おもろい話・いい話・いい加減な話

▼リハビリ・奇跡の復活・ハンディーを抱える英雄たち▼

▼リハビリ・復活・ハンディーの話▼

 より見やすく、またより検索もしやすいように、以下を集め、単独独立ページとしました。2020/08/10
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心臓の壁に穴、20秒しか頑張れない現役力士・舛ノ山(2012/11/19)

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◇体重180キロの舛ノ山の場合、活動できなくなるまでの時間は20秒
 舛ノ山大晴(ますのやま・ともはる21歳)は、心房中隔欠損症という先天的な疾患の疑いがある。心臓の壁に穴が開いているために血液の循環が悪くなり、体に酸素を取り込みにくくなる病気だ。運動すると息が上がるのが極端に早く、すぐに動けなくなる。体重180キロの舛ノ山の場合、活動できなくなるまでの時間は20秒。
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 限界が近づくと、突きを繰り出す両手が重くなり、全身がだるくなる。「海で溺れているような苦しさ」を味わう。
 勝っても負けてもほとんどめ相撲が10秒以内に終わる。
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 21歳と幕内では最年少ながらも、工夫した稽古で培った押しは十分通用するようになってきた。2度目の幕内だった名古屋場所では11勝を挙げ、平成生まれで初の三賞となる敢闘賞を手に入れた。自己最高位の前頭6枚目で迎えた秋場所も8勝で勝ち越し。平成生まれ初の三役も視界に入る。
(日経新聞 2012.10.09夕刊より抜粋)
余談ですが
 今年(2012)になって分かったのですが、実は当サイトの管理人は、COPD(慢性閉塞性肺疾患→日本人の死亡原因の第10位(男性に限ると7位)、→2030年には第3位予想)で、ぜん息患者としても東京都認定。私の場合、1秒間に吸う呼吸能力が正常者の38%しかありません(2012現在)。ですから心肺機能の強化のためにもプール通いをしていても、苦しい思いをしています。
 しかし私の場合は遊びですから、途中でいくらでも小休止を入れることが出来ます。かつ、たぶん長年の喫煙が原因であろうという、自業自得なのですから、仕方ありません。
 私の数十倍は苦しいはずの稽古や土俵で堪える舛ノ山を尊敬し、心から声援を送ります
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16年間、先天性喘息と闘い、勝ったラッセ・チュース(2010/2/07)

 ラッセ・チュース(またはシュース)(KJUS Lasse 1971年1月14日 (NOR)生まれ)
◇16年間のワールドカップ生活で、通算18勝、総合優勝2回
 先天性喘息の発作との闘いでもあった。湿度や気温の微妙な変化で、激しい咳に襲われた。
 発作が一度起きると競技どころではなくなり、そのまま自宅にUターンすることもたびたび。晩年では、レースの疲労で数日間寝込むこともあった。
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 1996年にワールドカップ総合優勝。しかし2年前にも呼吸器系の疾患で調子を落としている。
 1999年には2度目のワールドカップ総合優勝。実はこの年も、前半でヴィールスに感染し、ボルミオの滑降はキャンセルしてノルウェーに戻っている。
 翌1999/2000シーズンは、12月上旬に体調不調でノルウェーに戻り、復帰できなかった。
 2004シーズン、この2年間、喘息で苦闘していたラッセは復活した。12月のスーパーG第3戦で、4年ぶりの優勝。1月には男子滑降第6戦で2勝め。ところがこの後、膝の故障が見つかりノルウェーに帰り手術を受け、シーズンは終了。
 2006シーズン終了後引退を表明し、16年間のワールドカップ生活を閉じた。35歳である。
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主な戦歴
◇世界選手権の金メダル3
 '99年のヴェイル世界選手権では金メダル2個の他に、滑降、回転、コンビで銀メダルと全レースで金銀のメダルを獲得。アルペン史上の新記録である。
◇オリンピック3大会で、金メダル1,銀3、銅1個
◇ワールドカップ総合優勝・2回(1996、1999年)、種目別滑降のタイトル1回('99年)、
 通算18勝(滑降・10、スーパーG・2、大回転・2、コンビ・4)。
 オーモットに並ぶノルウエーの英雄スキーヤーとして、自分の名前をつけた「チュースシステム」スキーウエアランドを、世界中に販売している。
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 参照・引用元
 現在は閉鎖サイト ski-and-ski/work/Biography/Bio-M_Kjus.htm KJUS Lasse (NOR) (写真家・木村之与さんのski-and-ski)より
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病気・ケガに泣いても、勝ったオーモット(2009/3/07)

◇五輪では金4つを含む計8個のメダルに輝いた。
◇チェーテイルアンドレ・オーモット(Kjetil Andre Aamodt,ノルウェー 1971年9月2日生まれ)
 1990年世界ジュニア選手権で、滑降、スーパー大回転、複合の3冠を獲得し、同年ワールドカップデビュー。1991年、オーストリア・ザールバッハ世界選手権で、スーパー大回転2位で注目を浴びた。しかし、その後病気、ケガで低迷。
 1991年の夏、アルベールビル五輪を半年後に控えた南米チリでの合宿中に、食事に出された卵に当たり体調を崩した。
 シーズンイン間近の11月、それが原因で突然発病し、「単核症(mononucleosis)」で2週間をベッドで過ごした。体重は11kg落ちた。
 2ヵ月後の1月に入ってからレースに復帰。
 その6週間後にアルベールビル(FRA)オリンピック。大会第9日目、オリンピックのために新設されたバルディゼールの過激なコースを果敢に攻め、病み上がりのオーモットがビッグイベントの初勝利。また、大回転でも銅メダルを獲得した。
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 2002年、バイク事故で左足を複雑骨折するも見事復活。
 2003年に右足首を骨折。W杯では以降の3年間、優勝から遠ざかる。
 2006第20回トリノ五輪。トリノ五輪では、初戦の滑降で左ひざを負傷し、複合をキャンセル。決して万全な状態ではなかったが、時速100`を超えるスピードの中で、旗門をなぎ倒してスーパー大回転優勝。34歳の大ベテラン、オーモットが1992年アルベールビル、2002年ソルトレークシティーに続き、2006第20回トリノと、スーパー大回転で3個目の金メダルを獲得した。
 34歳5ヵ月での優勝は、男子SG オリンピックの最年長勝利記録であろう?
※ 2007年1月6日引退を発表。「精神的にも、肉体的にも疲れた。それが決断の理由。家族のことも考慮した」と話した。
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主な戦歴
World Cup 総合Ranking
 1990/39th, 1991/17th, 1992/13th, 1994/1st, 1995/5th, 1996/10th,
 1997/2nd, 1998/4th. 1999/2nd, 2000/2nd, 2001/7th, 2002/2nd, 2003/3rd.
 2004/-, 2005/26th, 2006/8th,
World Cup- 21 勝. (1 DH, 6 GS, 5 SG, 1 SL, 8 K)
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ランジンガー、左脚の膝から下を切断(2008/9/14)

◇マティアス・ランジンガー(Matthias Lanzinger オーストリア1980年12月9日生まれ)
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 2008/ 3/ 2、クビットフィエル・ノルウェースキー場でのスーパーフィート大回転第6戦。緩斜面から急斜面に飛び込む先の見えない場所でのジャンプで方向を誤り、外側の旗の中に突っ込み、マティアス・ランジンガー が大転倒。片方のスキーが外れない状態で、高速で斜面を何回転もして行きます。息が止まるほどの悲惨な光景でした。
 脳震盪を起こすなどし、ヘリコプターで病院に搬送されました。結果は、左脚を数か所骨折。一時は昏睡状態にまで陥り命の危険性があり、左脚の膝から下を切断する手術。


 3月13日の記者会見で、「自分の運命を受け入れた。これからは恋人のエヴァ(Eva)と一緒に乗り越えて行くつもりだ。今この場に居られるだけで僕は幸せだ」。現在の状況について「ものすごい数の治療を受けているよ。そのおかげで色々助かっている」と話し、最高の治療を施されていることに満足感を示した、とのこと。


ワールドカップ戦歴
 総合順位 04/05: 80位. 05/06: 54位. 06/07: 60位. 07/08: 65位.
 種目別順位 2005 SG/25th. 2006 SG/14th. 2007 GS/29th, SG/20th.
 メダル 3位. SG: Beaver Creek 06,
 これからの将来が期待されていた選手であった。
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スーパースターたちのケガと引退 コステリッチ兄妹(2008/5/17)+ 2010/5/13追加

兄妹でケガとの闘いコステリッチ(クロアチアCRO)
 1991年に始まったクロアチアの独立戦争。内戦は激化し、一家は国外に脱出し、悲惨な環境の基でスキーを続けた。
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ヤニツァ・コステリッチ(妹 Janica Kostelic 2007年4月19日、25歳で引退)
 オリンピック 
  2002 ソルトレイク(USA) K/1位、GS/1位、SL/1位、SG/2位
  2006 第20回トリノ(ITA) K/1位、 SG/2位、SL/4位、 五輪アルペンスキー史上女性初となる4冠を達成。
  2回の五輪で合計4個の金メダル、2個の銀メダルは、五輪アルペンスキー史上女性最多のメダル獲得数。
 ワールドカップ 通算30勝 (内、1DH, 1SG, 20SL, 2GS, 6K)  '01 '03 '06シーズンと総合優勝を3度飾る快挙。
 滑降から回転まで全てに輝く「女王」だが、その経歴はケガと病気に覆われている。靭帯(じんたい)の断裂や損傷などは数知れず。ひざの手術は10回以上。
 03-04年シーズンはケガで棒に振る。
 2006年の第20回トリノ五輪大会は体調不良に苦しむ。5種目でのメダル獲得を期待されたが、大会前にひいていた風邪は治らず、滑降前日には不整脈。滑降は棄権。この時点で「グランドスラム」は消滅したが、回転では2位、翌日の滑降で1位になり、アルペン女子複合は優勝を果たした。
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 2007年4月19日、25歳で、膝と背中の怪我などを理由に引退。
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イビツァ・コステリッチ(2歳違いの兄 Ivica kostelic 1979年11月23日生まれ、182cm / 88kg)
 世界選手権 2003 St.Moritz SL/1位
 オリンピック 2006 第20回トリノ(ITA) K/2位、SL/6位
 World Cup 通算 8勝 (内、 7 SL, 1 K) 。
 '08シーズンのワールドカップでも2位3回、最終戦のボルミオ(ITA) GS1本目4位?と、まだ現役で大活躍中。
 しかし、「何十回ケガをしたか、数え切れないほど」とは本人談。13回の手術をして引退マーク・ジラルデリよりも、ケガは多そうな感じだ?
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 兄妹ともにケガは多かった。
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★追加原稿
 その後回復して、'09シーズン、アルペンスキーW杯男子回転第2戦(アルタ・バディア/イタリア)。イビツァ・コステリッチが優勝。'09シーズンでの総合(OVERALL)4位、スラローム2位。
 そしてまたまた不運なことに、'10シーズン開幕のバルチゼール(2009年12月 4〜6)戦でヒザの半月板を痛め、すぐに内視鏡手術。ヒザだけで10回目の手術である。1ヵ月後に復帰して、わずか2戦め(2010.1.10 Adelboden スラローム)にして早くも表彰台の3位。復帰3戦めの男子回転第5戦(2010年1月17日 Wengen )では優勝し、シーズン初優勝(通算10勝め)を挙げている。
 彼の実力からすれば不本意かも知れないが、'10シーズンでの総合(OVERALL)5位、スラローム4位、コンビ3位という素晴らしい成績を収めている。

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スーパースターたちのケガと引退 マーク・ジラルデリ(2008/5/17)

マーク・ジラルデリ(GIRARDELLI Mark (LUX) 1963年7月18日生まれ)
 1985年からの世界選手権、オリンピックで4つの金+9個のメダル、ワールドカップでは総合優勝を5回(男子・史上最多)と、46の勝利(歴代3位)。数々の伝説に彩られながら1997年2月に引退した。33歳。
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 '83年、スウェーデンのガリバーレで行なわれた回転で初優勝。ところがそのわずか数週間後、レーク・ルイーズ(CAN)滑降で初めての大怪我。左足の靱帯を切断。レースどころか再びスキーを履くことが出来るかどうかも疑問というほどの酷い怪我だった。ベイル(USA)のスポーツ専門医・ステードマンの手術を受ける。以降3度もこの医者の手術を受けている。
 過去13回に及ぶ手術を経験してきたマークは、1996年12月、バルディゼール(FRA)滑降で古傷の膝を負傷したのが、引退の引き金となった。
 この状態でも長い時代、過酷な世界でチャンピオンとして戦い続けてきたことに敬意を表したい。
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スーパースターたちのケガと引退 カーリ・トロー(2008/5/17)

女王カーリ・トロー(Kari Traa ノルウェー 1974年1月28日生まれ)
 第18回(1998年) - 長野(日本)長野ではフリースタイルスキー、モーグル鋼メダル。
 2002年、第19回ソルトレーク五輪 ベテランと呼ばれた28歳で金メダリスト。
 第20回トリノ五輪前最後のワールドカップ(W杯)となった2006年2月4日の第8戦(チェコ)で、大技セブンオーを決め今季3勝目を挙げた。
 そして2006年、4度目の五輪の第20回トリノ大会・女子モーグルでは銀メダルを獲得し、引退。
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 とくに世代交代の激しいこの世界で、7度もひざを手術し、引退する32歳になってもトップにいるのは素晴らしく、かつ凄いことである。
 モーグルを見ていれば、コブの1つ1つで受けるショック、エアーでの着地のショックの強さはよく分かるはずだ。この状態でも10年近くも、過酷な世界でトップとして戦い続けてきたことに敬意を表したい。
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 それが何と、「2007年3月6日に開幕するイタリア、マドンナ・ディ・カンピリオでのフリースタイルスキー世界選手権に出場することが決まった。」とのニュースが流れている。実際にどうなったかは、2008/ 5現在はインターネットで検索しても不明である。

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水泳、41歳トーレス、2度目の復帰、5度めの五輪へ (2008/5/17)

 2008年7月5日アメリカの水泳オリンピック選考会で、2度の引退から復帰した41歳のダラ・トーレスが女子100m自由形で53.78を叩き出し、優勝! アメリカ競泳選手で初の5度目のオリンピック出場を決め、41歳の代表は米国競泳勢で最年長となった。
 トーレスは1984、1988、1992、2000年の五輪で、4つの金を含む、計9個のメダルを獲得。その後再び水泳から遠ざかり、出産や喘息、膝と肩の手術を経て、2度目の復帰を果たした。
 30代以降で記録が伸びることはほとんどない水泳において、2度のカムバックを果たしている。しかも50m種目ではなく、持久力が必要100mということは、素晴らしいどころではなく、凄いことである。
 しかし、トーレスにはアテネ五輪からドーピング疑惑がつきまとっている。薬物に関しては、「無罪が証明されるまでは有罪」と本人が語っているそうだ。

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世代交代を拒否「2010年も、2014年も」不死鳥ヘルマン・マイヤー (2006/ 9/02)

 ジュニア時代に膝を痛め、レーサーへの道を断念させられた。夏は煉瓦積み職人として、冬は父の経営するスキー学校の教師として働いたヘルマン・マイヤー(オーストリア)。
 ナショナルチームに抜擢され、翌'96年のシーズンからワールドカップチームに加えられ、以降は快進撃。
 1997年にワールドカップ初優勝をしたが、前月に負った左手骨折を克服してのものだった。
 1998年2月、長野五輪の滑降では数十メートルも空中に跳ばされ、叩きつけられ、そのままヘリで病院送りされたマイヤー。
Herrmann Maiers Unfall in Nagano 1998 - Trollversion(youtube動画でのマイヤー大転倒シーン))
 わずか2日間で立ち直り、すぐのスーパー大回転で優勝、さらに大回転も優勝。
 2001年の春、マイヤーは、ソルトレークシティー五輪を引退の花道にしようと考えていた。しかし同年8月、オートバイで移動中に時速80`で車と衝突。ひざが砕ける右下腿骨開放性複雑骨折の重傷を負った。即ヘリコプターでザルツブルグの救急病院に運ばれ、7時間に及ぶ手術を受け、当分の間スキーは不可能という見通しだ。脚切断の危機に直面した。
 しかし驚異的な回復をみせ、4カ月後にはスキーを履いてゲレンデに立った。足にはまひが残り、ソルトレークシティー五輪は断念。
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 それだけに2006年第20回トリノ五輪への思い入れはけた外れに強かった。引き際も意織していたはずだ。しかし、五輪の混雑にもまれてインフルエンザを患い、最初の滑降は6位に終わった。レース後すぐにオーストリアの実家に帰って静養した。
 マイヤーにとっての本番は18日、今季W杯でトップにいるスーパー大回転だった。見事なライン取りで攻めたが、スーパー大回転で2位、大回転3位。長野五輪で得た2つのゴールドコレクションは増やせなかった。
 「この銀は長野の金よりも大きな価値がある。あの事故から五輪の舞台に帰ってこれたんだ」と。
 オーモット(男子スーパーG優勝)には「ヘルマンとは40歳まで戦わなければならない」と尻を叩かれ、苦笑い。今大会の収穫は常にトップでいることへのモチベーションの回復だったのかもしれない。「引退」の2文字はもう頭にない。
 「長い選手生活を送ってきたが、五輪はまだ2度目だ。2010年も2014年も出るつもりだ。」

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片手の大リーガー大ピッチャー・アボット (2006/ 8/16)

 ジェームズ・アンソニー・アボット(James Anthony Abbott, 1967年9月19日生まれ)さんは、生まれつき右手がないというハンディキャップを抱えながらメジャーリーグに登りつめた左腕投手。
 1989〜1998年のメジャーでの通算成績は87勝108敗、防御率4.25。1989年のシーズンは12勝12敗、防御率3.92の成績を残し、新人王選出の投票では5位の得票を得ています。ヤンキース在籍中の1993年9月4日には、クリーブランド・インディアンズを相手にノーヒット・ノーランを達成。
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 左投げなので、ボールを捕るときは、左手にグローブをはめて捕る。それから、また、左手に持ち替えて投球する。それでも、彼の守備は平均以上であったとの統計が残っています。 透明スペーサー
 日本人でいえばもしプロ野球の選手になれれば、それだけでも選手としての才能は大したものです。しかしアボットさんは大リーグの投手として、健常者でも達成できないような素晴らしい成績を残しています。
 コメントの付けようがありません。ただ敬意を持って尊敬あるのみです。ハンディーを持つ人たちに勇気を与えるだけでなく、健常者である私などは自分の甘えに対する絶対の戒めになっています。

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義足ボクサー比でデビュー 土山直純さん (2006/ 8/16)

 生まれつきの障害のため、右脚のすねから下が義足の土山直純さん(23・長崎市出身)。高校2年でボクシングを始め、翌年には九州大会で3位に入賞。
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 日本の規定では義足ためプロボクサーの資格を得られず、フィリピンで2006年 2月プロになりました。それも、負ければ資格剥奪という厳しい条件の付き。
 2006年 6月17日、同国ブキッドノン州(ミンダナオ島)でスーパーライト級4ラウンドのデビュー戦を行い、プロ2戦目のフィリピン人ボクサー(19)に判定勝ちしました。
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 日本ボクシングコミッション(JBC)は、義足使用者にプロ資格を認めない現行規則の見直しの可能性もあるとして、土山さんのケースを注目しているそうです。
 大変なことだと思いますが、今後の活躍にも期待し、声援を送りたいです。

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事故乗り越え有終の「銅」ルーロン・ガードナー (2004/ 8/30)

 レスリング男子グレコローマン120kg級の3位決定戦。延長の末にイランのパルジを下したガードナー(米国)が、おもむろにマットに座り込んだ。左右のシューズを脱ぐと、きちんとそろえてセンターサークル上ヘ。星条旗を手に観衆に応えながら涙をこぼし、シューズを残してステージを下りた。
 「引退は大会前に決めた。金メダルで終わりたかったが、手ぶらで帰らなくて済んだし、ハッピーだ」。人懐こい笑顔には寂しさも漂っていた。シドニー五輪で一躍、脚光を浴びた。グレコ130kg級決勝で、五輪4連覇を狙い、「人類最強の男」とまで呼ばれたカレリン(ロシア)を破って金メダル。「世紀の大番狂わせ」と騒がれた。
 翌年には世界選手権も制覇。カレリンが去った最重量級の主役となった。
 だが、予期せぬ出来事が待っていた。2002年冬、雪山でスノーモービルを運転中に谷に落ちて遭難。17時間後に救出された時には、医師が足の切断を告げるほどの凍傷を負っていた。足は残ったが、右足中指を切断。つま先も満足に動かせない状態から、厳しいリハビリを経て復帰した。その後も交通事故、手首の脱臼とアクシデント続き。それでも、今年5月の国内代表選考会を勝ち抜き、五輪の舞台に帰って来た。
 今大会は一次リーグを苦戦しながら突破したが、準決勝で力尽きた。全盛期の感覚は取り戻せなかったのかもしれない。「今後は指導者になる。こうして復帰できてメダルも取れた。後悔はないよ」とガードナー。
 マットを去る不死身の巨漢を、カレリンも客席から見守っていた。(時事)

(日経新聞2004/ 8/29朝刊 「破れざる魂」より)

 「故障との闘いは続く(岡本綾子)」と同じく、好きなスポーツにかける執念は凄いですね。(管理人)

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故障との闘いは続く(岡本綾子) (2003/ 4/26)

 先月の再春館レディースで九年ぶりに優勝した徐阿玉さんの涙は感動ものだった。三十路(みそじ)を過ぎてからずっと、体のそこかしこに痛みを感じながらゴルフをしている私には、彼女の気持ちがよくわかる。
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 腰痛とは長いつきあいだ。最初に異変を感じたのは米ツアー3年目の1983年。翌年は痛み止めの薬を服用しながら試合に出た。薬が強すぎてカートで居眠り運転したこともある。我慢してプレーし続けていたが、85年7月のデュモーリエではクラブを振るたびに激痛が走り、泣きながらラウンドするはめになった。その間ニューヨーク、ダラスと名医を訪ね歩いたが、答えはいつも「2、3週間体を休めれば、痛みはなくなるよ」。
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 私はゴルフがしたかった。そのため8月にフロリダのブラウン医師の元で「パパイヤ・インジェクション」治療を行うことになった。後遺症が残る危険もあったが、何が起きようとそれが私の人生。腹をくくった。
 患部にパパイヤから抽出した酵素を注入する治療の最後、あまりの痛さに全身麻酔から目が覚めた。腰に鈍痛、足の感覚もなく、生まれて初めて車いすに乗った。
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 退院後は親友のパティ・リゾさんの家で約2カ月、両親のお世話になった。リハビリはとにかく歩け歩け。一週間後には犬と散歩ができるまで回復した。朝起きるたびに体が楽になっていく。研修生のとき、ゴルフが日に日に上達したのと同じで、あの感激は筆舌に尽くしがたい。
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 先生には「半年はクラブを握るな」と言われていた。もしゴルフができなくなったらどうしよう、何をやって生活していこうという不安はあった。足腰が悪くては田舎に帰って農業もできない。ゴルフ指導の勉強をしてレッスンでもするか。それより、企画会社に勤めたいな……。今でも時折引退′繧フ身の振り方について考える。
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 信じられないことに翌年2月、復帰2戦目で米ツアー6勝目を飾った。障害を抱えていたから変に力まず、自然体でゴルフができたのだろう。
 「ゴルフを続けていたら十年後に再発する」との予言£ハり、98年には歩くこともままならず、日常生活に支障を来すようになった。迷いはあったが9月に渡米、体にメスを入れた。
 ここ数年は体をだましだましプレー。若いころ簡単にできたことができず悔しさがついて回るが、せんないことだ。進歩ないなあと思いつつ、自然体でのんびりやるしかない。

岡本綾子(日本女子プロゴルフ協会副会長)
(日経新聞2002/ 5/28 「スポートピア」より)

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