の足を引っ張る存在となっている。 3億0500万ドルを投じての買収は、470億ドル規模のアウトドア市場への攻勢に弾みをつけると期待されていた。 しかし2006−2007年の冬は、北米、欧州とも降雪量が記録的な低水準となり、スキー客が激減。スキー用品店へ足を運ぶ顧客はそれよりさらに落ち込んだ。
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2009年 |
◇オーストリア国内で販売されたスキー板の数は、(00年の57万組から、)09年は35万組に。(朝日新聞 2011.1.07スキー王国「厳冬期」より) ◇ '09努力にもかかわらず、溶けつつある氷河(温暖化)、および消費意の欲低下。 余暇の習慣は変わった。スキーヤーはレンタルを多く使うようになった。レンタル市場の成長は、スキーメーカーの販売を食う。 世界の推定スキーヤー50,000,000人ある。 ◇ 毎年販売される台数は、過去15年で350万台と半分になった。(--当hp管理人の注:原文不明で、このカッコ内の文章は不確実である) スキーブーツ 多くのスキーヤーは今では年間売上が約130万単位であるスノーボードに転換した。 スキーメーカーは、日本の落下に苦しんだ。 ◇ 世界のスキーブーツの市場は、毎年370〜380万組が販売されている。 参考 「スキーメーカーのための荒天」(アストリッドWendlandt著)2010/4 サイトはリンク切れ |
2010年 |
◇ アシックスのウインタースポーツ用品事業。1990年代前半に約230億円の売上高が近年では6億円程度。スキー用品撤退検討、早ければ2011年にも判断する見通。堅調なスノーボードウエアの販売は継続する方針だ。 スポーツ用品各社は数多くの競技向けに製品を供給しているため、取扱品目数が膨らみ、採算が悪化している。今後はミズノやデサントなども、不採算事業の整理を加速しそうだ。(日経新聞2010年6月26日) |
2011年 |
◇アシックスはスキー用品事業撤退。
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参考グラフ 2020/08/20追加
出典:レジャー白書(公益財団法人日本生産性本部)
出典:レジャー白書(公益財団法人日本生産性本部)
アルペンスキーの生産台数の推移 | 平成14、15年2月発行:スポーツタイムス スポーツ産業新報、日本スポーツ工業新聞、日本スポーツ用品輸入協会の各紙掲載記事、資料を参考 |
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1990 | 1993 | 99〜2001 | 2002 | 2004 | ||||
世界のSki | 550万 | 610万 | 440万 | 420 | ? | |||
日本の市場:91年280万(国産+輸入) 93年125万台輸入 03年40万弱輸入+小賀坂分 |
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Binding | 380万 | ? | ||||||
2000年からBindingとSkiのシステム化が始まる | ||||||||
SKIBoots | 345万 | ? |
上記は、スキー用具の達人である中山さんのショップGRANDE(東京都世田谷区)HP内にあるskinews 『地球温暖化、スノースポーツ衰退を加速させる?スキーメーカーの戦略』より引用しています。 |
◇世界のスキーマーケットと日本のスキー業界が買いつけ 1980年の後半から1990年にかけて、 世界中で生産されるスキーは約200万台、その半分の100万台が日本のマーケットに送られている。 そしてイタリアの有名スキー靴メーカーN社の総生産量は55万足、そのうち38万足が日本に送られている。 |
◇フランスのメーカーR社。 正規の輸入用品としてスキーが買われたのは1952年、オスロオリンピックの年から。 R社のスキーが300台輸入されている。10万円近い高価なものであった 1960年3500台、 1970年から輸入商社三井物産が扱う様になって2万台と一気に拡大した。20年間で100倍になったのである。 1972年札幌オリンピックの年に2万5千台、 1974年に5万台と倍々に増え続け、 1980年には20万台となった。 この前後から併行輸入業者が手をつけて輸入の正確な数値は判らなくなった。 1985年には推定22万台、 1989年、90年には推定38万台が日本のマーケットに出たと思われる。 1990年、「今年の目標は22万台と日本側と話を進めている。」と語った。 |
◇ちょぴり関連記事
- 国産スキー板メーカー64社リスト(2016/04/25)