世界と日本のスキー歴史館・歴史・年表・年譜用具から見たスキー歴史年表

大工事中  2019/12/22
1880-1968

出典: 不明(もしかしたらSAJの全日本スキー教程かも? 確信無し)
1972-today

出典: 不明(もしかしたらSAJの全日本スキー教程かも? 確信無し)


むかし、昔のその昔 − 実用性と戦技の時代

BC2,500年頃 石器時代彫刻スキー、ラダイ島発見BC2500 ◇ノルウェーで、この時代の石器で彫ったスキーをはいた人物画が1929年に発見されている(右の写真が石器時代彫刻スキー、ラダイ島発見、BC2500。人物が15cm、スキーの長さ35.5cm)。
◇湖沼の底から出土したスキー木部で最古のものは、スェーデン中部ホティニィで、BC2500頃のもの。沼沢の水にタンニン酸が含まれているため、腐らずにほぼ原形を留めている。
太古のスキー
 ★ 太古のスキー ★


左  スキーの神ウル
右上2点  壁画
右下  穴のあいた骨の遺物

名寄叢書
『北海道のスキーづくり』より
(佐藤徹雄著,1983年)

◇スキーの神様でとくに有名なのは、北欧神話に登場する男神ウルと女神スカディー。

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近代スキーの幕開け − スポーツとしての時代の幕開け

1769年 ◇ノルウェーのクリスチャニア(現オスロ)で最初の競技会。スポーツとしてのスキーが始まる。
1870〜80年代 ▼固定型のスキー留め具とくびれ型スキーの誕生
◇ ノルウエー南部テレマークの住人ソンドレ・ノールハイム(Sondre Norheim 1825〜1897)は、スキーの名手であるだけでなく、用具革命の人でもあった。
 1870〜80年代に、現代スキーの原型ともなった固定型のスキー締具を開発。ターンやジャンプしてもスキーは外れなくなり、それまで4千年続いていた伝統的なスキーに終止符をうった。
 また彼は「くびれ型スキー」を設計し、テレマーク・スキーと呼ばれ、現在のスキーの原型になっている。
  • スキーの伝統 バンクーバーへ(駐日ノルウエー王国大使館)  2017.7リンク切れ
     「スキー発祥の地モルゲダールとソンドレ・ノールハイム」についても、このHPに詳しく載っています。
     ここで書かれている歴史的事項については、国のオフィシャル・サイトなので信頼は出来ると思っています。

    ◇ちなみにウエスト(サイドカーブ、サイドカット)の絞られたカービングスキーの誕生年度は、1991年か、その少し前である。即ち、約100年も後のことである。
     詳しくはカービングスキーの誕生年度
1893 明治26年
 または、
1895 明治28年
フィットフェルト式 締め具
フィットフェルト式
◇フリッツ・フィットフェルトがバインディングを考案(1895年説もある)。
 爪先の位置に付けた金具に爪先と踵を留める革ベルトを付けたもので、フィットフェルト式と呼ばれるのは考案者の名前による。これは靴幅の調整が可能で、踵が自由に動くため野山の雪原を滑るには適していた。
1896 明治26年 マチアス・ツダルスキー ▼山岳スキーの創始者M.ズダルスキー
◇マチアス・ツダルスキー(オーストリア。Mathias Zdarsky。マティアス・ズダルスキーとも表記。1856〜1940)が、「山岳(リリエンフェルト)スキー滑降術」を公表および出版。
 それまでと比べ短めのスキー、ミゾ無しの滑走面、2本杖から1本に改良。急斜面山岳地用の実用性を重視して、低い姿勢と、回転技術はプルーク・ボーゲン、シュテム・ボーゲン。
◇ツダルスキーが、最初の金属締具・リエンフェルト式締具を考案。(1893年/明治26年(または1895年)フリッツ・フィットフェルトによるフィットフェルト式締具の説もある)
 注: ツダルスキーが、スキー術と用具を考案したリリエンフェルトの地名をとり、リリエンフェルト式****と呼ばれる。(ズダルスキーとリリエンフェルト式****についての詳しい説明

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近代スキーの幕開け − スポーツとしての時代1900〜第2次世界大戦1944

1896 明治26年 マチアス・ツダルスキー ◇マチアス・ツダルスキー(オーストリア。Mathias Zdarsky。マティアス・ズダルスキーとも表記。1856〜1940)が、「山岳(リリエンフェルト)スキー滑降術」を公表および出版。


 それまでと比べ短めのスキー、ミゾ無しの滑走面、2本杖から1本に改良。急斜面山岳地用の実用性を重視して、低い姿勢と、回転技術はプルーク・ボーゲン、シュテム・ボーゲン。

◇ズダルスキーが、最初の金属締具・リエンフェルト式締具を考案。(1893年/明治26年(または1895年)フリッツ・フィットフェルトによるフィットフェルト式締具の説もある)
 注: ツダルスキーが、スキー術と用具を考案したリリエンフェルトの地名をとり、リリエンフェルト式****と呼ばれる。(ズダルスキーとリリエンフェルト式****についての詳しい説明
1907 明治40年 ◇ロシニョール(フランス)がウッドスキーの生産開始。(ボアロン(Voiron)で生産は始まり、まさに100年後の2007年に、その施設を閉鎖した。)
1908 明治41年 ◇スキーを冬の遊び、スポーツとして紹介した人は、札幌農学校(現・北海道大学)のドイツ語講師として赴任してきたスイス人、ハンス・コラー(スイス)。両杖式のスキー1台を持参するが実技の指導なし。赴任当時のコラーはスキーをまったく滑れなかった。持参説よりも、母国からスキーを取り寄せ、学生たちに紹介したとの説に説得力がある。
 当時の学生たちは、そのスキーをモデルに馬そり屋にスキーを作らせ、校内の坂などで滑った。商品ではないスキーとしては、国産の第一号だろう。
  • 詳しくは、国内初のスキー製作
    透明スペーサー
  • 北海道デジタル図鑑〜100の物語[観光・スポーツ]スキー (北海道公式サイト)(リンク切れ2019/06)
 本物のスキー発祥の地は、この札幌である。
 しかし3年後の、新潟県高田(現・上越市)で陸軍の訓練、正式なスキー術を持ち込みレルヒという達人による指導、全国普及へのきっかけを作ったなどなどにより、高田が日本の「スキー発祥の地」として優勢勝ちをした。
1910 明治43年 ◇オーストリア将校のゲオルグ・ビルゲリー(Georg Bilgeri)が「山岳スキー術(Alpine skiing)」を出版。リリエンフェルト・スキー術とノルウェースキー術を対立するものとは考えずに、両者を合わせて1つにまとめた。
 1本杖を廃して2本杖を採用。回転技術では、ノルウエー派のクリスチャニアを取り入れた。
 新しい締具を考案し、2本杖を採用し、テレマーク型スキーを取り入れて、軍と一般の指導にあたった。
 また滑走面に(最初の?)ミゾを採用、1.2〜1.5mというショートスキーを、山岳登山に使用した先駆者である。
1911 明治44年
レルヒ少佐と連隊長の堀内大佐1911
レルヒ少佐と連隊長
の堀内大佐1911年
 
将校夫人のスキー練習
将校夫人のスキー練習。明治45年頃
 高田にて (写真 : 上越市立総合博物館
 
◇カンダハー・スキークラブにて、初の滑降レース「ロバー卜・オブ・カンダハー・スキー大会」開催。
◇高田歩兵連隊(新潟県)に配属されたテオドル・エドレル・フォン・レルヒ少佐(オーストリア。Theodor von Lerch, 1869 - 1945年 享年76歳)が、1月12日、スキー専修員(青年将校10名、あるいは14名の説もある)に教授する。
 ツダルスキー方式による「リリエンフェルト・テクニック」。自費でスキーを10台作り、それを持参。日本スキー界の恩人。
◇高田南西の旭山コースで、初めての滑降競技が行なわれる。

◇日本で初めてのスキー製作は、堀内大佐の命令により新潟県高田市仲町の大工・横山喜作が始まりといわれている。用材は、けやきやくり材で、当時の高田の湿雪に合った用材が選ばれた。(新潟県スキー連盟「スキーのあけぼの」より)(金具は大町3丁目の月岡鉄工所に作らせた。)
◇ あるいは、初めてのスキー製作は高田の蔵番町の田原平八作のノルウェー式のスキー。値段は1本杖つきで1円50銭。(小川勝治著「日本のスキー発達史」昭和31年 朋文堂より)」 皇室にも献上させて頂いた事が有ると(ひ孫の方からの伝聞)。
1912 明治45年 ◇日本のスキー板の工業的な製造は、小賀坂濱太郎氏により始まったと言われている(小賀坂スキー)。
1914 大正3年 ◇第1次世界大戦勃発
1928 昭和3年 ◇ラドルフ・レトナー(オーストリア)が金属エッジを考案。(1930 昭和5年という資料もある)
 その後この金属エッジが、いかに威力を発揮したか、という面白いエピソードもある(「無許可?の補助用具・エッジの大威力」)。
1930年頃 ◇高速や氷の斜面の滑走を可能にした金属エッジが考案され、スキーに取り付けられたのは1930年頃のこと。
締具と前傾ベルトの写真
締具と前傾ベルト
(注:図は近代のもの)
エミール・アレ
第2次大戦前に活躍の
エミール・アレ(仏)
▼前傾スキーへの突入
 それから約30年間(1930〜60年頃)は強い前傾技術の時代で、スキーに開けた横穴に皮の前傾ベルトを通し、足首を縛っていた。当時の靴も締具もまったく前傾に適していなかったので、こういう方法でカバーしていた。
◇ この時代の後半は、靴底の中に金属板や木片を入れたりして、靴の作りも幾分しっかりしたものに変わっていた。
◇ しかしそれでも物足りないレーサー達は、2メートル近い長い皮ベルトで靴とスキーをしばり、前傾と足の固定を求めていた。オールドスキーヤーには懐かしいラグリーメンである。
1930 昭和5年 ◇ラドルフ・レトナー(オーストリア)が金属エッジを考案(1928 昭和3年という資料もある)。まず初めの目的は、アイスバーンや高速を狙ったものではなく、単純に木部のスキーの角の削れの防止ではないかと想像する。
 その後この金属エッジが、いかに威力を発揮したか、という面白いエピソードもある(「無許可?の補助用具・エッジの大威力」)。
◇ この年にハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)が、エッジつきのヒッコリースキーを持って来日。翌、昭和6年には物まねで国産化され、各自が軟鉄製の平エッジを購入し、大工に削ってもらい取り付けた。
 この平エッジのバラ売り、各自がつけるシステムは、昭和35年頃でも行なわれていたように思う。
 hp管理人の不確かな記憶によれば、幅8ミリ、長さ30cm、厚さ1.5ミリていどのパーツだったように思う。
1934 昭和9年 ◇世界最初のアルミニウム・スキーはフランスという資料もある。
  • 『Reference.com/Encyclopedia/Ski』(英文→2015リンク切れ)より
◇なお、「1948 昭和23年にメタルスキーが、ヘッド(アメリカ)によって作りだされた。」という説が、多分国内の有力説。あるいは唯一の説。これは1970年後半頃?に、土方がアメリカの雑誌か単行本から得たデーターのハズ。但し資料は現存していない(2006/ 5/31)。
◇3月25日、第1回、蔵王〜高湯・全日本滑降レース大会開催。
1935 昭和10年
カンダハー (旧)
カンダハー (旧)

透明スペーサー
図 14 スチールエッジ、踵があがらないバインディングar1930-1940頃 ?
図 14 スチールエッジ、踵があがらないバインディングar1930-40?
図 14 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
図 15 レース用のスキー板、先端の反りが少ない
図 15 レース用のスキー板、先端の反りが少ない
図 15 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察
(福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
◇アッテンホーファーが、性能のいいカンダハー式締具を開発。
 解放締具がスイスの特許庁に登録されたのは1912年だが、実際の製品が誕生したのはその登録が消滅した後の1935年である。
 土方のつたない英語力によれば、以下の別説も。
◇最初のかかとグリップケーブル結合の締具は、1935年、カンダハーによる。(First heel-grip cable binding implemented in 1935 by Kandahar.)
◇1932〜1936年の間にアルペンレーサーは、新しいカンダハー締具でかかとを下に固定し始めた。

◇国内では、スキーの滑走面の仕上げとして
S.10年ころの単板スキー
昭和10年頃の単板スキーと
竹のストック・スキー用革靴
A ラッカー塗り
 1935年頃/昭和10年代に入ってから、底面に塗料が塗られる。
B ベークライト
 エポキシ樹脂系塗料で、当時としては、これはなかなかよかった。
1936 昭和11年 ◇合板スキーが誕生(正確には1933年よりも少し前と思われる)。(国産初の合板スキーは、1949年の西沢)
 従来の一枚板の単板スキーでは考えられなかったほどのしなやかなバネをもたらした。
 以下のことから、1936年は合板スキー誕生ではなく、特許認可の年である。

◇1933年5月13日に、レイモンドC.アンダーソンは、3枚の薄層でスキーに関して米国の特許申請。1936年4月28日に与えられた。
◇同時に、もう1社Splitkein(ノルウェー)からも米国の特許申請。(こちらは特許が認可されなかった? 降りた?)
 This was quite the coincidence, Jorgen said,
 but the patent office found that the Norwegian company did not do the work and research that Jorgen and Anderson and Thompson Ski Company had done.

◇この頃には、ロシニョールをはじめとし、世界中のメーカーがライセンスを取得し、積層スキーでSplitkeinとA &Tの特許を使用することができた年であった。

1933-1936USA特許庁特許 レイモンドC.アンダーソンによる、3枚の薄層でスキー

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現代スキーの隆盛 − スポーツ・ビジネスとしての時代1945〜1979

▼第2次世界大戦(1941〜1945)後
1945 昭和20年 ◇第2次世界大戦終結(8月15日)。
ブリザードスキーの誕生(オーストリア)。
第2次世界大戦後まもなく
年代不明
ヒモ式スキー靴の写真
ヒモ式のスキー靴
◇靴の後ろも紐で縛る靴をモリトールが作った。
◇それを追いかけるように、一時代をふうびしたダブルの靴を、リーカーが誕生させている。
靴と足の一体化の時代に入ってきた。
1947 昭和22年 C セルロイドプラスチック滑走面
 1947年に、Dynamicのポールマイケルは、最初のセルロイド(celluloid)プラスチック滑走面を誕生させた。
 セルタナ 日本では1953年頃/昭和28年頃か。しばらく続く。セルロイドが原料で、それを酢酸で溶かし、接着面を荒して接着。ところがこの酢酸が揮発するときに、スキー本体まで曲げてしまう。3年くらいもこの変化が続く(三浦敬三談)。
1948 昭和23年 ◇メタルスキーが、ヘッド(アメリカ)によって作りだされた。
 木材だけで作られたスキーに、ジェット機にも使われている強いジュラルミンでサンドイッチしたもの。
 なお、1934年に最初のアルミニウム・スキーはフランスという資料もある。
  • 『Reference.com/Encyclopedia/Ski』(英文→2015リンク切れ)より
「1948 昭和23年に、ヘッド(アメリカ)」という説が、多分国内の有力説。あるいは唯一の説。これは1970年後半頃?に、土方がアメリカの雑誌か単行本から得たデーターのハズ。但し資料は現存していない(2006/ 5/31)。
◇ このメタルスキーには面白い逸話。
 1956年の第7回冬季オリンピック、コルチナ・タンペッツオ大会で、トニー・ザイラー(オーストリア)がアルペンの三冠王。この大天才に勝つために、ジャン・ピュアルネ(フランス)が考えたのが、滑降競技ではスピードの出るメタルスキーの使用。
 それと長時間は無理とされていたクラウチング姿勢(卵型姿勢)を、肉体トレーニングによって可能にしたこと。
 1960年、スコーバレー(USA)のオリンピックで、ジャン・ビュアルネは最初のメタルスキーを使用して滑降の金メダル。クローチングスタイル、卵形の姿勢が世界で初めて公開された。
 この姿勢を「ピュアルネの卵(型姿勢)」とも言うのは、そのためである。
1949 昭和24年 ◇1949年までには、マイケル(Dynamic’s Paul Michal )とハワードヘッド(アメリカの航空機エンジニア)は、埋め込み式のワンピース金属エッジのスキーを作った。(モールド1本エッジのこと)
◇西沢スキー、すでに民間用スキーの生産は始めていた。国産初の合板スキーも手がけている。
1952年 ◇解放締具は、1952年にアメリカのA&T社(アンダーソン&トンプソンスキー会社)が、1954年に西ドイツのマーカーが開発している。
1953年頃/昭和28年頃か。 C セルロイドプラスチック滑走面
 1947年に、Dynamicのポールマイケルは、最初のセルロイド(celluloid)プラスチック滑走面を誕生させた。
 セルタナ 日本では1953年頃/昭和28年頃か。しばらく続く。セルロイドが原料で、それを酢酸で溶かし、接着面を荒して接着。ところがこの酢酸が揮発するときに、スキー本体まで曲げてしまう。3年くらいもこの変化が続く(三浦敬三談)。
1954 昭和29年 ◇西ドイツのマーカーが最初の開放式締具(リリース・バインディング)を開発。
1955 昭和30年頃
合板スキー昭和30年頃 「R.K.MIZUNO」
  合板スキー。 昭和30年頃 ラベル 「R.K.MIZUNO」 
1955 昭和30年頃の締具
1955 昭和30年頃の締具
昭和30年代の辺りだろうか ◇モールドエッジ
 1949年までには、マイケル(Dynamic’s Paul Michal )とハワードヘッド(アメリカの航空機エンジニア)は、埋め込み式のワンピース金属エッジのスキーを作った。(モールド1本エッジのこと)
 埋め込み式のL字型のモールドエッジの誕生は、昭和30年代の辺りだろうか。昭和32年以降、S36.7年頃の、たとえばフイッシャーには、モールドエッジがついていた記憶がある。
 エッジの幅広の接着部分を埋め込むことで、金属のソール側に出る表面積を減らし、滑走性が向上。まだ短いスパンのエッジで、つなぎ方式。コストの関係でしばらくの間は、まだ平エッジが主流。
昭和30年代 ◇ 西沢の年間スキー生産台数は4〜5万台。月産が4,500台。このうち半分以上が輸出用。作れば売れる時代。輸出も好調。売り上げは5〜7億円。現在なら50億円に相当。
◇ 輸入品はまだ贅沢品。関税も100%。クナイスル・ホワイトスターは6万円。
1958 昭和33年
バックル靴の写真
ホックランドの世界初 バッ
クル靴 撮影:土方あきら
◇ホックランド(西ドイツ、もしかしたらオーストリア?)により、今までのヒモ締めに代わるバックル靴が登場(右の写真)。しかしヘンケも、世界最初のメーカーを名乗っている。
◇ほぼそれと同時期に、クナイスルがグラスファィバー・スキーを開発。
  グラススキー誕生は同じKneissel社によってだが、1960年説もある。(『Reference.com/Encyclopedia/Ski』(英文→2015リンク切れ)
◇ 日本でのグラススキーの誕生は、それに遅れること2年、海研工業である。(東京・六本木にあったこの会社で、1965年頃に私(土方あきら)がアルバイトで、グラスファイバーを木芯に巻き付けグラススキーを造らせていただいたことがある。)
 しかし、ヤマハも同じく日本で最初のメーカーをうたっていた。
◇同じ年に、スキーの軽量化をはかるために、中の芯材をくり抜いた空洞スキーも生まれている。ハネカム(蜂の巣構造)によるヘクセル(アメリカ)は、空洞スキーのメーカーとして有名である。
◇ラング(アメリカ)により、今では常識のプラスチックブーツの誕生。しかしまだしばらくの間は、世界の主流は革靴のままだ。
 オールプラスチックブーツ誕生は同じラング社によってだが、1964年説もある。(『Reference.com/Encyclopedia/Ski』(英文→2015リンク切れ)
◇スキーに関する日本工業規格JIS S7007(アルペンスキー)が制定される。
1950年代半ば〜後半 ◇スキーの滑走面の仕上げとして ポリエチレン
 そして、1954年までに、ポリエチレン(polyethylene )はスキー滑走面材として広く利用できるようになっていた。
 PTEXは1950年代後半に誕生(PTEXはIMS社の商品名)。
 このポリエチレの初期の滑走面は、剥がれやすかった。簡単に言えば、布の上にポリエチレのシートを作り、その布とスキーの板を接着。当時は、まだ接着剤が進歩していなかったことによる。
1959年頃
1959年頃のスキー靴ダブルと選手用の写真 1959年頃のスキー靴
当時の主流はヒモ式
左はダブル、右は選手用
(写真 : 海野治良)
◇ 1960年代 ◇ セフティという言葉(リリース・バインディング)が使われるようになったのは、1960年代に入ってから。それまでいわゆるカンダーハーが主流だった。カンダーハーにも改良が加えられ、一応解放装置が付くようになっていた。
 その後はLDRという締具が登場し、スキーサイドをはしるワイヤーがなくなり、靴先前方の着脱装置(フロントスロー)はワンタッチ(後ろを上げる)になっていった。よくホープマーカーと親しまれた締具で、またキリーで有名なルックネバダ(仏)もその頃である。
1960年前後
◇ 合板スキーの誕生は1936 昭和11年。(国産初の合板スキーは、1949年の西沢)
 その同じ木材の合板スキーでも、弾性の強いヒッコリー材が高級スキーに使われたのは、1960年前後のことだろうか。もちろん全てがヒッコリーでは無く、ミズナラなどとの合板である。
◇ バネということでは、しなりのある竹(バンブー)は誰でも知っていること。静岡県にはバンブースキーのメーカーもあった。1960年前後のことだろうか。これは履いていないので、残念!
   1964 昭和39年に出版された「スキー夜話 / 山口諭助著」の中にも、「最近、竹の合板スキーが生まれている。わが国の創製品はまだ量産には入っていないので、市場には僅かしか出ていないようであるが、創製品は、軽くて弾力性のあるスキーとして、、」という記述がある。
◇1960年前後のことだろうか。宮城県仙台?の阿部スキーは、紙を芯材に使った空洞スキーを作っていた、という記憶がある。私も1シーズン履いてテストしているが、決してきわものではなく立派なスキーだった。
1960 昭和35年 ◇第8回冬季オリンピック、スコーバレー(アメリカ)大会開催。
◇ ジャン・ビュアルネ(仏)は最初のメタルスキーを使用して滑降の金メダル、ギィ・ペリラはコンビ(仏)で優勝。
 クローチングスタイル、卵形の姿勢が世界で初めて公開され、「ビュアルネの卵」としてスキー界を揺るがした。
◇1960年に、グラスファイバースキー板がKneissel社、Plymold、Sailerによって首尾よく売り出された。
 1958 昭和33年にクナイスルが、という説もある。
◇アレ60(たぶん1960年)
 エミール・アレはロシニョールの技術顧問となり、ヒッコリー最高峰のアレ60を開発。当時、市場を独占していたオーストリアのスキーを圧倒し、またたく間に世界市場をロシが席巻する原動力になる。それまでの世界の主流はケスレー、クナイスル、ヘッドだったが、あっという間に凌ぐことになる。
◇国産スキーメーカー数 1960年代頃 約30社 2000年以降 約 5社
1963 昭和38年 ◇シュテフアン・クルッケンハウザー教授(オーストリア国立スキー学校長)が、名手フランツ・フルトナー他2名と共に初来日する。玉川学園と成城学園が共同で招聘。
◇この頃、皮の上にプラスチックをラミネートした靴が登場。
 防水性、硬さ、耐久性、天然材には難しい材質の均一性などが、プラスチック材の特徴である。更に色も黒一色だったものが、カラフルになり、しかもその色が鮮やかで、ファッション性からも、若者や女性に積極的に歓迎されていったのは当然である。
◇ その数年後から今日の一体成形のプラスチックブーツが、ぽつりぽつりと増えていき、と同時に革靴とラミネートの靴が減り始め、現在ではそのほとんど全てがこのタイプのスキー靴になっている。
◇ この硬いシェルを締めるためには、もはやヒモ式では不可能で、バックル・スキー靴に変わっていったのは当然である。(1958年にホックランド、またはヘンケが最初のものを開発)
1964 昭和39年 ◇ラング(アメリカ)によって、オールプラスチックブーツが紹介された。
 1958 昭和33年にラングが、という説もある。
1965年頃
カンダハー (新)
カンダハー (新)
トウピース開放式。1965年頃
ヒールロータリー式締め具
ヒールロータリー式・セミラグリーメン
トウ、ヒールピース開放式。1965年頃
1970?頃バックル靴・1965頃ヒモ式靴
左は1970?頃バックル靴、
右は1965頃ヒモ式靴
1965年
ローズモントの写真
1975?頃ローズモント
  撮影:土方あきら
◇1965年になると、いかにもアメリカ人らしい発想のローズモントが生まれた(1964年の説もある)。
 非常に硬いプラスチックの外側は、横から二つに開くように設計され、多数のスプリングやネジなどを内蔵し、靴というより精密な機械という感じであった(写真)。
 足そのものを根本的に研究し、靴を工学的に設計したものである。従来の靴というイメージを離れ、まったく新しく足と靴を考えなおしたという点で、近代スキー靴の生みの親といっても過言ではなかろう。
 但しそれとほど普及することもなく姿を消し、他社からの類似も生まれることもなかった。(なお1975年には、グンゼ産業がローズモントの靴と締具を取り扱っているので、土方の記憶よりも商品は長く続いたのかも知れない。)
◇1966年  ◇西沢スキーでは、1万円以下の一般用がボリュームゾーンだが、一番高いスキーが「CM(シーエム)」。
 昭和20年代から生産され、40年代前半にかけてのヒット商品で、ヒックコリー(木材)を使用した最高級品で3万円。大卒の初任給(2.1万円)の1.5倍だが、飛ぶように売れたのだから、日本の経済力も大きな力をつけてきたことになる。
1960年後半
セイフティー (新)
ステップイン式
トウ、ヒールピース開放式。1967年?頃以降
◇1960年後半になると、ステップインと呼ばれた締具が普及
 現代のステップイン締具と形態がほぼ同じ。形態は同じようでも、性能面では現在のものとでは遙かに劣っていた。
 この頃には、チロリア、サロモンが台頭。
1968 昭和43年 ◇第10回冬季オリンピック、グルノーブル(フランス)大会開催。
◇任意団体として、日本職業スキー教師連盟(SIA)発足。
◇ステップイン式締具
 私自身の記憶では、それまではヒールロータリー式のセミラグリーメンを使っていたのが、'68からステップイン式締具も使用(チロリア)。
1975年?
◇この頃、国産のスワローとフランスのダイナスター?が滑走面の「ミゾ無しスキー」を発売。
 しかしこの実験結果を世界で最初に、スキーメーカーの製品化以前に発表したのは私・土方である。1973年 9月号「スキージャーナル」誌に発表。
1977 昭和52年 ◇多目的な使用ができるコンパクトスキーが増える。
 コンパクトスキーはすでに何年か前に誕生しているが、年度は不明。

丸ボタン '77シーズンの用具の傾向・話題

◇既に革靴は無く、ラミネート靴も姿を消して、ほんど全てがプラスチックブーツ。

スキー用具用品・写真カタログ集 丸ボタン '78シーズン 

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ごく現代スキーの隆盛
 − スポーツ・ビジネスとしての時代1980〜

1980 昭和55年 ◇第13回冬季オリンピック、レイク・ブラシツド(アメリカ)大会開催。

丸ボタン '80シーズンの用具の傾向・話題

1981 昭和56年 ◇サロモンがスキーブーツの発売開始。即ちリアエントリータイプが元気に誕生の年かと思う。
(実際には、リアエントリーについては、1969年、イタリアの会社Garmontは、特許を取得。1970年後半、日本企業のホープは、提供(offered )し、リアエントリーの原則が定義された。 1977年以前に、ハンソンはさらに発展さた。)
透明スペーサー
 その後大半のメーカーが後追いで力を入れ、一大ブームになったのは4年後から。
 しかし'00シーズン頃?には、気がついたらリアエントリーは全く姿を消してしまっていた。それなり長所はあったのだから、改良を続けて一部に残すべき商品であったと私は思う。無責任なメーカーの姿勢を問いたい。
透明スペーサー
 詳しくはリアエントリーの誕生
1982年 ◇スキーに関する日本工業規格JIS S7019(スキー試験方法)が制定される。
'83頃 ◇可倒式ポールの誕生
 可倒式ポールの誕生は'83頃であろう。これによって、レーサーの滑りかたが激変した。
1985 昭和60年 ◇'85シーズンのスキーブーツの話題は、リアエントリー夕イプにつきる。
 サロモンが発売4年目にして、リアエントリータイプだけで世界ナンバー2に成長し、このタイプが多くのユーザーの支持を得たことから、メーカー各社の開発の目がここに集中した。'85シーズンは、需要増を期待して多くのメーカーが参入している。

丸ボタン スキー用具用品・写真カタログ集 '85シーズン 
丸ボタン '85シーズンの用具の傾向・話題

1989 昭和64年
  (平成1年)
インジェクションスキー
  インジェクションスキー。
平成元年頃。ラベル「ROSSIGNOL]
1991年 ◇1991年にハガスキー倒産(負債22億円) 。
  カービングスキー誕生年度ははっきりしないので、以下HP管理人の記憶と調べによる。
カービングスキーの誕生年度は、1991年か、その少し前である。
 (更に福岡孝純氏らの論文には、「1990年代に入ると、」とあるので、80年代は否定される。)
 1992年4月、安比で開催された「第22回国際職業スキー教師協会総会」報告書の中に、「新しいスキー製品について スロベニア●マリヤン・ステーレ、ペーター・ステラー」という講演議事録がある。赤ボールペンで、「カービングスキー」という、私のメモ書きがある。たから、このとき初めて知ったのかも知れない。
 このことから、少なくとも1991/1992シーズンにはカービングスキーが製品として開発されていたことが分かる。
 我々スキー教師集団への講演で、「新しいスキー製品について」という表現を使っているので、それから大きくさかのぼることはなく、早くてもほんの1、2年前の誕生だろ。
透明スペーサー
◇更に厳密に見ると、福岡孝純氏らの論文には、「1990年代に入ると、」とあるので、80年代は否定される。即ち、1990か1991年カービングスキー誕生と考えられれる。
・アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察(Discussion on the History of Alpine Ski Technique from the Perspectives of Biomechanics and Cybernetics)(福岡孝純 、谷本都栄 共著)
 福岡孝純氏(法政大学 教授)は、故・父孝行氏から続く、スキー研究史の第一人者である。従って、本論文の一部である以下は、高く信頼できるものであろう。
(p-46 8. ホピヒラーの時代、シュヴィンゲンとカービングスキーの登場)
 1990年代に入ると、マテリアルがますます進歩した。特に、カービングスキーの登場により、今までは上級者しかできなかったシュヴィンゲンは誰でもが驚くほど容易にできるようになった。
 それは、旧来はスキー板が長く、またスキーのタイレ(くびれ)が通常40〜50R(半径40〜50mの円) であったのだが、これが15〜20Rのカービングでは、初級者でも少しエッジングしただけで殆どスキッドすることなく、ターンの弧を描くことができるようになったからである。
透明スペーサー

 '91、'92の実業之日本と山と渓谷社の「用具カタログ特集」を調べて見たが、これらの中には「カービングスキー」の文字は見つからない。しかし、今意識して写真を見れば、海外のごく一部メーカーの一部のスキーでは、それらしきサイドカーブの絞りの強いスキーは散見される。しかし、メーカーの広告にも、用具・用品の傾向にも登場はしていない。
1993年
 カービングスキーの原型として「エルゴ(クナイスル)」と「パラボリック(エラン)」が登場。その形状から、おしゃもじスキーと呼ばれた。
1994年頃?
 当時、管理人が契約していたミズノのGS用スキーで、それらしきものが生まれ、レース関係で好評を得る。サイドカーブも今までよりもかなり強まったが、ジャンプ用スキーと錯覚する幅広さに驚いた。長さは従来のまま。
 まだこの頃でも、「カービングスキー」という用語の認識はなかったように思う。
1997年頃
 はっきりとカービングスキーとうたわれたのは、この頃からだろうか。
HP管理人のスクールで1998年まで所属のコーチが、辞める前にカービング指導法・講習会に参加している。ロシニョールが主催で、カービングに力を入れ始めた時代である。
1997年12月15日
 「+CARVING カービングスキーのスキー指導」(「日本スキー教程・日本スキー指導教本」副読本)が出版(著者 SAJ / 発行 スキージャーナル社)。ということは、その数年前にはカービングスキーが認知されている存在であった訳である。
2002年頃
 いわゆるショート・カービングが登場。
透明スペーサー
◇ ちなみに初めての「くびれ型スキー」の設計は、100年ほど前の人でソンドレ・ノールハイム(1825〜1897)。詳しくはソンドレ・ノールハイム
1990年代半ば
◇スキーの滑走面
 最近、話題のシンターンド・ベース。これは滑走面の素材の違いではなく、製法の一つ。従来からあった製法は、ポリエチレンの押し出し成形で、製造コストは次の方法の約3分の1。
 焼結製法と呼ばれるシンタードは、ポリエチレンを加熱・加圧し一度、高密度の円筒を作り、それをリンゴの皮をむくように帯状に仕上げる。
 エレクトラとかグラファイトと呼ばれるものも、シンタードである。但し、滑走中に生じる静電気の帯電を減らし、滑走性能高めるために、カーボンを混入しているものである。
1996 平成8年 ◇最終的に国産50万台に加えて輸入品が100万台を突破。次シーズンへの残数は70万台をゆうに超える規模。
 スキー業界の様相の変化。スキー制作技術は飛躍的に向上し、大量生産が可能になる。ロシニョールも自国フランス工場では高くつくので、人件費の安いスペインなどに生産拠点をシフト。製造原価も革新的に安くなっていく。
 皮肉なことに世界的なメーカーの淘汰が進む。加えて、アルプス地方の温暖化の進行。あっという間にスキー関連商品の価格の低下。
 ヨーロッパで行き場を失ったスキーが、日本に怒濤のように押し寄せる。空前の輸入ラッシュが続く。国内スキー市場に、異常ともいえる事態が襲う。
◇ 新潟の伝統あるスキーメーカー、カザマスキーが倒産。
◇ 天下のヤマハが、翌年1月までにスキー界から撤退することを発表。
1997 平成9年 ◇スキーに関する日本工業規格JIS S7028(アルペンスキー用のスキー・ビンディング・ブーツ(S-B-B)システムの組み立て、調整および検査方法)が制定される。
1998 平成10年 ◇国内スキー・スケート・スノボ用品市場 1991年 4,290億円(4,500億円という別DATAも)、1995年 4,100億円、1998年 2,890億円、2004年 1,910億円
◇(国内スキー用品専門店 1990年には約800社あった。)
倒産や廃業で1998年現在は130社に減った。
◇西沢スキー、倒産は避け、スキー界から撤退を決意
 長野オリンピック(1998年2月7日〜)終了後の3月末に、従業員全員を解雇。
 1990年代前半には、年間スキー15万台。ブーツ(テクニカ)5万足の商いのあった会社である。
   詳しくは、西沢スキーの歴史、興亡を参照。
2000年以降 ◇国産スキーメーカー数 1960年代頃 約30社 2000年以降 約 5社
2002年 ◇世界のSki市場 2002年 420万台。
日本の市場:2003年 40万弱輸入+小賀坂分
2002年頃
 いわゆるショート・カービングが登場。
◇ ちなみに初めての「くびれ型スキー」の設計は、100年ほど前の人でソンドレ・ノールハイム(1825〜1897)。詳しくはソンドレ・ノールハイム
2003 ◇世界のSki市場 2002年 420万台。
日本のスキー市場:2003年 40万弱輸入+小賀坂分
2004年 ◇国内スキー・スケート・スノボ用品市場 1991年 4,290億円(4,500億円という別DATAも)、1995年 4,100億円、1998年 2,890億円、2004年 1,910億円
2005年 ◇スキー人口 '93シーズン 1,860万人(レジャー白書) '05シーズン 750万人(レジャー白書)
2010年 ◇アシックスは、スキー用品撤退検討、早ければ2011年にも判断する見通。堅調なスノーボードウエアの販売は継続する方針だ。
ウインタースポーツ用品事業の売上高は、1990年代前半に約230億円。2009頃では6億円程度の売上高。(日経新聞2010年6月26日)
 2012.5に同社のサイトからは(スノーボードはあるが)スキーは無い。'10/11シーズンを最後に撤退したのだろうか。

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  参考資料