スキーの歴史 世界最古のスキーの歴史
5〜6,000年以前
◇スキーの起源として、スカンジナビアの人々が細長い板切れに乗って雪上移動を始めたのは、今から5000年前とも1万年前とも言われている。または人類の歴史と同じとも言われている。(原典不明)
BC2,500年頃
◇ノルウェーで、この時代の石器で彫ったスキーをはいた人物画が1929年に発見されている(右の写真が石器時代彫刻スキー、ラダイ島発見、BC2500。人物が15cm、スキーの長さ35.5cm)。
◇湖沼の底から出土したスキー木部で最古のものは、スェーデン中部ホティニィで、BC2500頃のもの。沼沢の水にタンニン酸が含まれているため、腐らずにほぼ原形を留めている。
◇スキーの神様でとくに有名なのは、北欧神話に登場する男神ウルと女神スカディー。
「スキー / 福岡孝行 ベースボールマガジン社 -- S36.12.5初班」より
◇世界最古のスキー。1984年にソ連の首都モスクワ北西880kmのブスコフで、4千年前(BC2,000頃)のスキーが発見された。また5000年前のシベリアの壁画に、スキーが登場しているという。
「世界と日本の歴史 第1巻 原始 文明の誕生(鈴木 亮著、大月書店 1987年発行)」より。
◇発見された最古のスキー板。スウェーデンのホッティング地方の沼で発見されたは、4,500年以前のもの。(ティービーエス・ブリタニカ(株)ブリタニカ国際大百科事典"スキー")
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スキーの歴史 世界で最初の競技会
1769年
◇ノルウェーのクリスチャニア(現オスロ)で最初の競技会。スポーツとしてのスキーが始まる。
1843年最初の知られていた一般市民のスキー競争(スキージャンプ)は、ノルウェーのTromsで起こった。との記録もある。
(最初のスキー純ジャンプは、1862年1月22日にTrysil(ノルウェー)で開かれた。
後に、1879年からのオスロのHusebybakkenの年次大会は、1892年からHolmenkollenに移り、Holmenkollenはスキージャンプのメッカになる。)
以下に見るように、36年後の1879 明治12年のジャンプ大会開催でも、飛距離は23メートル。日本で見ると、1928 昭和3年に冬季オリンピック、サンモリッツ大会で、日本選手は35メートルのジャンプ。
国内大会では、1929 昭和4年でそれまで28mのジャンプ記録が、48mに躍進したとあります。
これらを考えると、1843年時点での飛距離は良くても20m弱(〜10m以上)といった辺りではないだろうか?
1879 明治12年
◇ハスビーヒル(ノルウェー)で第1回ジャンプ大会開催。23メートルのジャンプが、信頼できる最初の記録。Wikipedia@pediaによれば、「テレマーク地方にいた靴屋の少年ジョルジャ・ヘンメスウッドが、クリスチャニアのヒューズビーの丘で23m飛んだという記録が残っている」とある。
年度も、国も、23mも全く同一なので、上記の2つは同一のもの思われる。ハスビーとヒューズビーという丘の名前も、似ているので日本語表記の違いであろう。ちなみにクリスチャニアは、現オスロの旧名称である。従って、次のようにまとめ直しておく。
◇ノルウェー・クリスチャニア(現オスロ)のハスビーヒル(またヒューズビーの丘は)で第1回ジャンプ大会開催。23メートルのジャンプが、信頼できる最初の記録。テレマーク地方にいた靴屋の少年、ジョルジャ・ヘンメスウッドの記録である。
1928 昭和3年
◇第2回冬季オリンピック、サンモリッツ(スイス)大会開催。
日本初参加。伴 素彦、麻生武治、竹節作太、矢沢武雄、永田 実、高橋 昴の6選手が代表。日本選手は35メートルのジャンプ。
1929 昭和4年
◇世界的ジャンパーである、ノルウェー・スキー連盟副会長オーラフ・ヘルセット中尉一行を招へい。
それまで28mのジャンプ記録が、48mに躍進した。
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スキーの歴史 優れた締具の誕生
1870〜80年代
◇ノルウエー南部テレマークの住人ソンドレ・ノールハイム(Sondre Norheim 1825〜1897)は、スキーの名手であるだけでなく、用具革命の人でもあった。
現代スキーの原型ともなった、固定型のスキー留め具を開発。ターンやジャンプしてもスキーは外れなくなり、それまで4千年続いていた伝統的なスキーに終止符をうった。
また彼は「くびれ型スキー」を設計し、テレマーク・スキーと呼ばれ、現在のスキーの原型になっている。
◇ 詳しくは、当サイト内
ソンドレ・ノールハイム
- スキーの伝統 バンクーバーへ(駐日ノルウエー王国大使館) 2017.7リンク切れ
「スキー発祥の地モルゲダールとソンドレ・ノールハイム」についても、このHPに詳しく載っています。
ここで書かれている歴史的事項については、国のオフィシャル・サイトなので信頼は出来ると思っています。
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スキーの歴史 スキーでグリーンランド横断
1889 明治22年
◇フリチョフ・ナンセン(NOR。Fridtjof Wedel-Jarlsberg Nansen, 1861年10月 - 1930年5月)が、前年の1888年から40日間をかけスキーでグリーンランド横断成功し、近代スキーの幕開け。
1890または1891年に「スキーでグリーンランド横断」をノルウエー語と英語で、少し後にドイツ語でも出版。広く人々に読まれ、非常に大きな影響を与える。
例えばスキー界のニュートン「マティアス・ツダルスキー」(Mathias Zdarsky)もこの本を読み、スキーを始めて、後に「山岳(リリエンフェルト)スキー滑降術」を公表および出版するのである(1896 明治26年) 。
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スキーの歴史 マチアス・ツダルスキーと山岳(リリエンフェルト)スキー滑降術
1896 明治26年
◇マチアス・ツダルスキー(オーストリア。Mathias Zdarsky。マティアス・ズダルスキーとも表記。1856〜1940)が、「山岳(リリエンフェルト)スキー滑降術」を公表および出版。
それまでと比べ短めのスキー、ミゾ無しの滑走面、2本杖から1本に改良。急斜面山岳地用の実用性を重視して、低い姿勢と、回転技術はプルーク・ボーゲン、シュテム・ボーゲン。
マチアス・ズダルスキーによる、最初の金属締具・リリエンフェルト式締具。1896年頃
フィットフェルト式
図 7 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察 (福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
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図 2 はフィッツフェルトの完成型。
鉄板のバッケンがスキーの木部を貫通し、
シュテムロッホに革製ベルトを付けて
固定している
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◇ズダルスキーが、最初の金属締具・リエンフェルト式締具を考案。(1893年/明治26年(または1895年)フリッツ・フィットフェルトによるフィットフェルト式締具の説もある)
注: ツダルスキーが、スキー術と用具を考案したリリエンフェルトの地名をとり、リリエンフェルト式****と呼ばれる。(
ズダルスキーとリリエンフェルト式****についての詳しい説明)
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スキーの歴史 初めて旗門を使用して大回転競技
1905 明治38年
◇1905年3月19日 最初のスキー旗門レース
マチアス・ツダルスキー(Mathias Zdarsky)が、初めて旗門を使用して大回転競技「ムツケンコーゲル大会」を開催。
リリエンフェルトのムッケンコーゲル山の頂上から麓まで、標高差489メートル、全長1950メートルのコースに85?の旗門をセット。途中35度以上の斜面での旗門を10か所、45度の斜面に1か所というコースを設けた。
この日、彼が主催した世界で初めでのスキー旗門レースは、その後のアルペン・スキー競技の原点として記念すべきものであった。(『スポーツできごと一日一話』大修館書店より)
(当サイト管理人注:45度の斜面は崖のようなもの。今でも難しいが、当時の用具とレベルで滑ることは困難に近いだろう。従って、この45度については少し信用出来ない。)
1本杖による初のレース。滑降タイムの速さだけでなく、尻もちや手を付くなどの転倒が減点になり、そのトータルで競った。(福井大学教授・新井 博談)
なお、1930 昭和5年
◇旗門に赤・青・寅の三色使用を決める。
◇アントン・トニー・ゼー口ス(Seelos, Anton "Toni"。オーストリアのインスブルックの近郊、ゼーフェルドに生まれの羊飼い)によって、テンポ・パラレル・シュプングが完成される
それまでのシュテムシュブングを基本とするアールベルグスキー技法に対する、立ち上がり抜重+ローティション+強い前傾によるパラレル・ターン。テンポシュブングと呼ばれた技法であった。その優位を競技会で証明していた。
(1930年そのものではなく、1930年代という説もある)
回転競技の旗門構成の「ゼーロスゲート」は、彼の名によるハズ。
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アントン・ゼーロス スラローム
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スキーの歴史 映画『スキーの驚異」、世界に感銘と衝撃を与える
1920 大正9年
◇ドクター・ファンクとハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider オーストリア1890-1955)が協力して、映画『スキーの驚異」を製作。世界に感銘と衝撃を与える。低いホッケ姿勢が特徴。
1924 大正13年 シュナイダーが『スキーの驚異』(アールベルグバイブル)を出版(25,000部)。
回転技術はシュテム・ボーゲン、シュテム・クリスチヤニア。
(チロル州のHPによれば1925年となっている)
図 12 アルペンスキー史のバイオメカニクス及びサイバネティクス的考察 (福岡孝純 、谷本都栄 共著)より
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なお、ハンネス・シュナイダー(Johannes SchneiderまたはHannes Schneider, 1890年 - 1955年4月25日)について
1907 明治40年
◇ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)によるスキー・レッスンが始まる。
場所はオーストリアのチロルまでは確か。サンクト・アントンの隣村サンクト・クリストフかも?
ハンネス・シュナイダーについての詳しくは、
アールベルグスキー術 シュテム
1921 大正10年
◇ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)がオーストリアのサンアントンに、アールベルグ・スキースクール創設。(または1922 大正11年の説もある)
1926年 大正15年、「スノーシューズの奇跡(Miracle of the Snowshoe)」を、ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)とアーノルドFanck博士の共著で出版。
▼ ハンネス・シュナイダー 1930日本 ▼
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1930 昭和5年
◇ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)来日(玉川学園の招聘による)。全国各地でのスキー指導行う。アールベルク・スキー術がスキー界を風びする。
1939 昭和14年
◇アメリカヘ亡命したハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)が、ノース・コンウェイにスキー学校開設。アメリカのスキー発展の力となる。
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スキーの歴史 スキー・ワールドカップの誕生は
1966 昭和41年
◇夏8月、チリのポルチーヨで第19回アルペンスキー世界選手権大会。標高2885mの高地で行なわれた。
フランスのアルペンチーム絶頂期で、24個あるメダルのうち16個ものメダルを獲得。ジャン・クロード・キリーは滑降勝利のあと、スキーとブーツ、ウェアを付けたままでプールに飛び込んだ。
◇オリンピックは4年に一度、かつ一発勝負的な面があり、本当の世界一を表すものでは無い。年間数十試合を組み、本当の実力を争おう、というような話から、ワールドカップが誕生。
◇1966年8月11日、スキー・ワールドカップの誕生宣言。(ポルチーヨの第19回アルペンスキー世界選手権会場が、WC発起の土台になった)
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ちなみに、この1966年には、
◇月刊スキージャーナルは1966年創刊。
ちなみにSki'63(ブルーガイドスキー)-- 実業之日本社 1962.10.15に1創刊号。
Skier(山と渓谷社)の創刊は1970年代である。1970〜76の間である。
月刊『スキーグラフィック』は1978年(昭和53年)に創刊。
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1967 昭和42年
ワールドカップの誕生1967年、男子の最初のレース
◇ポルチーヨの4ヶ月後、1967年1月5日、ワールドカップ第1戦のスラロームが、ドイツのベルヒテスガーデンで行なわれた。記念すべきワールドカップ最初の試合、男子優勝者はハイニ・メスナー(オーストリー)。(ちなみにキリー4位)
◇数日後ジャン・クロード・キリーの連続勝利が始まった。「私にとってワールドカップは、世界選手権、オリンピックなどより、はるかに重要なものである」とキリーは言った。
ワールドカップの誕生1967年、女子の最初のレース
07/01/67 ≫ 会場Oberstaufen GER ≫ Slalom 優勝者Nancy Greene CAN
記念すべきワールドカップ最初の試合、女子優勝者はナンシー・グリーン(カナダ)。
ワールドカップ初年度・総合優勝者
1967女子ナンシー・グリーン、全17レース開催、参加全10レース中、7勝。(歴1年間および1シーズン最多勝利数)
ナンシー・グリーン(Nancy Greene CAN)11/05/1943生まれ
アルペンスキー・ワールドカップ1967全17レース開催、ナンシー・グリーン(Nancy Greene CAN)の参加レース10、内7勝
1967+ 1968 計27レース参加 7勝+7勝= TOT 14勝で、27レースの内20回も3位以内で表彰台に立ったいる。
とにかくこの時代の女子のトップレーサーで、とにかく強かった。
ワールドカップ初年度・総合優勝者
1967男子、ジャン・クロード・キリー全17レース開催、参加全15レース中、12勝。(歴1年間および1シーズン最多勝利数)
1967/68 J Killy 総合優勝2連覇(で、引退)
1966/67 J Killy
ジャン・クロード・キリー(KILLY Jean-Claude フランス 男子)がアルペンスキーwc通算18勝と少ないのには、理由がある。
キリーにとって不幸なのは、引退する前のシーズンからのwc誕生だ。2冬しか参加できなかったことだ。
WC誕生初年度、1967シーズン12勝。何と参加全15レース中、14回が表彰台、内優勝が12回。
2年めの1968シーズン参加12レース中6勝。かつその間に五輪と世界選手権で参加4レースの全てが金メダル。
Jean Claude Killy 1967/68年全19レース 内参加12レース、6勝 →2年連続の総合優勝
アルペンスキー・ワールドカップ1967年開催全16レース中、ジャン・クロード・キリー(男子)が15レース参加、内12勝。
勝てなかった3レースも4、3、2位の各1回。別の表現をすれば参加全15レース中、14回が表彰台、内優勝が12回。この時代の断トツ選手だ。
1967キリーの参加15レースと成績-12勝(歴1年間、および1シーズン最多勝利数)
1968 昭和43年
◇第10回冬季オリンピック、グルノーブル(フランス)大会開催。
ジャン・クロード・キリー(フランス)が史上二人目のアルペン三冠王となる。
2019 令和 1年
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WC総合優勝8連覇、偉大なマルセル・ヒルシャー(Marcel Hirscher オーストリア)の引退
大天才ヒルシャー
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2勝をすれば偉大なレーサーと評される、ワールドカップ(アルペンスキー)。力があっても、1本目はラップを出していても、なかなか初優勝も難しいものである。
シーズン総合優勝となると、その冬の全レース、全レーサーを対象に選ばれたクリスタルトロフィーである。
長いワールドカップの歴史を振り返っても、ヒルシャー以前にはシーズン総合優勝3回が最高記録。
1976〜1978/1stインゲマル・ステンマルク(Ingemar Stenmark、スウェーデン )、
'01〜'06 ヤニツァ・コステリッチ(Janica Kostelic1、女性、クロアチア)
'81〜83 フィル・メーア(Philip Mahre、アメリカ)。
この3人しか存在しないのだ。
総合優勝3回は、素晴らしい天才レーサーの勲章であり、証である。
ヒルシャーと同じシーズンで引退した、アクセル・スピンダル(またはスピンダル SVINDAL Aksel NOR)。この、高速系を得意とした大天才レーサーですら、大けがに泣かされ続けたこともあり総合優勝は2回止まりである。
ヒルシャーは、それを8連覇だから、凄すぎる。
これを上回る記録は永遠に生まれないだろう。
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スキーの歴史 スピードスキー、200Km/h突破(1978年)の最初の男
(ジェフ・ハミルトン 1995年241.448km/h)
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スティーブ・マッキニー(兄Steve McKinney)
1974 Cervinia会場 Steve McKinney USA 189.473Km/h (117.733 mph)
1977 Portillo会場 Steve McKinney USA 195.200Km/h (121.292 mph)
1977 Cervinia会場 Steve Mc Kinney USA 195.975Km/h
1978 Portillo会場 Steve McKinney USA 200.222Km/h (124.412 mph)
1982 Les Arcs会場 Steve McKinney USA 201.230Km/h (125.039 mph)
キロメータ・ランセで全米のチャンピオン。7回、世界スピードスキー世界記録を更新
70年代前半まで、「スキーで200km/hは出ない」と言われていたが、
1978年、ポルティーオ(チリ)で200km/hを突破した世界最初の男。
1990年に交通事故で死亡(酔っぱらいドライバーに殺された)。
妹タマラは超天才アルペン・レーサー
詳しくは
輝かしい妹を持つタマラ・マッキニー兄弟・姉妹へ
スピードスキー競技の歴史と記録
(2008/ 9/02大更新)2015/ 9/08更新
他の選手も含めスピードスキーの記録を見たいとき【英語】
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スキーの歴史 カービングスキーの誕生
1991 平成3年
◇(1991年頃) 世界中で1年間のスキー板販売数が約300万台。内200万台が日本で販売、という異常なスキーブーム。
◇
カービングスキーの誕生年度は、1991年か、その少し前である。認知、普及はもう少し後になる。
詳しくは
カービングスキーの誕生年度
◇ ちなみに初めての「くびれ型スキー」の設計は、100年ほど前の人でソンドレ・ノールハイム(1825〜1897)。詳しくは
ソンドレ・ノールハイム
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