日本のスキーの歴史・年表・年譜 日本のスキーの歴史
+ 磐梯ひじかたスキースクールの小史

日本のスキーの歴史menu
 丸ボタン Part-2(〜1896)
 丸ボタン Part-3(〜1944)
 丸ボタン Part-4(〜1979)
 丸ボタン Part-5(1980〜)
 丸ボタン Part-5(2000〜)

丸ボタン スキーの歴史・参考資料
丸ボタン スキーの歴史関係のホームページLink

丸ボタン 世界と日本のスキー歴史館 top


丸ボタン SIA非公認スキー学校と、スキー教師のためのお部屋
丸ボタン おもろい話・いい話・いい加減な話
丸ボタン SKIスキーのいろいろページ

どさくさに紛れて、磐梯ひじかたスキースクールの歴史も、チョッピリだけ突っ込ませて頂きました。
「世界のスキー史」の中に当スクールが載っていると、気分も爽快です。管理人の冗談としてお許し下さい。

日本のスキーの歴史

Part-2(〜1896)  Part-3(〜1944)  Part-4(〜1979)  Part-5(1980〜)  Part-6(2000〜)

1808年 間宮林蔵記カラフト土人スキー ◇江戸時代後期1808年 文化5年、間宮林蔵(1780〜1844)が樺太探索。その50年ほど後に出版をした報告書『北蝦夷図説』(1855、ままたは1857年)に、スキーに似た雪具をつけた人の図が描かれている。これが、日本初のスキーに関する記述と思われる。間宮倫宗(林蔵)口述 (出版?)播磨屋勝五郎。
 注:出版時期については、少し不確かである。情報開示の難しかった江戸時代とはいえ、探索実施の約50年後、かつ没後10数年? 隠密という職業上の秘守義務?
 1808年に樺太探索、同年に北蝦夷図説を出版ととれるような記載を見ることもあるが、これは誤りと思う。
 1854(安政元)年、箱館御役所から「げろり、そりで坂すべりをする子供遊びは、危険なのでやめるように」というお触書が出された記録があります。「げろり」とは、下駄の裏側に竹や鉄の棒を取り付けた「下駄そり」のことで、昭和30年代までは遊ばれていたようです。
  • 北海道デジタル図鑑〜100の物語[観光・スポーツ]スキー (北海道公式サイト)(リンク切れ2019/06)

    topページへジャンプへ   参考資料へ   スキーの歴史menuへ   スキー学校と教師のお部屋へ   SKIスキーのいろいろページ

日本のスキーの歴史 近代スキーの幕開け − スポーツとしての時代1900〜第2次世界大戦1944

Part-2(〜1896)  Part-3(〜1944)  Part-4(〜1979)  Part-5(1980〜)  Part-6(2000〜)

1895 明治28年 ◇日本に初めてスキーが持ち込まれたのは、1895(明治28)年に松川敏胤(まつかわ・としたね)大尉がスカンジナビア?から持参したものと言われます。
 長岡外史が日本にスキーを普及させたことは有名な話であるが、それ以前に、松川が日清戦争の頃に日本にスキーを持ち帰っている。
 松川は日清戦争開戦時はドイツ駐在武官であり開戦後に本国に呼び戻されているため、日清戦争で中国大陸に渡った時の戦利品として持ち込んだという戦利品説と、ドイツ駐在武官時代にスカンジナヴィアから持ち込んだという説の、二説がある。なお、松川が持ち帰ったといわれるスキーは現存し、松川の息子を顕彰する記念館で展示されている。
1902 明治35年 ◇八甲田山での青森歩兵連隊の雪中行軍で、220名が猛吹雪の中で遭難し、12名を除く全員が凍死。
1904 明治37年 ◇野村冶三郎(青森)がノルウェーよりスキー2台を取り寄せて試乗する。
1908 明治41年 ◇スキーを冬の遊び、スポーツとして紹介した人は、札幌農学校(現・北海道大学)のドイツ語講師として赴任してきたスイス人、ハンス・コラー(スイス)。両杖式のスキー1台を持参するが実技の指導なし。赴任当時のコラーはスキーをまったく滑れなかった。持参説よりも、母国からスキーを取り寄せ、学生たちに紹介したとの説に説得力がある。
 当時の学生たちは、そのスキーをモデルに馬そり屋にスキーを作らせ、校内の坂などで滑った。商品ではないスキーとしては、国産の第一号だろう。
  • 詳しくは、国内初のスキー製作
    透明スペーサー
  • 北海道デジタル図鑑〜100の物語[観光・スポーツ]スキー (北海道公式サイト)(リンク切れ2019/06)
 本物のスキー発祥の地は、この札幌である。
 しかし3年後の、新潟県高田(現・上越市)で陸軍の訓練、正式なスキー術を持ち込みレルヒという達人による指導、全国普及へのきっかけを作ったなどなどにより、高田が日本の「スキー発祥の地」として優勢勝ちをした。
1909 明治42年 ◇ノルウェー国王ホーコン7世より、青森第5連隊200名が八甲田山中で遭難・大半が凍死した大惨事(明治35年1月)の見舞として、スキー2台が贈られる。
 (1910 明治43年、スェーデンの軍隊スキー2台、との資料もある)
◇英国大使館付武官デロメラー・グリーフ大尉が、北海道月寒で滑ったといわれている。
1910 明治43年 ◇東京高師・教授の永井道明が、スウェーデンよりスキーを持ち帰り、秋田の講習会で試乗。
◇スウェーデンの杉村公使より、2台のスキーが贈られる。
1911 明治44年
レルヒ少佐と連隊長の堀内大佐1911
レルヒ少佐と連隊長
の堀内大佐1911年
 
将校夫人のスキー練習
将校夫人のスキー練習。明治45年頃
 高田にて (写真 : 上越市立総合博物館
 
◇高田歩兵連隊(新潟県)に配属されたテオドル・エドレル・フォン・レルヒ少佐(オーストリア。Theodor von Lerch, 1869 - 1945年 享年76歳)が、1月12日、スキー専修員(青年将校10名、あるいは14名の説もある)に教授する。
(土方の注:講習した場所については、「58連隊営庭」と「金谷山スキー場」の2つの記載が見られる。どちらかが、誤りの可能性もある。しかし信頼性の高い「上越市のサイト」でも両方が記されていることから、両者は同じ場所である可能性が高い。)
 指導法はツダルスキー方式による「リリエンフェルト・テクニック」。レルヒは日本スキー界の恩人である。
◇高田市に、我が国初のスキークラブ・「越信スキー倶楽部」設立(2月)。
◇高田南西の旭山コースで、初めての滑降競技が行なわれる(当サイト管理人注:この年度は誤りで、翌1912年説が正しいと判断する)。
◇大日本体育協会設立。
◇日本最初の民間スキー場として五色温泉スキー場(山形県)が誕生。横浜の商社員・オーストラリア人のオゴン・フォン・クラッツァがスキーを楽しんだことが開場のきっかけとなった。
  HP管理人も大学生時代の4年間、家族付き合いをさせていただいたが、平成10年にリフトの老朽化などにより閉鎖。

◇商品・製品としての、日本で初めてのスキー製作は、堀内大佐の命令により新潟県高田市仲町の大工・横山喜作が始まりといわれている。用材は、けやきやくり材で、当時の高田の湿雪に合った用材が選ばれた。(新潟県スキー連盟「スキーのあけぼの」より)(金具は大町3丁目の月岡鉄工所に作らせた。)
◇ あるいは、初めてのスキー製作は高田の蔵番町の田原平八作のノルウェー式のスキー。値段は1本杖つきで1円50銭。(小川勝治著「日本のスキー発達史」昭和31年 朋文堂より)」 皇室にも献上させて頂いた事が有ると(ひ孫の方からの伝聞)。
1911 明治44年
右ロアール・アムンゼン(ノルウェー)と、左ロバート・スコット(イギリス)
左ロアール・アムンゼン(ノルウェー)、
       右ロバート・スコット(イギリス)
 
◇12月14日 アムンゼン(ロアール・アムンセン/Roald Engelbregt Gravning Amundsenノルウェー)が探検隊を率いて、人類史上初めて南極点への到達に成功。
 白瀬 矗率いる日本隊はノルウェー人のスキーを見て、妙な板を履いているなどと書き残している。


注:(写真について)
 右スコットの写真は南極大陸でのものだろう。
 しかし左アムンゼンについては、服装が軽装で南極大陸外のものに見える。母国ノルウェーでスキーをしている時の写真ではないだろうか。

1912 明治45年 ◇1月21日  旭山コース(新潟県高田市)で、記録に残る日本初の競技会が開かれた。別の資料では「金谷山(高田市郊外)で、、」という表記もある。開催年月日、概要など同一なので、同一のものである。
 高田スキークラブ主催で50名が参加した。コースは南葉山八合目から射撃場までの高田旭山コースで全長4km、その後レルヒコースと呼ばれるようになった。決勝点付近は黒山の見物人で埋まったという 。1位は軍の小暮少尉の25分ほど。ちなみに後走はレルヒで、ラップ。
 レルヒの指導によるものである。あの乃木大将も出席しスピーチで激賞。
(当サイト管理人注:前年の説もあるが、本1912年説が正しいと思う。その根拠は、次のとおり。)
* スキーのあけぼの ・スキー発祥から新潟県スキー連盟の創立まで
 地元のサイトであり、かつこちらには1912年の大会成績やタイム、コースの詳細なども記されている。情報の信頼出来るサイトである。
* 実業之日本社 SKI'78-1 「SKI雑学大事典」にも、同じく明治45年1月21日で記されている。
◇日本のスキー板の工業的な製造は、小賀坂濱太郎氏により始まったと言われている(小賀坂スキー)。
1914 大正3年 ◇第1次世界大戦勃発
1915 大正4年 ◇『スキー術』を、山口少佐・金井が共著発刊。
   土方の注:日本で最初のスキー本と思われる。
1916 大正5年 ◇北大教授・遠藤吉三郎が欧州留学より帰国し、ノルウエー・スキーを持参(両杖を使ったもの)。
1918 大正7年 ◇第1次世界大戦終結
◇J.T.Bがスキー講演、映画会を開催。
1919 大正8年 ◇『最新スキー術』を、遠藤吉三郎・木原共著発刊。博文館。
1922 大正11年 ◇大日本体育協会内に、スキー部が設けられる。
◇映画『スキーの驚異』日本初公開。
1923 大正12年 ◇1第1回全日本スキー選手権大会が北海道・小樽市郊外の緑が丘で開催される。
1924 大正13年 ◇第1回冬季オリンピック、シャモニー(仏)大会開催。参加16カ国258名で日本はゼロ。(日本の初参加は1928 昭和3年 第2回サンモリッツ大会)
 スキー種目は距離(クロスカントリー18kmと50km)、耐久、リレー、ジャンプのみ。アルペン競技が正式種目に採用されるのは、1936年の第4回から。
◇第2回全日本スキー選手権大会が新潟県・高田(現在の上越市)金谷山で開催される。以後、毎年行なわれる。
◇日本最初のスキーロッジとして皇族のための六華倶楽部が、五色温泉スキー場(山形県)に建設される。
1925 大正14年
稲田昌植(Saj初代会長)
稲田昌植
◇S.A.J.(全日本スキー連盟)創設(2月15日、加盟20団体)。  初代会長・稲田昌植。 日本体育協会に加盟。
◇山形・蔵王 地元、スキー場造成運動おこす。秋田営林局、調査の結果、国有林にスキーコース開く。
1926 大正15年 ◇S.A.J.が F.I.S.(国際スキー連盟)に加盟。
◇全日本大学専門学校スキー競技連盟結成。
1928 昭和3年
第2回冬季オリンピック・サンモリッツ大会ポスター
第2回
冬季オリンピック
・サンモリッツ大会
◇第2回冬季オリンピック、サンモリッツ(スイス)大会開催。25カ国464名が参加。
 日本初参加。伴 素彦、麻生武治、竹節作太、矢沢武雄、永田 実、高橋 昴の6選手が代表。日本選手は35メートルのジャンプ。
◇第1回全日本学生スキー選手権大会が大鰐で開催される。
◇第4回明治神宮体育大会にスキー競技会が加えられ、高田で開催される。
1929 昭和4年 ◇世界的ジャンパーである、ノルウェー・スキー連盟副会長オーラフ・ヘルセット中尉一行を招へい。
 それまで28mのジャンプ記録が、48mに躍進した。
1930 昭和5年
◇ハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)来日(玉川学園の招聘による)。全国各地でのスキー指導行う。アールベルク・スキー術がスキー界を風びする。
▼ ハンネス・シュナイダー
  1930日本 ▼

ハンネス・シュナイダー1930(Johannes SchneiderまたはHannes Schneider, 1890年 - 1955年4月25日)
1931 昭和6年 ◇大倉喜七郎男爵が、私財を投じて大倉山ジャンプ競技場を建設。
 エピソード @このジャンプ台へ上るのが怖くて、選手は監督から尻を叩かれて嫌々上ったとか? A1937年観光ホテルを建設(大倉家の企業系列で?、ついでに記せば、大成建設も)。B第二次大戦後以前?、西村一良さんが日本のプロスキーヤー第1号になり、スキー学校を始めたとき、頂いたご祝儀?が家1軒を買える金額だったとか。 
1932 昭和7年 ◇第3回冬季オリンピック、レイク・ブラシツド(アメリカ)大会開催。日本も参加。
 (レークプラシッドでは、1980年、第13回冬季オリンピックも開催 )
1936 昭和11年 ◇第4回冬季オリツピック、ガルミンシュ・バルテンキルヘン(ドイツ)大会開催。28カ国755名(668名との資料もある)が参加。
 この大会からアルペン競技が正式種目となる(種目はダウンヒルとcombined スラローム)。
◇日本からは15名(34名との資料もある)が参加し、伊黒正次がジャンプ7位。
◇第5回冬季オリンピックに、札幌が立候補。
◇札幌・大倉山シャンツェ(ジャンプ台)が完成。当時の最長不倒距離は51m。
1936年か少し前には合板スキーが誕生(実際の特許図面入り)。(国産初の合板スキーは、1949年の西沢)
1937 昭和12年 ◇オーストリアのK.ラインルト、T.ドアチエが「今日のスキー」を出版。ヨーロッパのスキーヤーに大きな影響を与えた。
 その技法は、前外傾+くの字姿勢のフォーム。
 日本では、1940年に福岡孝行氏が翻訳出版。
◇全日本スキー選手権大会を滋賀県・伊吹山で開催。初めてのアルペン種目が採用(男子新複合、女子滑降のみ)。即ち第1回アルペン大会。
◇外国スキー用品・用具輸入禁止。
◇大倉喜七郎男爵が、赤倉観光ホテルを建設。当時の日本政府の外貨獲得政策として、国際リゾートホテル建設が推進され、その一つとして建設された。
 大倉男爵については、1931 昭和6年も参照。
◇(1937年か、その近辺)長野県が、学校体育で雪国の特色を生かしスキーを盛んにしたいとの方針を出す。西澤書店にスキー納入を要請。
 当時、新潟県高田市や長野県飯山市で、外国品スキーを見よう見まねで作っている開発者が数人存在し、軍需用具として僅かながら生産が拡大していた。
 しかし、組織的にスキーを開発・制作していたのは西沢だけ。おそくら日本で最初の量産スキーメーカーと推測される。
 詳しくは、西沢スキーの歴史、興亡を参照。
1938 昭和13年 エミール・アレのフランススキー術 ◇エミール・アレー(Emile Allais)が「スキー・フランセ」(フランス・スキー術、またはフレンチメソッド)を発表および出版する。ローテーション技術が、世界を風びする。(邦訳出版は、昭和16年「スキー・フランセ【新しい技法】」)
◇日中戦争が勃発のため、第5回冬季オリンピック札幌大会(1940)、第12回夏季オリンピック東京大会(1940)ともに返上する。
◇世界選手権大会ジャンプ競技に初参加(フィンランド・ラハチ)。
後楽園球場で第3回全日本選抜スキー・ジャンプ大会1950年1月28日 ◇SAJが『一般スキー術要項」を発刊。千家哲麿編。特徴はテレマークLST。
◇第1回全日本選抜スキー・ジャンプ大会 甲子園大会 1938年1月10日
 30両の貨車を使って妙高山麓から大量の雪を運び入れた。当日は4万人を越える観衆を集めた。
◇第1回全日本選抜スキー・ジャンプ東京大会(1938(昭和13)年2/27 後楽園スタヂアム→現在の東京ドーム)
 東京・後楽園の野球場に、石打から夜行貨物列車で運んだ雪をつけた。シャンツェの高さは38mと甲子園よりはるかに高い。
1939 昭和14年
西村 一良
西村 一良
◇アメリカヘ亡命したハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)が、ノース・コンウェイにスキー学校開設。アメリカのスキー発展の力となる。
◇1939.12 SAJ第1回指導者講習会(検定会)が山形県五色温泉(山形県米沢市 五色温泉 宗川旅館)で開催。受験者64名、合格者10名(認定11名)の指導員が誕生する(文部省とSAJ共催)。西村一良さん合格。
 土方注(2016.2):SAJ公式サイト内では、会場は「五色沼(福島県)で開催」とあるが、これは多分間違いである。同じ「五色」という単語から、山形県五色温泉を五色沼(福島県)と誤解した、と考える。
◇第2回全日本選抜スキー・ジャンプ大会(後楽園大会 1939年1月28日、29日、甲子園大会1939年2月18日、19日)
 貨車で運ばれた雪を敷き詰めた球場内の特設ジャンプ台で開催。
詳しくは、ここをクリック(写真で見る、古き人工スキー場の歴史)
1940 昭和15年 ◇ 1940年代に入ると欧州にもチェアリフトが架設 されるようになり、テレスキーやシュレップリフト同様、スキー場に多く普及していく。(CABLEMAN) 世界史より
三浦 敬三 スキーの歴史・藤巻 文司さん
三浦 敬三 藤巻 文司
◇ 1940.3月に野沢温泉で、SAJ第2回指導者講習会(検定会)。受検者47名、合格者12名。三浦敬三、藤巻文司さん合格。
◇ (第5回冬季オリンピック札幌大会、第二次世界大戦で中止)
◇ (第12回夏季オリンピック、東京大会、第二次世界大戦で中止)
◇オーストリアのK.ラインルト、T.ドアチエ共著の「今日のスキー」、福岡孝行により邦訳出版される。(出版:登山とスキー社)(原本は1937年に出版)
スキーの歴史・福岡 孝行さん
福岡 孝行
◇5/21 寿屋堀修一、山形県第1号・全日本スキー連盟、SAJ指導者証を受ける。
◇国鉄一部の列車にスキー持込禁止。
◇1940年 昭和15年 西澤工業株式会社に社名変更
 陸軍被服敞(東京・赤羽)から、軍が監督するスキー工場を立ち上げたい、と。理由は、(ソ連を想定し?)北海道北部方面軍、満州の関東軍にスキー部隊を創設すること。そのために、東京の飯田橋高島屋、諏訪の増沢、それに西沢で、年間10万台のスキーが必要と。
 西沢は年間でも3万台。株券を担保に資金を借り、北海道を巡り、15万台分の材料を買い付け。緑町工場も拡大。突貫工事、フル稼働の連続。納期までに約束数量の納入に成功。終戦まで、毎年3万台の単板スキーを軍に納入。(終戦は1945年だが、製造は44年までの可能性が高い)
 詳しくは、西沢スキーの歴史、興亡を参照。
1941 昭和16年
◇第2次世界大戦勃発(12月8日)
◇特別指導員制度制定
◇全日本スキー連盟、財団法人になる(厚生大臣認可4月23日)。
◇エミール・アレー著の「スキー・フランセ【新しい技法】」邦訳出版される。河合 武、松永武夫らの邦訳。昭和16(1941)年2月(原本は1938年に出版)
1942 昭和17年 ◇第二次世界大戦勃発のため財団法人全日本スキー連盟解散、大日本体育会スキー部会となる。
◇『国民スキー教本』
◇戦技スキー指導者誕生。
1943 昭和18年 ◇戦技スキー審議委員会が結成される。
1944 昭和19年 ◇戦技スキー指導員養成中央講習会開催(管平)。
◇『戦技スキー読本』特徴、部隊訓練用スキー。
◇ (第5回1944年 コルティナダンペッツォ(イタリア)冬季オリンピック、第二次世界大戦で中止)
◇ (第二次世界大戦の影響を受け第5回冬季オリンピックは、まず1940年札幌大会が中止になり、続いて1944年コルティナダンペッツォに変更・順延になるが、これも中止)

    topページへジャンプへ   参考資料へ   スキーの歴史menuへ   スキー学校と教師のお部屋へ   SKIスキーのいろいろページ

日本のスキーの歴史 現代スキーの隆盛 − スポーツ・ビジネスとしての時代1945〜1979

Part-2(〜1896)  Part-3(〜1944)  Part-4(〜1979)  Part-5(1980〜)  Part-6(2000〜)

1945 昭和20年
小島三郎(Saj二代会長) レルヒ少佐と連隊長の堀内大佐1911
小島三郎 レルヒ
◇第2次世界大戦終結(8月15日)。
◇財団法人全日本スキー連盟(SAJ)復活(会長小島三郎)。
◇テオドル・エドレル・フォン・レルヒ(オーストリア。Theodor von Lerch, 1869年8月31日 - 1945年12月24日)永眠。享年76歳。
 1911 明治44年 オーストリア少佐として高田歩兵連隊(新潟県)に配属され、スキー専修員(青年将校10名、あるいは14名の説もある)にスキーを教授。
1946 昭和21年
安全索道(株)による、国内初期のスキーリフト
1946年12月 国内初のスキーリフト・藻岩山
搬機(椅子)は木製で、スキーは脱いで乗っている。
◇第1回地方競技会が札幌(420名)、蔵王(70名)で開催される(厚生省共催)。
◇横手、小千谷で、社会体育スキー指導者講習会が開催される。
◇指導者講習会が野沢で開催される(3月)。
◇国内初スキーリフト架設(米駐留軍向け)(北海道藻岩山)
 「安全索道の沿革」ページには、「昭和21(1946) 国内初スキーリフト架設(米駐留軍向け)(北海道・藻岩山)」当時の貴重なスキーリフトの写真もありました。しかしサイトのリニューアルにより、2009/ 5時点ではこの貴重なページは消滅しています。
1947 昭和22年
◇日本で第2号のリフトは、1947年1月、丸池スキー場に駐留軍の要請で設置。
 (丸池も、国内初スキーリフトという記載が各所に多く見られるが、日本第1号のリフトは、前年1946年12月の藻岩山スキー場である。)
 (丸池スキー場ではリフト建設着工は1946年だが、大雪のため遅れ翌1947年1月完成)
 猪谷千春さん(1956年コルティナ冬季五輪・銀メダル)や杉山 進さんたちもこのリフトを使い練習した。
(藻岩山と同様に、「丸池リフトの支柱は丸太組である、と当HP管理人は聞いている」と記憶していたが、実際の丸池リフト写真では鉄骨組み?のように見える)
透明スペーサー
◇ ちなみに日本初の民間用としては、昭和23年(1948年)草津温泉天狗山ゲレンデに誕生。次に1950年 昭和25 赤倉中央スキー場、池の平スキー場、野沢温泉スキー場にリフト誕生(池の平、野沢は1950年12月、赤倉中央の月は不明)。続いて1951 昭和26 11/30 山形・蔵王村営、木柱・2人乗りリフト500mが誕生。
・昭和23年(1948年)日本初の民間用としては、草津温泉天狗山ゲレンデに誕生。

◇全日本学生スキー選手権大会が第20回大会として復活、小樽で開催。
(第1回は1928 昭和3年に大鰐で開催)
◇1947年3月、福岡孝行(法政大教授)の主導により第1回八方尾根リーゼンスラローム大会開催。毎日新聞社後援。終戦から2年め、唯一の交通機関・列車はスキー持ち込み禁止の時代。商品には家庭用の鍋など。
◇「一般スキー術」をSAJが共著発刊。特徴は前外傾によるターン、中間姿勢。
 (当HP管理人 注: 前外傾については、後の五輪メダリスト猪谷千春を育てた、父親・六合雄の影響も大では?)
1948 昭和23年 ◇第5回冬季オリンピック、サンモリッツ(スイス)大会開催。28カ国708名(669名との資料もある)が参加。日本は不参加
 (当HP管理人 注: 日本が五輪不参加の理由は、敗戦国としての経済の疲弊、貴重な外貨不足?か)
◇戦後初の第3回国民体帝大会冬季スキー大会兼、第26回全日本スキー選手権大会が野沢で開催。
◇日本初の民間用としては、昭和23年(1948年)草津温泉天狗山ゲレンデに誕生。天狗山レストハウス前には日本初のスキーリフト記念レリーフが飾られている。
 ちなみに全国第2号誕生(注:)は、1951 昭和26 11/30 山形・蔵王村営、木柱・2人乗りリフト500m。
 米駐留軍向けということでは、昭和21年12月に北海道藻岩山に、昭和22年1月に丸池スキー場に設置されている。
 土方あきら注:
・昭和23年(1948年)日本初の民間用としては、草津温泉天狗山ゲレンデに誕生。
・1950年 昭和25 赤倉中央スキー場、池の平スキー場、野沢温泉スキー場にリフト誕生。(池の平、野沢は1950年12月、赤倉中央の月は不明)
 かつ、【妙高池の平カヤバスキー場リフト1,000m、赤倉第一リフトとともに、陸運局の正式許可を得た第一号でもある。】という資料もある。
 以上が正しければ、上記の【民間用として全国第2号】は誤りである。それとも何かの基準の【民間用として全国第2号】なのだろうか?
1949 昭和24年 ◇日本初の風洞実験が東京大学第二工学部で実施される(のちにスキージャンプ競技の練習に使用)
◇国産初の合板スキーは、1949年の西沢
◇1949日本の平均気温は、統計を開始した1899年以降で、第1位の高い記録。(57年後の2006年12月〜2007年2月に、第1位タイで並ぶ暖冬。)
1950 昭和25年
SkiLift1950y
現存する1950年リフト椅子
上信越道の妙高サービスエリア(写真 来住憲司)
◇『基礎スキー教科書」をSAJが共著出版。前外傾とローテーション。
◇1950年 昭和25 赤倉中央スキー場、池の平スキー場、野沢温泉スキー場にリフト誕生。(池の平、野沢は1950年12月、赤倉中央の月は不明)
後楽園球場で第3回全日本選抜スキー・ジャンプ大会1950年1月28日 ◇昭和25年(1950)1月、東京・後楽園球場の特設シャンツェで、学生・全日本選抜のジャンプと回転が行われた。発案者は第2回冬季オリンピックに日本初の参加選手・竹節作太で、昭和7年にアメリカで見た大会を参考にしたという。
 戦前昭和13、14年にも後楽園と甲子園で実施している。
透明スペーサー
1950年(昭和25年) (▼以下出典:SAJ公式サイト)
後楽園の特設ジャンプ台で、ジャンプ及び回転の競技会開催。雪は新潟県から貨物列車で輸送(30車両分)
1951 昭和26年 ◇第1回国際スキー教育会議(略称インタースキー)がオーストリアのツールスで発足(参加9カ国)。
 スキー指導に関する初めての国際会議。各国間の情報交換と人的交流の必要性の認識。講演とデモンストレーションの組み合わせ。特徴、ローテーション技術。
 (当HP管理人 注: これからしぱらくは戦勝国フランス=ローテーション技術が、世界を席巻する。また、この後敗戦国オーストリアが打ち出した=バインシュピール技術との過度の対立、論争時代に入るが、第2次世界大戦の影響もあったのでは?)
◇1951 昭和26 11/30 山形・蔵王村営、木柱・2人乗りリフト500m、誕生。民間用として全国第2号(注:)。
 (ちなみに国内初スキーリフト架設は、昭和21(1946) 米駐留軍向け、北海道藻岩山。民間用の初は昭和23年(1948年)草津温泉天狗山ゲレンデに誕生 )
 土方あきら注:
・昭和23年(1948年)日本初の民間用としては、草津温泉天狗山ゲレンデに誕生。
・1950年 昭和25 赤倉中央スキー場、池の平スキー場、野沢温泉スキー場にリフト誕生。(池の平、野沢は1950年12月、赤倉中央の月は不明)
 かつ、【妙高池の平カヤバスキー場リフト1,000m、赤倉第一リフトとともに、陸運局の正式許可を得た第一号でもある。】という資料もある。
 以上が正しければ、上記の【民間用として全国第2号】は誤りである。それとも何かの基準の【民間用として全国第2号】なのだろうか?

1952 昭和27年 ◇第6回冬季オリンピック、オスロ(ノルウェー)大会開催。30カ国732名が参加。アルペン複合が廃止され、大回転が加えられる。女子距離競技が新設される。
 日本からは、戦後初めて参加する(8名)。
◇指導員研修会制度制定。(SAJ)
◇技術章検定(バッジテスト)改訂(1〜5級)。
◇全日本スキー選手権大会と国民体育大会スキー競技会が分離される。
◇第1回高等学校スキー選手権大会が水上で開催される。
◇『一般スキーテキスト』をSAJが発刊。特徴は、基礎回転からボーゲンとクリスチャニアヘの道。
◇国内初の固定循環式スキーリフトを、北海道天狗山に架設(安全索道)。
◇大原鉄工所が、国産実用車第1号の雪上車「吹雪号」を完成。量産に向けて動き出す(圧雪車は1970年頃)。
1954 昭和29年 ◇フランスからピエール・ギョー博士とアンリ・オレイエが来日し、全国10カ所で指導を行なう。(旧・日本国有鉄道が招聘)
 オレイエは、1948第5回冬季五輪・新複合の金メダリスト。
◇世界スキー選手権大会アルペン競技に、日本から戦後初めて参加する。
1955 昭和30年 ◇第3回インタースキーが、フランスのパルデイゼールで開催される(参加13カ国)。国際委員会制定。
◇ インタースキーに日本からSAJが初参加(片桐 匡、橋本茂生)。

透明スペーサー
◇1955年代 クナイスル・ホワイトスターは6万円。大卒初任給8.700円の6.9ヶ月分、高卒初任給5.900円の10ヶ月分。高卒年収分に近い高額商品であっても、当時の憧れのスキーであった。
1956 昭和31年 ◇第7回冬季オリンピック、コルチナ・ダンペッツオ(伊)大会開催。トニー・ザイラー(オーストリア)がアルペンの三冠王となる。
 日本からは7名参加(日本選手団スキー監督は野崎 彊)。一時は片足反則かと騒がれたが、猪谷千春がスラロームで2位に入り、日本初のスキー・メダリストが誕生する。
 滑降・男子 1トニー・ザイラー(AUT) 2レイモント・フェレイ(SUI) 3アンドレアス・モルテラー(AUT)
 回転・男子 1トニー・ザイラー(AUT) 2猪谷 千春 3スティグ・ソランデル(SWE) 33杉山 進
 大回転・男子 1トニー・ザイラー(AUT) 2アンドレアス・モルテラー(AUT) 3ヴァルター・シュスター(AUT)
◇全日本スキー選手権大会のアルペン競技が、滑降・回転・大回転の3種目となる 。
◇日本のスキー人口は600万、または700万人とも。
1957 昭和32年 ◇第4回インタースキーがスウェーデンのストルリーンで開催される(参加14カ国)。ノルディックの提唱と自然の出会いを協調。ドイツが身障者のスキーを発表。アルペン・デモでは、バインシュピールとローテーション技術の評価。国際スキー指導者部会発足。
◇トニー・ザイラー(オーストリア・1956第7回冬季五輪3冠王)が日本に立ち寄る。
◇福岡孝行訳による『オーストリア・スキー教程」日本語版発刊。
◇4月 カザマスキー製作所、火災により工場・倉庫・住宅など焼失。
1958 昭和33年 ◇世界スキー選手権バドガスタイン大会で猪谷千春、スラローム3位。
◇全日本スキー選手権大会、富井初子がアルペン史上初の三冠王(1961年に2度目を)
◇アールベルグスキー学校長兼、オーストリア職業教師連盟会長ルデイ・マットが来日。各地で講習会を開催。
◇S.A.J.傷害防止対策委員会を設置する。
◇ほぼそれと同時期に、クナイスルがグラスファィバー・スキーを開発。同じ年に、スキーの軽量化をはかるために、中の芯材をくり抜いた空洞スキーも生まれている。
 日本でのグラススキーの誕生は、それに遅れること2年である。
  グラススキー誕生は同じKneissel社によってだが、1960年説もある。(『Reference.com/Encyclopedia/Ski』(英文→2015リンク切れ)
◇世界初の屋内スキー場は、1958年(昭和33年)11月23日 に開設された、豊島園インドアスキー場(東京都)である。
◇スキーに関する日本工業規格JIS S7007(アルペンスキー)が制定される。
◇長野県八方尾根に、東京急行(株)が地元の要請を受け白馬観光(株)を設立して、麓から兎平までケーブルを、兎平など上部にはリフトを架設した。
1959 昭和34年 ◇『S.A.J.スキーテキスト」発刊。柴田信一、三浦敬三他。バインシュピール技術を採用。
◇スキーブーム始まり。神風スキーヤーも登場。
◇俳優・加山雄三 1959 昭和34年 山形・国体GSL74位
1960 昭和35年 ◇第8回冬季オリンピック、スコーバレー(アメリカ)大会開催。
 ジャン・ビュアルネ(仏)は最初のメタルスキーを使用して滑降の金メダル、ギィ・ペリラはコンビ(仏)で優勝。
 クローチングスタイル、卵形の姿勢が世界で初めて公開され、「ビュアルネの卵」としてスキー界を揺るがした。
 日本チームの一員として、当HP管理人の兄貴分である見谷昌禧さんも参加のハズ。
◇ルデイ・マットがSAJに招かれ、技術員研修会を実施する。
◇俳優・加山雄三 1960 昭和35年 長野・国体GSL65位
1961 昭和36年 ◇全日本スキー選手権大会、アルペンの富井初子が2度目の三冠王(初は1958)
◇SAJがスキー大学制度設定。
◇夜行日帰りスキーバス登場
◇俳優・加山雄三の母・女優・小桜葉子(1961 昭和36年 長野・全日本スキー選手権 女子GS29位、SL25)
1962 昭和37年 ブルーガイドスキー創刊号Ski'63〜50周年号 ◇第6回インタースキーがイタリアのモンテボンドーネで開催(参加19カ国)。バインシュピール技術が定着、比較デモ各国5名で競演。
 SAJから柴田信一、中沢 清、西山実幾、大熊勝朗の4名が参加。
◇SAJ『スキー教程」改訂。大熊勝朗、岡沢吉夫、小島弘平他。
12月18日、白馬 岩岳スキースクール設立(SAJ)。(知人が多いので紹介)
透明スペーサー
◇Ski'63(ブルーガイドスキー)-- 実業之日本社 1962.10.15に1創刊号。
 2012 vol2 12/8発売が、記念すべき50周年である。この間に238冊を刊行(年平均4.76冊)。現存するスキー誌の中でもっとも古い雑誌である。
透明スペーサー
 ちなみに月刊スキージャーナルは1966年創刊。
 Skier(山と渓谷社)の創刊は1970年代である。1970〜76の間である。
 月刊『スキーグラフィック』は1978年(昭和53年)に創刊。
1963 昭和38年 ◇シュテフアン・クルッケンハウザー教授(オーストリア国立スキー学校長、国際スキー教育会議議長、「オーストリア・スキー教程』著者。1988.10.01 永眠。享年82歳)が、名手フランツ・フルトナー他2名と共に初来日する。玉川学園と成城学園が共同で招聘。
(玉川学園は、1930年にはハンネス・シュナイダー(Hannes Schneider)を招聘、とスキー界への功績が大きい。)
◇この頃、皮の上にプラスチックをラミネートした靴が登場。
 防水性、硬さ、耐久性、天然材には難しい材質の均一性などが、プラスチック材の特徴である。更に色も黒一色だったものが、カラフルになり、しかもその色が鮮やかで、ファッション性からも、若者や女性に積極的に歓迎されていったのは当然である。
◇スキー民宿ブーム。
1964 昭和39年 ◇第9回冬季オリンピック、インスブルック(オーストリア)大会開催。36カ国1,414名が参加。日本からは20名。
 (当HP管理人 注: ゴワシェル姉妹がSL GS共に金銀。男子GSはFrancois Bonlieuが金、DHは Leo Lacroixが銀。墺太利での開催だが、フランス勢大活躍の大会。)
◇第1回S.A.J.デモンストレーター選考会を兼ねて、第7回インタースキー派遣デモンストレーター選考会が開催される。
 (前年に第1次選考会・山形県蔵王温泉で20名と、)1月に第2次選考会・青森県大鰐温泉で12名。計32名によって4月2日から4日間、八方尾根で第1回デモ選、18名を選出。
 土方注(2016.2):SAJ公式サイト内では、第1回Sデモ選会場は「(福島県・五色沼)」とあるが、これはほぼ間違いである。
◇三浦雄一郎さんが、イタリア・キロメーターランセに日本人として初めて参加し、時速172.084kmの世界新記録樹立。
1965 昭和40年 ◇第7回インタースキーが、オーストリアのバドガンスタインで開催される(参加22カ国)。名実とも世界会議となる。スキーの全領域を包括する機構となる。
 初めてSAJデモンストレーター5名を派遣。日本からは計10名が参加する。
 日本代表デモンストレーターは平沢文雄、宮沢英雄(新潟県)、北沢宏明、丸山庄司(長野県)、斉藤城樹(群馬県)。中川 新、インタースキー理事となる。
◇S.A.J.が国際スキー教育連盟(インタースキー)加盟。
1966 昭和41年 ◇第26回ノルディック世界選手権大会(ノルウェー・オスロ)で、ジャンプの藤沢隆が90m級で銀メダル獲得(ノルディック初のメダル獲得)
(◇1966年8月11日、スキー・ワールドカップの誕生宣言。(ポルチーヨの第19回アルペンスキー世界選手権会場が、WC発起の土台になった))
◇月刊スキージャーナルは1966年創刊。
 ちなみにSki'63(ブルーガイドスキー)-- 実業之日本社 1962.10.15に1創刊号。
 Skier(山と渓谷社)の創刊は1970年代である。1970〜76の間である。
 月刊『スキーグラフィック』は1978年(昭和53年)に創刊。
1967 昭和42年 シュテフアン・クルッケンハウザー教授 ◇丸山仁也が、全日本スキー選手権大会でアルペン男子初の三冠王
◇シュテフアン・クルッケンハウザー教授一行4名が来日し、特別研修会を実施する。
 滑り手は、名手フランツ・フルトナー、若手バルトル・ノイマイヤー、シュバイツエン・バッハー?の3名。
名手フランツ・フルトナー岳温泉  (福島県岳温泉スキー場で行われた、同・指導員講習会?に、指導員ではない当HP管理人がもぐり込み、受講する)
S42秋、磐梯プロスキースクール設立。
 (その後、磐梯チロリアSS、チロリアSS、磐梯ひじかたスキースクールと出世魚?の如く改名し、今日に至る。)
1968 昭和43年 ◇第10回冬季オリンピック(フランス・グルノーブル)に、初めて女子選手の代表が出場。大杖美保子(アルペン)、加藤富士子(クロスカントリー)を派遣
◇第8回インタースキーがアスペン(アメリカ)で開催される(参加18カ国、日本からは30名)。バインシュピール技術が常識となり、「世界のスキーはひとつ」という標語が生れる。
◇ 「世界のスキー・アスペンからの報告書」を、志賀仁郎が冬樹社(現スキージャーナル)より出版。
◇SAJ南波初太郎、インタースキー理事となる。
◇任意団体として、日本職業スキー教師連盟(SIA)発足。
1969 昭和44年 SAJ伊藤義郎、F.I.S.理事となる。
1970 昭和45年 ムーンブーツ ◇第28回ノルディック世界選手権(チェコ・ビソケタトリ)、70m級ジャンプで笠谷幸生が銀メダル獲得
透明スペーサー
◇イタリアのテクニカ(TECNICA)がムーンブーツを発売。その後30年で2.000万足販売したという超ロングセラー。
 1969年にアポロ11号が月面着陸した際、宇宙飛行士がはいていた機能的 なオーバーシューズから誕生。最近(2005)では、極寒のNYで足元から寒さを防ぐスノーブーツとして、マーク・ジェイコブスやエミリオ・プッチなど有名ブランドからも発売されている。
◇大原鉄工所がスイスのメーカーと技術掟携し、国産第1号のゲレンデ整備車(圧雪車)「大原ラトラック」を完成。1972年の札幌オリンピックで7台が採用され、それ以降ゲレンデ整備が普及する。このことから第1号車の誕生は1972年に近く、かつそれ以前ということになる。
 2003年春の時点でゲレンデ整備車は、国内ではおよそ1500台が稼働している。
 単なる走行だけの雪上車は、国産実用車第1号「吹雪号」が1952年に誕生。
透明スペーサー

透明スペーサー
1970年、ウッドレス・スキーの登場。クナイスル(Kneissl オーストリア)とロシニョール(Rossignol フランス)は、スキーの木製コアを低密度の気泡フォームでできたコア(ポリウレタン)に置き換えることで革新。
1971 昭和46年 ◇プレ・オリンピック大会開催(札幌)。23ヶ国が参加
天野 誠一
天野 誠一
◇第9回インタースキーが、ガルミツシュ・パルテンキルへン(西ドイツ)で開催される(参加21カ国)。抱えこみ・送り出し技術が各国から発表された。
 西ドイツ=シュロイダー技術、フランス=アパルマン、オーストリア=ぺ−レン、スイス=OKテクニック、
 イタリア=セルぺンティーナ・スプリント、日本=CD型ターンを発表。
◇SAJ天野誠一、インタースキー理事となる。(後にSIA4代目会長1981〜96 2006/8/25没、享年89歳)
◇SIAから初めて代表者派遣。
1972 昭和47年 ◇第11回冬季オリンピック、札幌大会開催。35か国参加
 (当HP管理人 注: アルペン優勝候補カール・シュランツ(オーストリー)が、アマ・プロ問題で五輪から追放。但し1989年IOCが過去の非を認め復権 (えん罪?による追放と名誉回復))
 (当HP管理人 注: アルペンスキー界1970年代の10年間はアンネマリー・ブレル大活躍の時代。WC通算62勝は約30年後も女子歴代1位。)
 70m級ジャンプは、1位笠谷幸生、2位金野昭次、3位青地清二、と3位まで独占。複合5位勝呂祐司。
  (青地清二氏、2008/ 8/14死去、66歳)
◇『オーストリア・スキー教程」日本語版が出版される。
1973 昭和48年 ◇日本で最初のワールドカップレース、苗場大会開催。
 柏木正義の回転10位、日本人初のワールドカップ獲得ポイント。
◇ゴンドラと呼ばれる単線自動循環式普通索道は、実質的に国内第一号が五竜テレキャビンとして登場。

丸ボタン スキー用具用品・写真カタログ集 '73シーズン 

1975 昭和50年 ◇ワールド・カップ苗場大会2度目の開催。海和俊宏がワールドカップ初出場で回転13位。
◇「新オーストリア・スキー教程」日本語版が出版される。
◇イタリアチームの来日を機に、第1回SIAフェスティバル'75開催(万座温泉)。
◇第10回インタースキーがチェコスロパキアのビソケタトりで開催(参加24カ国)。日本からは80名(代表デモンストレーター10名)が参加。福岡孝純、国際スキー指導者部会および国際学校スキー研究部会の委員となる。
 あらゆる面でスキーの転換期であることが認識された。ノルディック・スキーの良さが言われた。フリースタイルスキー、子どものスキーの指導法論に注目。
◇ 次の第11回の日本開催が決定。
1976 昭和51年 ◇第12回冬季オリンピック、インスブルック(オーストリア)大会開催。日本からは23名参加。
 (当HP管理人 注: アルペンスキー界1970年代半ばからの15年間はインゲマル・ステンマルクの時代。WC通算86勝、引退20年後でも男子歴代1位)
◇キッツビューエル(AUT)のワールドカップSL第5戦で、市村政美が7位入賞
◇(独立200周年記念)'76アメリカ・ナショナルスキー会議に、日本代表としてSIA見谷昌禧と当HP管理人(土方あきら)が参加。
1977 昭和52年 ◇ワールドカップ富良野大会開催。
◇海和俊宏がワールドカップ、サンアントン(オーストリー)で7位 → この大会で日本人初の第1シード入りを果たす。
◇高鳥 修(後に国務大臣を務める)、インタースキー理事となる。
◇SIAで初めての教程本「オフィシャル・スキーメソッド」(報知新聞)が出版。当HP管理人も共同執筆の一人。

丸ボタン '77シーズンの用具の傾向・話題

1978 昭和53年 ◇1978年(昭和53年)月刊『スキーグラフィック』創刊
 ちなみに月刊スキージャーナルは1966年創刊。
 Skier(山と渓谷社)の創刊は1970年代である。1970〜76の間である。
 スキーの総合雑誌Ski(実業之日本社)は1962.10.15に創刊号Ski'63が生まれ、現存するスキー誌の中でもっとも古い雑誌である。
(◇インゲマル・ステンマルク(Ingemar Stenmark、スウェーデン )がワールドカップ総合優勝。不出生の天才スラローマー。)
◇海和俊宏、ワールドカップ、オーバーシュタッヘン大会(西ドイツ)スラローム5位。
 しかも新スキーが合わず前年のスキー使用という凄さ)。世界選手権(西ドイツ、ガルミッシュ)7位と活躍するが、夏のオーストリーで練習中にアキレス腱切断。
◇第25回アルペンスキー世界選手権は西ドイツのガルミッシュ=パルテンキルヘンで開催。男女の滑降、大回転、回転、アルペン複合の計8種目が実施された。
 海和俊宏が回転で入賞目前の7位。
 土方注(2016.2):SAJ公式サイト内では、海和7位の会場は「スイス・サンモリッツ」とあるが、これは間違いである。

スキー用具用品・写真カタログ集 丸ボタン '78シーズン 

1979 昭和54年 ◇第11回インタースキーが、1月28日〜2月4日で日本の蔵王で開催される(参加23カ国、3,024名)。
 内日本2,250名、日本代表デモンストレーターは30名。
 当HP管理人も、日本役員を務める。

    topページへジャンプへ   参考資料へ   スキーの歴史menuへ   スキー学校と教師のお部屋へ   SKIスキーのいろいろページ

日本のスキーの歴史 ごく現代スキーの隆盛 − スポーツ・ビジネスとしての時代1980〜

Part-2(〜1896)  Part-3(〜1944)  Part-4(〜1979)  Part-5(1980〜)  Part-6(2000〜)

1980 昭和55年 ◇第13回冬季オリンピック、レイク・ブラシツド(アメリカ)大会開催。
 70m級ジャンプ、2位八木弘和、4位秋元正博。
 滑降・男子 1ストック(AUT)  2ビルンスバーガー(AUT) 3ポトボルスキー(CAN) 21片桐幹雄
 滑降・女子 1モザー・プレル(AUT)  2ウェンツェル(LIE)  3ナディヒ(SUI) 
 回転・男子 1ステンマルク(SWE) 2P・マーレ(米) 3ルシー(SUI) 15沢田 敦
 回転・女子 1ウェンツェル(LIE) 2キンスホファー(西独) 3ヘス(SUI)
 大回転・男子 1ステンマルク(SWE) 2ウェンツェル(LIE) 3エン(AUT) 29海和俊宏 36沢田 敦
 大回転・女子 1ウェンツェル(LIE) 2I・エプレ(西独) 3ペラン(仏)
◇日本初のジャンプ・ワールド・カップ大会、札幌で開催される。八木弘和が日本選手初のワールドカップ優勝
◇全日本基礎スキー選手権大会とデモンストレーター選考会を分離
 第17回全日本基礎スキー選手権大会(大和ルスツ)

丸ボタン '80シーズンの用具の傾向・話題

1981 昭和56年
スキーの歴史・福岡 孝行さん
福岡 孝行
◇第1回全日本フリースタイル選手権大会開催(志賀サンバレー)。
◇文部省所管の社団法人として、日本職業スキー教師協会(SIA)が設立認可。
◇多数のスキー本の翻訳などによって、近代スキーの幕開けに貢献した福岡孝行が永眠(1913-1981 享年68歳?)
慰霊碑・福岡 孝行さんへ)
◇SIAより改訂版の教程本「オフィシャル・スキーメソッド」(報知新聞)が出版。当HP管理人も共同執筆の一人。
透明スペーサー
◇サロモンがスキーブーツの発売開始。即ちリアエントリータイプが元気に誕生の年かと思う。
(実際には、リアエントリーについては、1969年、イタリアの会社Garmontは、特許を取得。1970年後半、日本企業のホープは、提供(offered )し、リアエントリーの原則が定義された。 1977年以前に、ハンソンはさらに発展さた。)
透明スペーサー
 その後大半のメーカーが後追いで力を入れ、一大ブームになったのは4年後から。
 しかし'00シーズン頃?には、気がついたらリアエントリーは全く姿を消してしまっていた。それなり長所はあったのだから、改良を続けて一部に残すべき商品であったと私は思う。無責任なメーカーの姿勢を問いたい。
透明スペーサー
 詳しくはリアエントリーの誕生
1982 昭和57年 ◇I.O.C委員に猪谷千春就任。
◇スキーに関する日本工業規格JIS S7019(スキー試験方法)が制定される。
1983 昭和58年 ◇ワールドカップ・ノルディックコンバインド日本大会初開催(札幌)。
◇第12回インタースキー、セスト(伊)で開催(参加25カ国)。日本からは13名の代表デモンス卜レーターが参加。
1984 昭和59年 ◇第14回冬季オリンピック、サラエボ(ユーゴスラビア)大会開催。
 滑降・男子 1ジョンソン(米) 2ミュラー(SUI) 3シュタイナー(AUT) 28千葉信哉
 滑降・女子 1フィジーニ(SUI) 2バリザー(SUI) 3ハルバトバ(TCH)
 回転・男子 1P・メーア(米) 2S・メーア(米) 3ブーべ(仏) 12海和俊宏
 回転・女子 1マゴニ(伊) 2ペラン(仏) 3コンツェット(LIE)
 大回転・男子 1ユーレン(SUI) 2フランコ(YUG) 3ウェンツェル(LIE) 25岩谷高峰 26海和俊宏 27児玉 修 30千葉信哉
 大回転・女子 1アームストロング(米) 2クーパー(米) 3ペラン(仏)
◇S.A.J.会長・伴 素彦、オリンピック・オーダー銀賞(功労賞)を受賞する。
◇初の国際スキーパトロール大会開催(長野県・車山高原)
1985 昭和60年 ◇第36回ノルディック世界選手権大会(オーストリア・ゼーフェルド)開催。ジャンプ団体で日本が6位入賞(渡瀬弥太郎・佐藤 晃・西方千春・秋元正博)。
 本大会から奇数年開催となりオリンピックと分離された。

丸ボタン スキー用具用品・写真カタログ集 '85シーズン 
丸ボタン '85シーズンの用具の傾向・話題

1986 昭和61年
猪谷 六合雄
猪谷六合雄
◇ジャンプ・ワールド・カップが札幌で開催される。
◇1月10日、日本スキー界のパイオニアであり、SIA2代目会長(1974〜78)猪谷六合雄(いがや・くにお)永眠。享年95歳〔群馬県〕。
慰霊碑・猪谷 六合雄さんへ)
1987 昭和62年 ◇第13回インタースキーがカナダのバンフで開催(参加25カ国)。
 F・ホピヒラー教授、インタースキー会長となる。
 SIAの代表デモンストレーターの一員として、当HP管理人の親友である大島清史、薄衣敏明も参加。
◇ワールドカップ最終戦SL(ボスニア・ヘルツェゴビナ/サラエボ)で、岡部哲也が日本人最高の4位入賞。2本目では、日本選手初のラップタイムを奪う
◇映画『私をスキーに連れてって』が公開され、スキーブームを後押し。
1988 昭和63年
シュテフアン・クルッケンハウザー教授
クルツケンハウザー
小川勝次(Saj三代会長)
小川勝次
(3代め会長)
◇第15回冬季オリンピック、カルガリー大会開催
 A・トンバ(伊)、大回転・スラロームの2冠王。
 この大会の特徴は、男女複合が復活し('36 '48以来)、新たにスーパー大回転が追加され全5種目となったこと。
 ちなみにスーパーG(またはSG)はアルペンスキー競技種目の中では最も歴史が浅く、種目としての誕生は不確かだが1980年代であろう。
透明スペーサー
 滑降・男子 1ツルブリッゲン(SUI) 2ミュラー(SUI) 3ピカール(仏) 11千葉信哉 34熊谷克仁
 滑降・女子 1キール(西独) 2エルトリ(SUI) 3パーシー(CAN) 14川端絵美 23山本さち子
 回転・男子 1トンバ(伊) 2ベルンドル(西独) 3フロンメルト(LIE) 12岡部哲也
 回転・女子 1シュナイダー(SUI) 2スウェート(YUG) 3ギュートライン(西独) 19川端絵美
 大回転・男子 1トンバ(伊) 2シュトロルツ(AUT) 3ツルブリッゲン(SUI) 31岡部哲也 31石岡千秋
 大回転・女子 1シュナイダー(SUI) 2ギュートライン(西独) 3バリザー(SUI)
 スーパー大回転・男子 1ピカール(仏) 2マイヤー(AUT) 3エリクソン(SWE) 14千葉信哉
 スーパー大回転・女子 1ボルフ(AUT) 2フィジーニ(SUI) 3パーシー(CAN) 29川端絵美 30山本さち子
 複合・男子 1シュトロルツ(AUT) 2グシュトライン(AUT) 3アコラ(SUI)
 複合・女子 1バハター(AUT) 2エルトリ(SUI) 3バリザー(SUI) 21熊谷克仁 20山本さち子
◇アルペン・ワールドカップ(ノルウェー・オプタル)の回転種目で、岡部哲也がトンバと接戦の末2位入賞。日本選手初のアルペン・ワールドカップ表彰台に立つ。
◇全日本スキー選手権大会のアルペン女子で、川端絵美が史上初の4種目制覇(滑降2戦・スーパーG2戦・回転・大回転6戦すべて優勝)
◇1988. 4.22 毎日新聞と読売新聞に、『SIAはSAJの傘下に、、が決定』の誤報記事が掲載。
    (関心のある方は、勇気をふるい、今だから明かす SIAがSAJに吸収?事件顛末 をどうぞ)
◇1988.10.01 日本の現代スキーの恩人、シュテフアン・クルツケンハウザー教授(オーストリア)永眠。享年82歳
◇SAJ第3代会長・小川 勝次氏没、享年89歳
1989 昭和64年
  (平成1年)
木原 均(Saj四代会長)
木原 均
◇第30回アルペン世界選手権大会(アメリカ・ベイル)で、川端絵美が日本女子初の滑降5位入賞。
◇第38回ノルディック世界選手権大会(フィンランド・ラハティ)、15kmフリーで佐々木一成が入賞目前の7位と健闘。
◇SAJ第4代会長・木原 均氏没、92歳(1964冬季オリンピック団長)
◇リゾートブームでゴルフ場、スキー場の新設ラッシュ。アウトドア・レジャー人気始まる。
◇8月 長野県 猪谷記念館オープン(猪谷千春)
1990 平成2年 スキーの歴史・大熊 勝朗さん ◇長い間、日本のSAJスキー界の中心にいて、スキー界に大きな貢献を残した大熊 勝朗さん永眠。享年 不明。
◇国際スキー指導者連盟(I.V.S.I.)、志賀高原で開催。
◇I.V.S.I.理事会、志賀高原で開催(ミニ・インタースキー)。
◇アルペン・ワールドカップ(オーストリア・シュラドミング)で、岡部哲也(回転)が2度目の表彰台(3位)

丸ボタン スキー用具用品・写真カタログ集 '90シーズン 

1991 平成3年 ◇ノルディック世界選手権大会(イタリア/ヴァル・ディ・フィエンメ)で、ノルディック・コンバインド団体が初の銅メダルを獲得(阿部雅司・三ヶ田礼一・児玉和興)
◇1995年第15回インタースキーを、野沢温泉村で開催決定。
◇1998年第18回長野オリンピック開催を、決定。
◇日本のスキー市場:1991年280万(国産+輸入)
◇国内スキー・スケート・スノボ用品市場 1991年 4,290億円(4,500億円という別DATAも)、1995年 4,100億円、1998年 2,890億円、2004年 1,910億円
◇1991年にハガスキー倒産(負債22億円) 。 ◇(1991年頃) 世界中で1年間のスキー板販売数が約300万台。内200万台が日本で販売、という異常なスキーブーム。
カービングスキーの誕生年度は、1991年か、その少し前である。認知、普及はもう少し後になる。
 詳しくはカービングスキーの誕生年度
◇ ちなみに初めての「くびれ型スキー」の設計は、100年ほど前の人でソンドレ・ノールハイム(1825〜1897)。詳しくはソンドレ・ノールハイム
1992 平成4年 ◇第16回アルベールビル五輪(フランス)開催。
 ノルディック・コンバインド団体で、初の金メダルを獲得(三ヶ田礼一・河野孝典・荻原健司・阿部雅司)
 滑降・男子 1オルトリープ(AUT) 2ピカール(仏) 3マーダー(AUT) 25富井剛志
 滑降・女子 1リーガートナー(CAN) 2リンド(米) 3バーリンガー(AUT) 11川端絵美 26山本さち子
 回転・男子 1ヤッゲ(NOR) 2トンバ(伊) 3トリッチャー(AUT)
 回転・女子 1クロンベルガー(AUT) 2コバーガー(NZ) 3F・オチョア(ESP) 18岡部哲也
 大回転・男子 1トンバ(伊) 2ジラルデリ(RUK) 3オーモット(NOR) 21木村公宣 23石岡拓也
 大回転・女子 1ビーベリ(SWE) 2ロフェ(米) バハター(AUT) 3
 スーパー大回転・男子 1オーモット(NOR) 2ジラルデリ(RUK) 3卜ールセン(NOR) 38木村公宣 41石岡拓也
 スーパー大回転・女子 1コンパニョーニ(伊) 2メルル(仏) 3サイツィンガー(独) 31川端絵美 38山本さち子
 複合・男子 1ポリグ(伊) 2マルティン(伊) 3ロハー(SUI) 9石岡拓也 15木村公宣
 複合・女子 1クロンベルガー(AUT) 2バハター(AUT) 3マスナダ(仏) 13川端絵美
   ※ 第16回までは、夏季オリンピックと同年開催。第17回からは、夏季オリンピックの中間年に開催。
     なお1940、1944年は第二次世界大戦のため中止。
◇ISIA理事会及び環太平洋会議へ、SIA代表団派遣。
◇第22回ISIA国際会議開催。第25回SIA総合スキー会議(安比高原)において行う。
◇4月 新潟県 日本スキー発祥記念館開館(上越市)
1993 平成5年 ◇第40回ノルディック世界選手権大会(スウェーデン・ファールン)で、同一大会では初となる金メダル3個を獲得。NC荻原健司、NC団体(河野孝典・阿部雅司・荻原健司)、ジャンプ原田雅彦。荻原健司、ノルディック複合で個人・団体の2冠優勝。
◇アジア初の第32回アルペン世界選手権大会、岩手県・盛岡市雫石町で開催。
◇ワールドカップ・ノルディック・コンバインドの荻原健司が、日本選手初のWC総合優勝飾る。
◇アルペン・ワールドカップ(オーストリア・サンアントン)、滑降女子の川端絵美が3位で初の表彰台。
◇大型屋内スキー場・ザウスがオープン。(→営業不振より、2002/秋で閉鎖
◇世界のSki市場 1993年 610万台。
日本の市場:1991年280万(国産+輸入)
◇スキー人口 '93シーズン 1,860万人(レジャー白書) '05シーズン 750万人(レジャー白書)
1994 平成6年 ◇第17回リレハンメル五輪(ノルウェー)開催。
 コンバインド団体(荻原健司・河野孝典 ・阿部雅司)が金メダル。個人で河野孝典が銀メダル、ジャンプ団体(西方仁也・葛西紀明・岡部孝信・原田雅彦)銀メダルと大活躍。
◇同大会ジャンプ団体も、1980年以来となる銀メダルを獲得(西方仁也・葛西紀明・岡部孝信・原田雅彦)。
 滑降・男子 1モー(米) 2オーモット(NOR) 3ポディビンスキー(CAN)
 滑降・女子 1サイツィンガー(独) 2ストリート(米) 3コストナー(伊) 21川端絵美
 回転・男子 1シュタンガシンガー(AUT) 2トンバ(伊) 3コシール(Slo) 18木村公宣 19石岡拓也
 回転・女子 1シュナイダー(SUI) 2E・エーダー(AUT) 3コレン(Slo)
 大回転・男子 1バスマイヤー(独) 2ケーリン(SUI) 3マイヤー(AUT) 26木村公宣
 大回転・女子 1コンパニョーニ(伊) 2エルトル(独) 3シュナイダー(SUI)
 スーパー大回転・男子 1バスマイヤー(独) 2モー(米) 3オーモット(NOR) 33木村公宣
 スーパー大回転・女子 1ロフェスタインロッター(米) 2グラディシエワ(ロシア) 3コストナー(伊) 24川端絵美
 複合・男子 1チュース(NOR) 2オーモット(NOR) 3ストラントニールセン(NOR)
 複合・女子 1ビーベリ(SWE) 2シュナイダー(SUI) 3ドブザン(Slo) 17川端絵美
◇ノルディック・コンバインドの荻原健司が、ワールドカップ総合2連覇果たす。
◇クロスカントリーの佐々木一成が、全日本スキー選手権大会で歴代1位となる通算26勝を達成。
1995 平成7年 ◇第41回ノルディック世界選手権大会(カナダ・サンダーベイ)開催。
 ノルディック・コンバインド団体で金メダルを獲得。オリンピック、世界選手権大会で4連覇達成(阿部雅司・荻原次晴・荻原健司・河野孝典)。
 荻原健司・次晴の双子兄弟、ノルディック複合・団体戦で優勝。
◇同大会、ジャンプ・ノーマルヒルで岡部孝信が金メダル。斉藤浩哉は銀メダルを、団体でも銅メダルを獲得。(安崎直幹・斉藤浩哉・西方仁也・岡部孝信)。
◇ノルディック・コンバインドの荻原健司、ワールドカップ総合3連覇。
◇第15回インタースキー、長野県・野沢温泉村で開催。
10月、磐梯ひじかたスキースクール創立28周年記念、第1回め同窓会を開催。

丸ボタン スキー用具用品・写真カタログ集 '95シーズン 
丸ボタン '95シーズンの用具の傾向・話題

1996 平成8年
1997 平成9年 ◇第6回大会フリースタイル世界選手権大会(長野県飯綱高原スキー場)開催。
◇第18回長野オリンピックのプレ大会となるワールドカップ開催。クロスカントリーで、青木富美子(5qC)が日本選手最高となる5位入賞。
◇スキーに関する日本工業規格JIS S7028(アルペンスキー用のスキー・ビンディング・ブーツ(S-B-B)システムの組み立て、調整および検査方法)が制定される。
1998 平成10年 ◇第18回第18回長野オリンピック開催。
 日本チームがメダルラッシュ。ジャンプ・ラージヒル団体(岡部孝信・斉藤浩哉・原田雅彦・船木和喜)金メダル。=日本オリンピック史上100個目の金メダル(2月17日)
 ラージヒル船木・金メダル、原田・銅メダル。  ノーマルヒル船木・銀メダル。
 フリースタイル・女子モーグルで、里谷多英が金メダル。
   史上最多のメダルを獲得した。
 滑降・男子 1クレティエ(仏) 2チュース(NOR) 3トリンクル(AUT) 17富井剛志
 滑降・女子 1サイツィンガー(独) 2ピーベリ(SWE) 3マスナダ(仏)
 回転・男子 1ブロース(NOR) 2フールセット(NOR) 3シコラ(AUT) 13木村公宣 20平沢 岳 21石岡拓也
 回転・女子 1ゲルク(独) 2コンパニョーニ(伊) 3ステガル(AUT) 17池田和子 20山川純子 24柏木久美子
 大回転・男子 1マイヤー(AUT) 2エベルハーター(AUT) 3フォングリュニゲン(SUI) 25木村公宣29石岡拓也
 大回転・女子 1コンパニョーニ(伊) 2マイスニッツアー(AUT) 3サイツィンガー(独) 25池田和子 27柏木久美子 29山川純子
 スーパー大回転・男子 1マイヤー(AUT) 2キュシュ(SUI) 3クナウス(AUT) 24富井剛志 27滝下靖之
 スーパー大回転・女子 1ストリート(米) 2ドルフマイスター(AUT) 3マイスニッツアー(AUT) 36柏木久美子
 複合・男子 1ライター(AUT) 2チュース(NOR) 3マイヤー(AUT)
 複合・女子 1サイツィンガー(独) 2エルトル(独) 3ゲルク(独) 16山川純子
ワールドカップヴェイソンナ(SUI)で木村公宣が3位。
◇SIA創立30周年。その記念行事に合わせて、ISIA理事会を東京で開催。
1999 平成11年 ◇第43回ノルディック世界選手権大会(オーストリア・ラムソウ)開催。ジャンプ(ノーマルヒル)で、札幌オリンピック以来2度目の表彰台独占を達成(金:船木和喜、銀:宮平秀治、銅:原田雅彦)。
◇宮平秀治は、同大会で出場した3種目でメダル獲得(ノーマルヒル:銀、団体:銀、ラージヒル:銅)。
◇ノルウェー開催のインタースキーバイトストーレン大会へ代表団派遣。

    topページへジャンプへ   参考資料へ   スキーの歴史menuへ   スキー学校と教師のお部屋へ   SKIスキーのいろいろページ

日本のスキーの歴史 ごく現代スキーの隆盛 − スポーツ・ビジネスとしての時代2000〜

Part-2(〜1896)  Part-3(〜1944)  Part-4(〜1979)  Part-5(1980〜)  Part-6(2000〜)

2000 平成12年 11/12、磐梯ひじかたスキースクール創立33周年記念、第2回め同窓会を開催。
2001 平成13年 ◇第8回大会フリースタイル世界選手権大会(カナダ/ウィスラー・ブラッコム)で、モーグルの上村愛子が同種目日本人初となるメダルを獲得(銅メダル)。
2002 平成14年 ◇第19回ソルトレークシティー(アメリカ)・オリンピック開催。77カ国 2,531名参加、日本からは109名。
◇第19回冬季オリンピック(アメリカ・ソルトレーク)。フリースタイル・モーグルの里谷多英が、オリンピック2大会連続メダル獲得(銅メダル)果たす。
◇同大会クロスカントリー男子(50kmクラシカル)で、今井博幸が史上最高の6位入賞(男子2大会連続入賞)。
 滑降・男子 1STROBL, Fritz(AUT) 2KJUS, Lasse(NOR) 3EBERHARTER, Stephan(AUT) 42滝下靖之
 滑降・女子 1MONTILLET, Carole(FRA) 2KOSTNER, Isolde(ITA) 3GOETSCHL, Renate(AUT)
 回転・男子 1VIDAL, Jean-Pierre(FRA) 2AMIEZ, Sebastien(FRA) 3BAXTER, Alain(GER) 19木村公宣
 回転・女子 1KOSTELIC, Janica(CRO) 2PEQUEGNOT, Laure(FRA) 3PAERSON, Anja(SWE) 14廣井法代 16柏木久美子
 大回転・男子 1EBERHARTER, Stephan(AUT) 2MILLER, Bode(USA) 3KJUS, Lasse(NOR) 34佐々木明37 木村公宣
 大回転・女子 1KOSTELIC, Janica(CRO) 2PAERSON, Anja(SWE) 3NEF, Sonja(SUI) 29広井法代 35柏木久美子
 スーパー大回転・男子 1AAMODT, Kjetil Andre(NOR) 2EBERHARTER, Stephan(AUT) 3SCHIFFERER, Andreas(AUT)
 スーパー大回転・女子 1CECCARELLI, Daniela(ITA) 2KOSTELIC, Janica(CRO) 3PUTZER, Karen(ITA)
 複合・男子 1AAMODT, Kjetil Andre(NOR) 2MILLER, Bode(USA) 3RAICH, Benjamin(AUT)
 複合・女子 1KOSTELIC, Janica(CRO) 2GOETSCHL, Renate(AUT) 3ERTL, Martina(GER)
 フリースタイル・モーグル・女子 1TRAA, Kari(NOR) 2BAHRKE, Shannon(USA) 3里谷 多英 6上村愛子 20畑中 みゆき
 ノルディック複合・個人 1LAJUNEN, Samppa(FIN) 2TALLUS, Jaakko(FIN) 3GOTTWALD, Felix(AUT)
                 11荻原健司 12高橋大斗 30森 敏 33富井 彦
 ジャンプ・ノーマルヒル 1AMMANN, Simon(SUI) 2HANNAWALD, Sven(GER) 3MALYSZ, Adam(POL)
                 9船木和善 20原田雅彦 33山田大起 49葛西紀明
 ジャンプ・ラージヒル 1AMMANN, Simon(SUI) 2MALYSZ, Adam(POL) 3HAUTAMAEKI, Matti(FIN)
                 7 船木和善 20原田雅彦 24宮平秀治 41葛西紀明
スキーの歴史・藤巻 文司さん スキーの歴史・野崎 彊(つとむ)さん
藤巻文司 野崎 彊
◇「キング・オブ・スキー」の荻原健司(1969年12月20日生まれ)が引退。スキー・ノルディック複合(コンバインド)で'93 '94 '95と連覇し、世界初の個人総合3連覇を達成など。
◇大型屋内スキー場・ザウスが営業不振より、2002/秋で閉鎖。(→オープンは1993 平成 5年)

◇近代スキーのパイオニアの一人、燕温泉の藤巻文司氏が平成14年 9月24日永眠。享年87才。
◇野崎 彊(つとむ)永眠(2002年8月7日。享年86才)
  昭和24年(1949年)から昭和46年(1971年)まで全日本学生スキー連盟理事。
  猪谷千春選手が銀メダルを採った1956年第7回冬季五輪(コルチナダンペッツオ)、日本選手団スキー監督。
  全日本スキー連盟専務理事として日本スキー界に大きな貢献を残した。
2002 平成14年 ◇第19回ソルトレークシティー(アメリカ)・オリンピック開催。77カ国 2,531名参加、日本からは109名。
◇第19回冬季オリンピック(アメリカ・ソルトレーク)。フリースタイル・モーグルの里谷多英が、オリンピック2大会連続メダル獲得(銅メダル)果たす。
◇同大会クロスカントリー男子(50kmクラシカル)で、今井博幸が史上最高の6位入賞(男子2大会連続入賞)。
 滑降・男子 1STROBL, Fritz(AUT) 2KJUS, Lasse(NOR) 3EBERHARTER, Stephan(AUT) 42滝下靖之
 滑降・女子 1MONTILLET, Carole(FRA) 2KOSTNER, Isolde(ITA) 3GOETSCHL, Renate(AUT)
 回転・男子 1VIDAL, Jean-Pierre(FRA) 2AMIEZ, Sebastien(FRA) 3BAXTER, Alain(GER) 19木村公宣
 回転・女子 1KOSTELIC, Janica(CRO) 2PEQUEGNOT, Laure(FRA) 3PAERSON, Anja(SWE) 14廣井法代 16柏木久美子
 大回転・男子 1EBERHARTER, Stephan(AUT) 2MILLER, Bode(USA) 3KJUS, Lasse(NOR) 34佐々木明37 木村公宣
 大回転・女子 1KOSTELIC, Janica(CRO) 2PAERSON, Anja(SWE) 3NEF, Sonja(SUI) 29広井法代 35柏木久美子
 スーパー大回転・男子 1AAMODT, Kjetil Andre(NOR) 2EBERHARTER, Stephan(AUT) 3SCHIFFERER, Andreas(AUT)
 スーパー大回転・女子 1CECCARELLI, Daniela(ITA) 2KOSTELIC, Janica(CRO) 3PUTZER, Karen(ITA)
 複合・男子 1AAMODT, Kjetil Andre(NOR) 2MILLER, Bode(USA) 3RAICH, Benjamin(AUT)
 複合・女子 1KOSTELIC, Janica(CRO) 2GOETSCHL, Renate(AUT) 3ERTL, Martina(GER)
 フリースタイル・モーグル・女子 1TRAA, Kari(NOR) 2BAHRKE, Shannon(USA) 3里谷 多英 6上村愛子 20畑中 みゆき
 ノルディック複合・個人 1LAJUNEN, Samppa(FIN) 2TALLUS, Jaakko(FIN) 3GOTTWALD, Felix(AUT)
                 11荻原健司 12高橋大斗 30森 敏 33富井 彦
 ジャンプ・ノーマルヒル 1AMMANN, Simon(SUI) 2HANNAWALD, Sven(GER) 3MALYSZ, Adam(POL)
                 9船木和善 20原田雅彦 33山田大起 49葛西紀明
 ジャンプ・ラージヒル 1AMMANN, Simon(SUI) 2MALYSZ, Adam(POL) 3HAUTAMAEKI, Matti(FIN)
                 7 船木和善 20原田雅彦 24宮平秀治 41葛西紀明
◇「キング・オブ・スキー」の荻原健司(1969年12月20日生まれ)が引退。スキー・ノルディック複合(コンバインド)で'93 '94 '95と連覇し、世界初の個人総合3連覇を達成など。
2003 平成17年 スキーの歴史・片桐 匡(ただし)さん1972年 ◇1月12日を「スキーの日」に制定(関連6団体)。
◇アルペン・ワールドカップ(スイス・ヴェンゲン)で佐々木 明がゼッケン65番スタートから2位入賞。ラップタイムに0.04差はこれまでの最少差。
◇フリースタイル・ワールドカップ(アメリカ・ディアバレー)で、モーグルの上村愛子が初優勝。
◇片桐 匡(ただし)(2003年11月15日永眠。享年83歳)
 1943年 第21回全日本スキー選手権 回転 優勝、元全日本スキー連盟副会長、指導者として数多くの選手を育ててきた。
2004 平成16年 ◇スノーボード・ワールドカップの女子ハーフパイプ(イタリア・トリノ)で、山岡聡子が女子初となるハーフパイプ種目別総合優勝。
◇フリースタイル・ワールドカップ(イタリア・トリノ)で、瀧澤宏臣がスキークロス総合優勝。
◇三浦敬三、100歳でバレーブランシュ滑降を予定(2003/ 6現在での予定)。ぜひお元気で、成功をして欲しいものです。
◇磐梯ひじかたスキースクールは、前年夏から3代目校長・田端 敦の新体制でスタート。
2005 平成17年 ◇スノーボード・ワールドカップ女子ハーフパイプ、成田夢露がハーフパイプ種目別総合優勝。
西村 一良
西村 一良
◇SIA初代会長(1968〜1973年)でもある西村一良さんが、2005/平成17年10月 8日永眠。享年98歳。
 日本のプロスキーヤー第1号であり、西沢スキーやデサント(ウエア)、バイソンスキー靴の商品開発顧問契約し、通称・西村厩舎として大杖正彦を初め多数の選手をサポート。デサントの社名と矢印のロゴは、氏のデザインによるもの。
慰霊碑・西村一良さんへ)
2006 平成18年
三浦 敬三 天野 誠一
三浦 敬三 天野 誠一
◇第20回トリノ(伊)・オリンピック(2006年2月10日〜2月26日)。
 アルペンスキーSL(回転)で、皆川 賢太郎4位入賞(3位と0.03秒差)、湯浅直樹7位。猪谷千春の銀メダル以来50年ぶりの入賞
 同大会で初採用のスノーボードクロスで、藤森由香が7位入賞。
 スピードスケート男子で及川 佑、女子で岡崎朋美が、それぞれ500mで4位に入った。
◇スキー界の巨星・三浦敬三さん 2006/平成18年1月5日永眠。享年101歳。
 100歳までは現役スキーヤーとして活動。SIAでは名誉顧問。スキー用具、テクニックの研究家としてHP管理人(土方)の恩師であり、心から尊敬する純粋な方でした。
慰霊碑・三浦 敬三さんへ)
◇天野誠一さん 2006年 8月25日永眠、享年89歳。
 SAJ在任中、教育関係を中心に、札幌オリンピック特別強化委員などなど。その後SIA第4代会長(1981年〜1996年)。スキー教師の育成、スキーの安全対策などにも貢献。当HP管理人が心から尊敬する方でした。
慰霊碑・天野 誠一さんへ)
2007 平成19年 ◇第7回スノーボード世界選手権大会(スイス・アローザ)ハーフパイプ。國母和宏、山岡聡子が、ともにスノーボード史上初となる銀メダルを獲得。
◇第47回ノルディック世界選手権大会(札幌)で、ジャンプ団体銅メダル獲得(栃本翔平・岡部孝信・伊東大貴・葛西紀明)。
◇50年ぶりか、それ以上の世界的な大暖冬。
 例えば2006/07ワールドカップは、33会場中、雪不足による中止があったのは8会場も。シーズン真っ盛りの1月26日〜28日、豪雪地のキッツビューエル(オーストリア)会場では、男子SLを除く全種目が中止というほど。日本国内も同様。
【スキーコンプ】(競技スキー専門誌)が倒産。2007-2月号で終了。(アルペン)競技スキー専門誌という唯一の存在だったので、残念である。
  同誌の初期段階では、名前だけですが、私(土方)も顧問?でした。
2008 平成20年
◇フリースタイル・ワールドカップで、5勝を挙げた上村愛子が初のモーグル総合優勝。
◇クロスカントリー・ワールドカップ(スウェーデン・ストックホルム)の女子スプリントで、夏見 円が日本選手初の表彰台(3位)。
 磐梯ひじかたスキースクールが、1967(昭和42)年秋に猪苗代で誕生してから41年を迎える。感謝あるのみ
2009 平成12年 ◇ノルディック世界選手権大会(チェコ・リベレツ)で、ノルディック・コンバインド団体金メダル(小林範仁・加藤大平・渡部暁斗・湊 祐介)。
◇同大会でジャンプ女子初採用。最高位は渡瀬あゆみの10位。
◇同大会でジャンプ団体、2大会連続銅メダル(栃本翔平、岡部孝信、伊東大貴、葛西紀明)。
◇同大会のクロスカントリー女子チームスプリントで、夏見 円・石田正子組が同種目史上最高となる4位入賞。
◇フリースタイル世界選手権大会(福島県・猪苗代町)開催。
 上村愛子がモーグル・デュアルモーグルの2種目を制す。西 伸幸と伊藤みきも銀メダルを獲得。フリースタイルで初の4個のメダルを獲得。
◇第8回スノーボード世界選手権大会(韓国・カンウォン)で、男子ハーフパイプの青野 令が同種目初の金メダル獲得。
2010 平成22年 ◇第21回冬季オリンピック(カナダ・バンクーバー)クロスカントリー。女子初入賞となるリレー8位(夏見 円・石田正子・福田修子・柏原理子)。
2011 平成23年
ブルーガイドスキー創刊号Ski'63〜50周年号 ◇東日本大震災の発生により、3月11日以降の国内公認大会の多くが中止に。フリースタイル・ジュニア世界選手権大会の選手派遣も見送り。
 2011年9月に浦佐スキー場と、運営母体の浦佐スキー観光(株)が閉鎖。50年もの歴史ある浦佐スキー学校も消滅。
◇スキーの総合雑誌Ski2012 vol2 12/8発売(実業之日本社)。記念すべき50周年である。1962.10.15に創刊号Ski'63(総ページ数126)が生まれ(この年は1冊だけ)、この間に238冊を刊行(年平均4.76冊)。現存するスキー誌の中でもっとも古い雑誌である。
 ちなみに月刊スキージャーナルは1966年創刊。
 Skier(山と渓谷社)の創刊は1970年代である。1970〜76の間である。
 月刊『スキーグラフィック』は1978年(昭和53年)に創刊。
◇平成23年1月は、日本スキー発祥100周年
 日本に初めてスキーを教えたオーストリアの軍人テオドール・フォン・レルヒが、明治43年、日露戦争に勝利した日本陸軍の研究のため来日した。翌44年、13師団視察のため高田を訪れ、自費で作った軍用スキー10台を寄贈した。たまたまそのレルヒは、ズダルスキーから直にリエンフェルト・スキー術を学んだ高弟であった。スキーに関心を持っていた長岡師団長の願いにより、1月12日金谷山において軍人に対してスキーの指導が行われた。日本でのスキーの始まりになった。
2012 平成24年
◇第1回ユースオリンピック(オーストリア・インスブルック)
 ジャンプ女子の燉恪ケ羅、スノーボード・ハーフパイプ女子の大江 光が、各金メダル獲得。
◇ジャンプ・ワールドカップで、伊東大貴が初優勝含むシーズン4勝。ノルディック・コンバインドの渡部暁斗も、同様に4勝をマーク。
◇ジャンプ女子のワールドカップがスタート。燉恪ケ羅が蔵王大会で初優勝。
 磐梯ひじかたスキースクールが、1967(昭和42)年秋に猪苗代で誕生してから45年を迎え、そして3月で最後のレッスンを終える。感謝あるのみ
◇長野県スキー発祥100周年記念イヤー
 レルヒ少佐(オーストリア)により、日本に初めてスキーが伝来された。その翌年の明治45年(1912年)に、長野県の飯山中学(現飯山北高)体育教師の市川達譲が、飯山市にスキーを伝えた。以来100年の節目の年。
2013 平成25年
◇第50回ノルディック世界選手権大会(イタリア・バルディフィエンメ)のジャンプ競技。初採用された男女混合団体で、日本金メダル(伊藤有希、伊東大貴、燉恪ケ羅、竹内 択)。
◇ジャンプ女子・ワールドカップで、燉恪ケ羅が8勝を挙げ、初の総合優勝。
◇第14回大会フリースタイル世界選手権大会(ノルウェー・ヴォス)で、伊藤みきがモーグル、デュアルモーグルとも銀メダルを獲得。スキーハーフパイプの小野塚彩那も、同種目初の銅メダル獲得。
2014 平成26年 ◇第22回冬季オリンピック - ロシアのソチで開催。開催期間 2014年2月7日〜2月23日(17日間)
 日本チーム史上最多の7個のメダルを獲得(銀メダル4個・銅メダル3個)。
◇ジャンプの燉恪ケ羅選手が、ワールドカップ史上2人目となる2連続総合優勝を果たす 。'93〜'95シーズンにかけて3連覇した荻原健司に次ぐ二人目。
2015 平成27年 ◇葛西 紀明(レジェンド(生ける伝説)ジャンパー)が、第29戦オスロ大会で2位になり最年長表彰台記録を42歳282日に更新。総合成績で6位となり、2シーズン連続のトップ10入りを果たした。
◇2015/04/02? ヴァース(Varsフランス)会場で、時速252.632キロの世界最速記録を、シモーネ・オリゴン(Simone Origone イタリア)が樹立
2016 平成28年 ◇2016/02/13-14 男子アルペンスキーFIS ワールドカップ苗場大会開催。
 日本開催は10年ぶり、苗場では41年ぶりの開催。13日ジャイアントスラローム(GS)の勝者はアレクシ・パントロー(仏)。14日スラローム(SL)の勝者はフェリックス・ノイロイター(独)。
 ちなみに41年前の苗場大会SLで、ノイロイター父も表彰台に立っている。
◇2016/02/13現在。高梨沙羅(クラレ)は、スキー・ジャンプ女子W杯第13戦(スロベニア)は2位に沈む。
 その結果'16シーズンの13戦中2位が2回、残る11回が優勝。内10連勝という偉業。総合V確実だ!
◇燉恪ケ羅選手(クラレ)が、4戦を残して早々とワールドカップ総合優勝を決めた。日本選手タイとなる3度目の総合優勝は、15戦12勝、2位2回、4位と表彰台を逃したのは1度だけという安定ぶりで、圧勝。以前の2回の総合優勝は'13、'14シーズン。
◇レジェンド葛西紀明選手、ジャンプ男子最年長表彰台記録を「43歳8カ月」に更新、通算60回目の表彰台(2016.2.12現在)

Part-2(〜1896)  Part-3(〜1944)  Part-4(〜1979)  Part-5(1980〜)  Part-6(2000〜)

    topページへジャンプへ   参考資料へ   スキーの歴史menuへ   スキー学校と教師のお部屋へ   SKIスキーのいろいろページ
  参考資料