ゴールドメダリストにまつわる、悲しい話です。
◇五輪から追放されたシュランツ
1972年 第11回冬季札幌大会。好調でオリンピックイヤーを迎えたカール・シュランツ。1つ2つのメダル獲得は確実視されていた。ところが当時の第4代IOC会長アベリー・ブランデージは、原理主義的なアマチュアリズムを唱え「ミスター・アマチュアリズム」と呼ばれた男。
不運なシュランツは、ブランデージIOC会長によって「動く広告塔」のレッテルを貼られて、五輪から追放されてしまった。早くから(クナイスルスキーの)「★」マークをヘルメットに付けるなどしていて、クナイスルスキーの広告に姿をさらしたことで、アマチュア規定違反に問われた訳だが、そういう風潮を嫌うブランデージによる生け贄である。
国際スキー連盟は、1938年の頃からIOCと「指導者の参加問題」で対立していた。1960年代からメーカ一・サポートを承認していたので、シュランツ一人の追放に対し、スキーの盛んなヨーロッパなど多くの国が反発した。
わずかその翌年の1973年には、IOC規程から「アマチュア」の文字消え、「競技者」と変更された。「アマチュア」の概念は通用しなくなっていたのである。
このとき直ぐに名誉回復をすべきなのに、何とそれから更に17年もほっておかれたのである。権力、権力者とは、傲慢で、非道で、冷酷なものである。
シュランツが復権したのは、1989年のベイル(USA)世界選手権のときだった。IOCが過去の非を認めシュランツに詫び、復権を宣言した。この時シュランツはチロルの小さな新聞社の特派員としてベイルに来ていたが、この報を聞いて号泣した。
シュランツは、世界選手権では計3個の金メダルを獲得。ワールドカップでは'69、'70年の総合タイトルを取り、'72年の札幌追放を契機に引退するまで全12勝を上げている。偉大かつ悲運のレーサーであった。
◇ジュベールによる粛清
1960年代は、ゴワシェル姉妹、キリー、ファモーズなどなどが活躍したフランスの王国時代であった。フランスが、'70、'71年及び'72年のネーションズカップを獲得。
その後、ナショナルチーム監督が代わり、'72年札幌オリンピックの不首尾でまた監督が代わり、新しく登場したのがジョルジュ・ジュベールである。
(元グルノーブル大学教授で、理論家で何冊も技術書を書いている。当HP管理人は、それらの本でスキーを研修し、講演も聴いているほどジュベールの大ファンであった。)
結論から言えば、ジュベールはレーサーやジャーナリストとも敵対し、監督しては大失敗をしてしまったのである。
1973年12月、バルディゼール(FRA)において、パトリック・リュッセル、ジャン・ノエル・オージェ、アンリ・デュビラール、ラフォルグ姉妹たちは、一生涯レース出場を禁止された。ジュベールの発狂による粛清である。
これを期に、フランスのスキーチーム、長期の低迷が続き、90年代半ばになってやっとかすかな光が射してきたという悲劇に至っている。
'91年2月、プレオリンピックの行なわれていたバルディゼールに、フランススキー連盟はこのとき追放になった全レーサーを招待して連盟の非を認め、彼らの復権を発表した。
パトリック・リュッセル(またはルッセル)は、'68年から'71年の間に回転で9勝、大回転で4勝。
イングリット・ラフォルグは、ワールドカップ 通算 4勝(内 1 GS, 3 SL)
ブリギッテ・ラフォルグは、オリンピック 1972 Sapporo GS/8位、 ワールドカップ 通算 7勝(内 2 GS, 5 SL)
アンリ・デュビラールは、'71年セストリエール(ITA)滑降優勝など。
ジャン・ノエル・オージェは、'72年WC、スラロームの総合タイトル獲得
以下に詳しく載っています。
現在は閉鎖サイト ski-and-ski/work/Sight/Anton.htm St.Anton am Arlberg(AUT) (写真家・木村之与さんのski-and-ski)より