索道・リフトの歴史
関連HPへ
- 人工スキー場の歴史(当サイト内の別hpを開きます)
- =リフト乗車人数(当サイト内の別hpを開きます)
- =リフト建設基数の推移(当サイト内の別hpを開きます)
一方スキー場では、1907年、オーストリアのボーデルという ところにスキーヤーをけん引する交走式索道が出現しました。 そして、1934年には ポマガルスキ社がフランスアルプス地方にテレスキー(注:)を、 1936年には ドッペルマイヤ社がオーストリア のチュルスにシュレップリフト(注:)を、それぞれ架設しました。 また、元々固定循環式の貨物索道が発達していたアメリカでは、 1937年に単線固定循環式のチェアリフトが登場 (アイダホ州サンバレー)。(注:別資料では、1936年説がある) 1940年代に入ると欧州にもチェアリフトが架設 されるようになり、テレスキーやシュレップリフト同様、スキー場に多く普及して いきました。 注:テレスキーとは 円盤状の搬器にまたがると動き出す仕組みの滑走式リフトのこと。 注:シュレップリフトとは 滑走式リフトのこと。履いたスキーで雪面を滑りながら斜面を登るもの。Tバーリフト、ロープトゥ、Jバーリフト等と呼ばれる。 |
●世界初の椅子リフト 世界初のオーバーヘッドの椅子リフトは、昭和11(1936)年、アメリカ・アイダホ州ケチャムに建設された。 レイクプラシッド・オリンピック(1932年)の後アルペンスキーがブームとなっていることに目をつけたユニオン・パシフィック鉄道社長・ハリマンは、ゴールドラッシュの後、牧場で生計を立てていた小さな町に究極のスキー場「サンバレーリゾート」を作り、映画スターや作家が訪れる新しいウインター・リゾート地として売り出した。 そして、客がより快適に山の上まで上がれるようにと考えられたのが、椅子リフトだった。このアイディアは、船へバナナを巻き上げる機械から発想を得て、ユニオン・パシフィック社の技術者・ジェームス・カランが生み出したものであった。 サンバレーからは、世界初のスキースクールや世界初の子供用クロスカントリーコースも生まれた。
|
1946年 米駐留軍向け2人乗りリフト。安全索道(株)による国内初のスキーリフト。(北海道藻岩山) 搬機(椅子)は木製で、スキーは脱いで乗っている。 |
研究報告「日本初のスキーリフト」(藻岩レルヒ会)原田廣記 戦後の進駐軍から国内に2箇所を作るようにと指示が出され、長野県志賀高原の丸池スキー場と北海道札幌市の藻岩山スキー場に決まり、昭和21年8月に進駐軍のリフト建設担当のウォースレーヤ少佐が、北海道庁に「クリスマスまでに完成せよ」と命じたことから始まった。 藻岩山(531m)の北斜面を伐採してコース作りの工事を開始した。コース横には第1スキートウ(リフト)の支柱を11本(木製)と原動車・折り返し滑車を取り付けた。複線式の空中索道で長さ983mに44個の二人乗りの搬器で1時間当たり100人の輸送能力があった。 第2スキートウ(リフト)も山頂まで取り付けられた。 後に北海道知事になった堂垣内尚弘氏が中心になり着工し、昭和21年12月に完成した。
|
戦後になると、スキー場にチェアリフトが架けられるようになりました。 1946年、札幌の藻岩山に2人のスキーヤーが背中合わせに乗車 するちょっと変わった搬器の複線自動循環式 索道が米軍用として架設されたのが日本のチェアリフトのはじまりです。 その後、志賀、湯沢、赤倉、池の平等にもスキー用のチェアリフトが 架設されましたが、いずれも単線自動循環式貨物索道のバケットを椅子に 改造したものでした。 1948年に草津スキー場に架設されたチェアリフトはハリジー式 の固定循環式で、一般的にはこの方式の索道が受け入れられたようで、前述 のチェアリフトもすべて固定循環式に改築されました。 |
土方注: 下の最初の写真は、リフトは木製支柱ではなく、拡大写真では明らかに鉄骨である。 なおタイトルの【●日本初のスキーリフト】は誤りで、日本のスキーリフト第2号が正しい。 丸池スキー場に日本のスキーリフト第2号、昭和22年1月20日試運転、調整を終了。 (管理人注:その2日後の昭和22年1月22日から、スキー場オープン、リフトも正式運転。) 昭和21(1946)年6月30日、志賀高原ホテルとその敷地、丸池スキー場と付属施設が進駐軍に接収された。10月、志賀高原ホテルの進駐軍初代隊長として赴任したラフェンス・パーカー大尉は日本の終戦処理に基づく賠償業務の一環として丸池スキー場にスキーリフト1基を架設するよう終戦処理委員会(特別調達庁)に申し入れる。このスキー場とリフトは進駐軍第8軍のスキー大会を開催するためのものだったが、第8軍スキーディレクターのフレデリック・ルードラーは、「米軍にとっては一時的なものだが施設は長く残るため、後々日本のスキーヤーが利用できる」場所を選ぼうとした。 11月6日、パーカー大尉は長野県終戦処理委員会と協議し、貨物索道(ケーブル)の施工経験がある鹿島組の技師を招き、同年中に完成させる至上命令を下す。これを担当したのが千秋晴三だった。千秋は当時軽井沢出張所長をしていた建築の設計技師で、松代大本営工事の後始末をしていた。施工途中で中止となった同工事に使用される予定だった建材を東京へ発送する手はずを整えていた10月、鹿島組本店の営業の者から志賀高原現場視察の案内を依頼される。 千秋はルードラーの説明するスキーリフトというものの便利さに驚き、彼から貰ったアメリカのスキー雑誌「Western Skiing」に載っているスキー場やスキーリフトの写真に胸を躍らせた。ルードラーはカリフォルニア大学を卒業した鉱山技師で、スキーリフトは鉱山用索道を改造したものでいいと言う。鉱山工事を数多く手がけている鹿島にとって、鉱山用索道はお手のものだった。しかし本店の土木部に相談を持ちかけると「鉱山用索道に人を乗せるなどとんでもない、危険だ」と否定される。千秋はルードラーから人身事故補償不担保の了解を取り、試行錯誤で索道のバケットを椅子に、緊張所をリフト乗り場(山麓)に、原動所を終点(山頂)にして設計をする。コースは、ジャンプ台1台と3つのスキーコースを作ることが決まり、11月20日ごろから湯田中から丸池へ資材運搬が始まった。 しかし工事が佳境に入ると思われた12月初め、10数年ぶりの大雪となり一晩で人の背丈ほども雪が降り積もる。丸池までの県道は車輌通行止めとなり、資機材の運搬には人力を頼るしかなくなる。「このような事態になって地元の人の協力は実に偉大であった。除雪も運搬も人力だった。あの波坂に行ってみた。幾重にも折り重なった九十九折の旧道、藁沓あるいはゴム長をはき、荷を背負った一列縦隊が黙々と音もなくゆっくりと進行していた。2m位の間をおいて老いも若きも、それぞれ自信のある目方を量って引き受け運んでいた。列は延々と、遠く、高く、上のほうへと小さく見え隠れして空まで続いていた。青年達ばかりでなく老人も、女性も、子供までが働いていた。本当に力強い人たちだった。」(*5)このあとにもまた大雪が来て、人海戦術によってリフトのワイヤーロープを運ぶこととなった。250m以上あるロープを肩に担いで山の上に運んだという。雪の下2mに埋もれた資材も地元の人が雪を掻き分けて掘り出した。 二度の大雪の後は晴天が続き、作業は急速に進む。急斜面に太い丸太の支柱が組み立てられ、ステーションの木造建家も完成した。スキーコースの伐採後、岩石はダイナマイトで砕かれ、コースが均された。1月20日にはペンキも塗り終わりリフトの試運転、調整を終了。無事米軍スキー大会の開会に間に合わせることができた。 同じころ、札幌の藻岩山にも進駐軍のスキーリフトが完成した。しかしこの藻岩山も丸池も進駐軍専用のゲレンデにかけられたリフトで、スキー場一帯にはロープがかけられ、一般人は利用できなかった。プロスキーヤーの三浦雄一郎は、当時「私は学生で通訳ができる」と言っては進駐軍しか利用できない藻岩山のスキーリフトに乗ったとテレビ番組で語っていた。『サンデー毎日』昭和24(1949)年1月30日号では表紙の絵(石川滋彦)に丸池スキー場のリフトが描かれており、当時スキーリフトというものが話題になっていたことがわかる。「登らず歩かず、下りだけ楽しめるスキーなど、到底、想像もできなかった戦後の貧しい日本人に、真から平和の喜びを与えてくれた進駐軍のスキーリフトはすばらしい贈り物であった。」(*6) 昭和23年の営業経歴書には進駐軍工事の部に「志賀高原工事」が記載されている。「工期:昭和21年11月-昭和22年1月 工事金額:4,519,000円」昭和21年から22年にかけて、消費者物価指数は125.3%上昇しているため、この金額の多寡はわからない。千秋は後に「私は、設計経験はあったが工事施工の経験はなかった。この工事は普通の経済観念を必要としなかったため、私にもできたのかもしれない」(*5)と述べている。 日本人がこのリフトに自由に乗れるようになったのは、進駐軍の接収が解除された昭和27(1952)年10月のことであった。スキーリフトの魅力に取り付かれた千秋はその後、スキーリフトの資料を集めて整理し、設計にも施工にも対応できる用意をしたが実現には至らず、昭和35(1960)年、設計部次長を最後に、現役を退いている。 *5 千秋晴三「志賀高原スキーリフト建設の思い出」志賀高原観光開発『二十年のあゆみ:志賀高原観光開発株式会社』(1978) *6 志賀高原観光開発『二十年のあゆみ:志賀高原観光開発株式会社』(1978)p62 参考図書 志賀高原スキークラブ『志賀高原スキー史1920-1991』(1991) 志賀高原観光開発『二十年のあゆみ:志賀高原観光開発株式会社』(1978)
土方あきら注: 世界の「鹿島建設」が、よくこういったページを作ってくれたと感謝している。日本初の人工降雪機?の記事が、丸紅?の社史的なコラムページに載っていたが、突然に消滅してしまった。 日本のスキー史にとって貴重なデーターにもかかわらず、こういうケースは残念ながら少なくない。それを恐れ、ここにほぼ丸々バックアップした次第である。 消滅していない限り、オリジナルページ「鹿島の軌跡 | 第23回 日本初のスキーリフト」を見ることをお勧めする。拡大写真などもある。 |
キャリアには、当時のスキー板がセットされている(写真 来住憲司) |
野沢温泉でリフトが建設された時の事を「激動の昭和スポーツ史P-スキー編」(ベースボールマガジン社, 1989.7)の中で、片桐匡(後の全日本スキー連盟副会長)が語っている。 「草津に刺激を受けて野沢でもスキークラブを中心にその着工工事が始まったのですが、しかしその頃はまだリフトなど作る会社もある訳でなく、いろいろ考えた末、知り合いの所長のいる小串鉱山から鉄索の技術屋さんである佐々木さんを頼んできて、櫓は手作りの木製で、機械は近くの前田鉄工所に依頼、ワイヤーは鉱山から中古品を買ってきて、といった具合にすべて手作りでやったものでした。 日影ゲレンデの第1リフトがそれで、車の入らない山道をワイヤーを運ぶのに思案の末、小中学生を動員して、ワイヤーを伸ばしてそれにつかまらせて運び上げたり、搬器にはスキーヤーが乗るのだから外れて落ちてはいけないとクリップをダブルにする事を考えたりしました。 それでもスチール板が切れたりするので運転している間じっと監視を続けたり、いったん止まるとワイヤーが逆回転して、スキーヤーは急いで飛び降りなければならないなど、ハプニングが続出したのも思い出します。 そんな危険なこともありまして、それではまともな料金も貰えないだろうと、乗り物に箱をおいて、気持ちがあったら10円入れてくださいといった程度の経営状態だったのです」 |
1915年 | 10月18日 | − | 安全索道叶ン立 | |
1937年 | − | 東京索道設立 | ||
1938年 | − | 日索工業設立(→太平索道) | ||
1946年 | 北海道 | 安全索道 | 札幌藻岩山に国内初スキーリフトを架設(米駐留軍向け) | |
1951年 | 新潟県 | 安全索道 | 索道事業第1号リフト建設(妙高高原町) | |
1953年 | 1月4日 | − | 日本ケーブル叶ン立 |